天皇制国家の「品位」とは——たとえば女性差別撤廃委員会への拠出金拒否とか…

秋篠宮一家へのバッシングはそろそろおさまるのだろうか。この国の頂点に立つ天皇の一族であるから、国家的・国民的規模で期待や望みをかけられ、バッシングもまた同様の規模で受ける。ここ数年の秋篠宮一家へのバッシングは、文字通りあの一家を「叩く」ものであった。現天皇が皇太子時代のその一家へのバッシングも同様だった。上皇が皇太子時代や天皇になりたての頃の妻・美智子へのバッシングも相当なもので、今のバッシングスタイルの始まりでもあった。美智子も皇后・雅子も、その娘である愛子も、社会・言論界からのバッシングで心身ともに病の域に追い込まれた。しかし、明仁や徳仁が即位し天皇として定着していくにしたがい、そういったバッシングも薄れていく。ゲンキンな社会である。

秋篠宮は昨年2024年の誕生日記者会見で、「いじめ的情報」、「皇室は生身の人間」等の発言をし、小さな波紋を作り出した。前者は悠仁のコピペ問題や大学入試をめぐる週刊誌・ネット上でのバッシング(そのほとんどが罵詈雑言で悪口)に対して、後者は政府案「皇族数確保策」とその議論のあり方に対する、秋篠宮からの一種のやり返しだ。
(「秋篠宮家バッシングがWEB署名にも広がる——悠仁の推薦入試枠での東大進学反対や秋篠宮のDNA鑑定を求める署名」参照)

波紋の一つであった保阪正康が『週刊文春』(24月12月12日号)に書いた秋篠宮を嗜める記事には、妙に考えさせられるものがあった。「品格」というものについて。

たとえば保坂は「皇族個人の発言としては、あまりにも”俗”に染まりすぎているように聞こえました」と、このように述べ、秋篠宮のメディア対応について「皇族の”聖”性を自ら壊すことと同じです」と批判。天皇・皇族は「聖」であるべきだとの主張だ。ネットの書き込みにいちいち対応するのは「いわゆる皇族のディグニティ(品格)が薄れてしまうのではないでしょうか」とも述べている。

保坂の主張には、天皇・皇族は「聖」であるという天皇観が前提にある。そして、それが「品格」にも繋がっていく。

保坂の文章はネット上の罵詈雑言に比べると論文の体をなした「品」のあるものかもしれないが、実は、「品」のない罵詈雑言の「悪口」レベルのものと同じ次元にある。バッシングも批判もそのほとんどが、「聖なる」「品格ある」皇室像を守るためのものであり、それぞれが夢想する皇室像だったり天皇制のためとして書き散らされている。大して違いなどなく、そういった人たちによってこの天皇制社会は維持されているのだ。

バッシングは当の皇室にとっては迷惑千万な話であろう。それでも批判者の多くは少なくとも天皇制支持者である。天皇制国家(政府やマスコミ)にとってはまんざら悪くないのだろうし、バッシングによる皇室の「痛み」など実はどうでもよいことなのだろう。

「品格」については書いておきたいことがある。

毎年決まった額の皇族費が国によって支払われているが、「皇室経済法」では以下のように規定している。

第六条 皇族費は、皇族としての品位保持の資・・・・・・・・・・・・に充てるために、年額により毎年支出するもの及び皇族が初めて独立の生計を営む際に一時金額により支出するもの並びに皇族であつた者としての品位保持の資・・・・・・・・・・・・・・・・・に充てるために、皇族が皇室典範の定めるところによりその身分を離れる際に一時金額により支出するものとする。

「品位保持」が皇族費支出の公的根拠なのだ。皇室に赤ん坊が生まれると、その赤ん坊にも「品位保持」のために年間305万円が支給される。生まれながらに保持する「品位」があるらしい。そしてこの法律の論理からいけば、私たちには保持すべき「品位」はないということになる。保坂のいう「品格」薄い「俗」の住人というわけだ。世襲天皇制の差別性がよく表れている。

保坂の論もネット上のバッシングも、この世襲天皇制の差別性を丸ごと賛美・容認することにつながり、逆にこの法律の理念が保坂たちの主張を作り出してもいるのだろう。おかしな社会である。

では、このような規定を作り出し維持したいこの国の品位とはどういうものなのか。たとえば、

今年(2025年)1月29日、日本政府は、国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)への日本の拠出金を、女性差別撤廃委員会(CEDAW)には使わせるなと、国連側に伝えたという。その理由は、同委員会が昨年10月、「男系男子」の皇位継承を定めた皇室典範の改正を勧告したことへの抗議の意を示すためだとか。

この日本政府の暴挙に対し、すでに抗議の声明など出始めている(たとえば、アジア女性資料センターが2月5日に出した「国連女性差別撤廃委員会への資金拠出停止に抗議し、撤回を求める声明」)。

私は「男系男子」に固執するこの日本政府にはうんざりしつつも、同委員会が勧告した「女性天皇容認」にも賛成できない(本サイト「『国連女性差別撤廃委員会勧告』への違和感:「皇室典範」改正で女性差別はなくならない」参照。だけど、この抗議声明には当たり前に賛同だ。

この国の「品位」とは、しょせんこのような暴挙をなす政府が口にするものなのだ。侵略戦争・植民地支配の責任につながる言葉や記念碑、証言、等々すべてのものをなきものとし、その記憶を作り変え、そのためのイベントや祝日、旗や歌を強要し、皇室を「伝統・文化」の継承者として敬愛させ、その皇室をつかって不都合な政治を誤魔化していく。そんな国が考える「品位」が皇室であり、皇室に求める「品位」や空疎な「聖」などというものもそのようなものなのだ。

「品位」・「品格」などという言葉をちらつかせる社会自体が胡散臭いが、いずれにせよ私たちは、これからもこれまで同様に天皇制社会の「品位」とは無関係に生きていくしかない。実際のところ「品位」などどうでもいいことだが、少なくとも「品位」の概念が変わる社会を目指していきたい。 橙

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