鉄火場宏
昨年末に、戦後80年となる今年(2025年)に、天皇と皇后が、広島・長崎・沖縄を訪問することが検討されていると報じられた。沖縄、広島へは6月、長崎には9月の予定とも。
また、1月23日には、硫黄島へも4月に訪問することが検討されているとの報道されている。
さらに7月にはモンゴルへの訪問も予定されている。モンゴルへは皇太子時代に徳仁は訪問しているのだが、天皇としての訪問は初めて。モンゴルには戦後に旧ソ連によって移送された抑留者が1万4000人いて、そのうちの2000人近くがなくなっている。ウランバートル郊外に、その日本人抑留者の慰霊碑があり、皇太子時代の訪問の際、徳仁は献花しているので、今回は天皇として改めて献花(慰霊)することは確実であろう。
今回の「戦後80年」の徳仁の各地訪問は、もちろん、マスコミ各社も報じるように、先代の明仁天皇(現上皇)夫妻が、「戦後50年の1995年に行った「慰霊の旅」の再演(10年毎の式年行事の引き継ぎ)である。明仁天皇は、1995年7月に広島・長崎、8月に沖縄と東京大空襲の犠牲者の遺骨を収める東京都慰霊堂(墨田区)を訪問した(前年の1994年には、硫黄島を訪問(この年は小笠原諸島の返還25周年であった)。
その後、明仁のこの「慰霊の旅」は、2005年(戦後60年)のサイパン、2015年(戦後70年)のパラオと海外での激戦地訪問へと続いていく(今回徳仁が行くモンゴルには行っていない)。
▪️「戦後50年 慰霊の旅」批判
「戦後50年」の明仁の東京都慰霊堂への「慰霊の旅」に際して、当時日本基督教団・靖国・天皇制問題情報センターの森山忞さん(現在は故人)は、以下のように批判している。
私の記憶では、東京大空襲は、戦後しばらく広島・長崎の原爆の陰にかくれて、いわば無名であった。しかし、一夜にして一〇万人の死者が出る大惨事である。人々は、何故このような大惨事がおこり、誰の責任なのかということについては、私の聞いた限りほとんど語らない。天皇・天皇制批判は聞いたことがない。/誰の責任なのか! 日本の敗戦は必至であったのに、政府が国体護持のために戦争を長びかせたために、三月一〇日、沖縄、広島、長崎の大惨事が起きてしまったのである。国体護持のためにおこった犠牲なのである。たんに戦争が長びいたために、犠牲が多くなったのではない。神聖天皇制の戦時下においては、天皇だけが絶対的価値であり、民衆は天皇のために死ぬことを強要された。民衆の生命は、牛馬のごとく軽く扱われた。日本人がかくも軽く扱われたのだから、アジアの民衆はどのようにされるであろう。侵略し植民地化する天皇制軍国主義の暴虐の下で、どれほど、アジア民衆はその尊厳を奪われたことであろう! 天皇制は実に残酷であった。天皇を神のごとく尊敬することを求め、人間の尊厳を奪った、これが天皇制の本当の姿である。全く非人間的な制度なのである。(「国体護持と天皇の慰霊旅行」『50→NEWS』No.10、1995年8月15日、敗戦50年問題連絡会刊行)。
また、天野恵一さんは、以下のような批判をしている。
天皇(夫婦)は去年(1994年)の二月一一日に、自衛隊の大軍事作戦を展開させつつ、あの大量の戦死者を出した硫黄島へ行っている。敗戦五〇年の今年は、被爆地、全島をまきこんだ地獄の地上戦を戦った沖縄、そして東京大空襲の死者がまつられている地へと「慰霊の旅」に出たのである。戦後の終わりの政治的演出をねらう政府は、天皇に「お言葉」ではなく「お気持ち」なる文章を事前に発表させるスタイルをとらせた。/この「慰霊の旅」に天皇自身の強い希望によって準備されてきたと、この間、マス・メディアはキャンペーンしてきたわけだが、この「お気持ち」という文章によって、天皇自身の意思が、よりクローズアップされるようにさらに演出されたわけである。/「平和天皇」の平和への強い意思なるものが、操作的に押し出されたわけだ。国事行為のみに限定されているはずの象徴天皇の枠組みが、さらに拡大されだしている。平和を主体的にアッピールする国家の政治家として天皇アキヒトがふるまいだしているのであり、政府(官僚)は、そのように象徴天皇制を活用しだしているのだ。/私たちは、まずこの政治権能を強化している点で「慰霊巡幸」儀礼を糾弾しなければならないと考える。/(略)/ただ、この間、「慰霊・追悼」のロジックが、「英霊」とたたえるというスタイルよりズーッとソフトになり、(略)日本人だけでなく、内外の戦死者をまとめて追悼するものになりつつある点には注目しておかなければなるまい。/この被害者と加害者をまとめて犠牲者として追悼するスタイルは、日本人のみのエゴイスティックなスタイルよりよいという評価をする人も少なからず存在するようだが、とんでもない話である。ここまで歴史的な責任を曖昧にすることを、侵略国の側が行うことは、欺瞞の上塗り以外のなにものでもないではないか。/結局、国家(天皇)が死を管理(追悼)すること自体が許されてはならないハレンチな政治行為なのである。国(天皇)は新たな死者をつくり出す準備をしながら、かつての死者を追悼してみせているだけなのだ。/私たちは日本の侵略戦争と植民地支配の責任と、それを曖昧にし続けている戦後責任を重ねて問う。そして天皇制国家の慰霊=追悼を拒否する。そして、それをふまえて米国の原爆投下の正当化を強く批判する。
(「戦死者の『慰霊』とは何か?」『50→NEWS』No.11、1995年8月25日、敗戦50年問題連絡会刊行)
いずれも鋭い「慰霊の旅」への批判である。
▪️慰霊・追悼による国家への包摂
これらに付け加えるとするならば、以下のようなことが言えるのではないか。
神聖不可侵な天皇制(自ら)の責任によって生み出された大量の死者を、「象徴」と形を変えたとしても継続した象徴天皇制が、「追悼する」ということは、それによって、死者(とその遺族)を天皇制国家の中に改めて回収(包摂)しようとする行為に他ならない。
戦前の天皇制の下で、天皇の赤子・臣民として天皇制国家に動員され死亡した人々は、戦後の象徴天皇制のもとで、慰霊・追悼の対象とされることで、再び天皇制国家に包摂されるのである(自らが天皇の赤子・臣民であることに疑いを持たない人々はそれを歓迎・希望するのであろうが、それこそが天皇制支配の戦前・戦後を通じての貫徹である)。
1995年の年頭に、天皇明仁は、「50年前,日本の国民は最も厳しい戦争の終局を迎え,戦後は困難な復興を果たしつつ,世界の国々との関係の改善に尽してきました。この節目の年にあたり,過去を振り返り,戦争の犠牲者に思いをいたすとともに,今日の繁栄を築いた人々の労苦をしのび,改めて世界の平和を祈りたい」と述べた。
「過去を振り返り,戦争の犠牲者に思いをいたす」(=追悼する)という天皇の行為は、同時に、戦争の実相に向き合うことを回避し、自らの戦争責任を糊塗する行為ともなるのだ。
天皇の「慰霊の旅」(自然災害被害者への慰霊も基本的に同様だ)は、戦後の天皇制の延命(継続)を「国民」との関係で実質化する(関係を担保する)ための、いわば、天皇制の保身のための行為である。
大元帥として戦争・植民地支配を遂行し、日本で310万人、アジアで2000万人の死者をもたらした天皇(制)がするべきこと・できることは、「慰霊の旅」なのではなく、戦争・植民地被害者に謝罪して、日本の国家から「降りる」(天皇制を廃業する)ことだけであろう。
侵略戦争・植民地支配の責任の追及は、天皇制国家ではない、別の主体が立ち上がらなくては不可能だからである。