存在としての天皇そのものへの批判を──「五輪懸念拝察」発言めぐり

中嶋啓明

多くの民衆の抗議と反対の声を無視して、ついに東京五輪が強行開催されようとしている。まさに植民地下。この間、見せつけられたのは、IOCの靴の裏まで喜んでなめ回す奴隷根性丸出しの天皇制国家日本の菅政権と小池都政の実態だ。

五輪開会式まであと3日に迫った7月20日になって、宮内庁はやっと、23日の開会式への徳仁の出席を発表した。雅子は出席せず、また、コロナ禍で大半の協議が無観客開催になったためとして、2人やその他皇族による競技観戦は行われないことになったという。

ここに至ってもまだ、徳仁が「開会宣言をする方向で調整が進んでいる」段階だという(共同通信7月20日配信)。

同日の別の記事では、開会宣言について、「政府と大会組織委員会が新型コロナウイルス禍を踏まえ、開催を祝う趣旨の文言を盛り込まない方向で調整を進めている」と報じられている。開催条件などを成文化した五輪憲章には開会宣言の例文が明示されているが、英文の宣言の一部には「celebrating」が使われ、1964年の東京五輪で昭和天皇裕仁が「祝い」と表現するなど、今回も同様に和訳で「祝い」と表現すると見込まれていた。だが、感染状況が悪化する中、祝祭感がある表現を極力抑える方向で調整することになった、というのだ。

天皇=元首。五輪をめぐる話題ではもう、この定義が疑われることはない。

加藤勝信・官房長官は9日の記者会見で「五輪憲章では元首が開会宣言することになっているが、具体的には現在、関係者間で調整されている状況だ」と述べたが、その際、天皇が元首かどうかを突っ込んで尋ねた記者などいなかっただろう。メディアはすでに、当然の前提として天皇を元首として扱い、報道している。天皇元首規定を盛り込んだ自民党の改憲案は、オベンチャラまみれの天皇報道の後押しを受けて、はるか以前から現実が先取りしてしまっている。

これに先立つ6月24日、宮内庁長官の西村康彦は定例会見で、新型コロナ禍の中での五輪開催で徳仁が心配しているとの西村自身の見方を明らかにした。会見で西村は次のように語ったという。

「(五輪の)開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されていると拝察している。」
 西村は「直接そういうお言葉を聞いたことはない」と予防線を張りながら、徳仁の「懸念」について「私が肌感覚として受け止めている」と断言した。

報道によると、西村は記者からの再三の問いに「陛下はそういうふうにお考えではないかと、私は思っている」と繰り返し、「私の拝察だ」と強調した。記者側は「発言が報道されるとかなり影響があるが、このまま発信してもいいのか」とまで念を押したらしい。天皇の言動に関する話だと、メディアはここまで慎重になるのだ。いまいましい。

案の定、発言が公になると、例によってメディアは、徳仁の鶴の一声から何とか政治色を抜き、そのうえでそれを自らの主張に都合よく解釈、利用しようと躍起になる言説で埋まった。

菅義偉首相や加藤官房長官ら政府側は「長官本人の見解だ」と強調。長官自身も再三、断っていたのだから、政府側の受け止めは、その限りでは正しいというほかない。一方、開催強行に批判的な野党は、「大御心」を惑わしてはならないとばかりに居丈高に政府を追及。例えば立憲民主党の安住淳・国対委員長は「西村氏個人の意見だと思う国民は誰もいない」と主張し、「無視するような態度で、謙虚さがない」と、菅らの反応をこき下ろした。

五輪開催が感染拡大につながることを「懸念」するなど、開催を肯定する側にとっても、批判する側でも、どちらも同意しうる主張でしかない。開催したいと考える側にとっては、「だから感染対策を万全にする」と強弁し、批判する側は「だからやめろ」と言い得る。「懸念」など、意味ある内容を何も言っていないに等しい。開催が強行された際には、「慎重に行え」とのありがたきお墨付きとなり、たとえそれによって感染が広がったとしても、「陛下は感染対策を促されていた」と、責任追及の枠外に逃れることができる。

これぞ天皇の行動様式、「無責任」の象徴だ。にもかかわらず、天皇の「お考え」だからと、錦の御旗に掲げる。「拝察」とは何かとアレコレ偉そうに〝解説〟してみせ、『天皇「五輪懸念」vs.菅「皇室は観光資源」』(『週刊文春』7月8日付)、『天皇陛下「私が国民を守る」』(『女性自身』7月13日付)等々等々、喧しい。アホクサイとしか言いようがない。

『サンデー毎日』7月18日号は、牧太郎と青木理の連載を見開きの紙面に並べて載せた。徳仁の「懸念」とやらを、ひたすらありがたがる牧の『天皇陛下が懸念されるのは「パンとサーカス」が向かう暗黒だ!』は問題外だが、青木の『「拝察」の眺め方』にもちょっとした違和感を抱いた。『長官は政権側とも十分に事前調整し、ある種の落としどころとして「ご懸念を拝察」することにした』との分析には流石と思わされたが、「政権に対し、天皇が強い懸念を抱いていることを示唆した」との長官発言に対する評価はどうなのだろう。「懸念」は「人々の普通の声を代弁したにすぎない」とは。「天皇の言動に政治性を見出すのは断じて避けるべき」と考えているというのに。

徳仁は実際に「懸念を抱いている」のかもしれない。だが、そんなことは、どうでもいい。「言動」の受け手が「政治性を見出す」のではなく、「言動」を発する存在が、ある政治状況を創り出す、その構造自体が問題なのだ。

政治的存在としての天皇(制)そのものを撃つことなしに、発言の意味をあれこれ都合よく取り沙汰することはもちろん、「言動に政治性を見出す」「天皇の政治利用」だけを批判しているのでは、天皇制の手のひらの上で踊らされている言論状況から、真に抜け出すことはできないのではないか。

*初出:「今月の天皇報道」『月刊靖国・天皇制問題情報センター通信」no.202, 2021. 7

カテゴリー: メディア批評, 天皇制問題のいま パーマリンク