天皇の戸締まり(7)行為する言葉——天皇の表象とその受け手の問題

野毛一起

前回は、明仁天皇の短歌を取り上げ、それらが「言語行為」としてあることについて話しました。天皇の短歌は、「受け手」にとって芸術やアートにおける「良い/悪い」「響く/響かない」に関わるものではなく、それを「受容するか/しないか」に関わる情感によって成立するものです。そのための溶媒として一定程度の「美の様式」を備えているのです。

そして、天皇の言葉が現存するこの空間に、自分(受け手)もまた存在することを(無意識にでも)受け入れた時、まるで化学反応のように、その言葉が「言語行為」として発現するのです。こうして天皇の言葉は、「天皇の主体」とともに「受け手の主体」を立ち上がらせます。

これを「内なる天皇制」の問題と捉えることもできます。ですが、その場合、ひとつ大きな課題があります。というのは、この「主体」をめぐる問題は、そもそも近代人間主義の枠組みを持っており、「変容的主体」を前提にしたポストモダンにおいても、なお人間主義の枠組みが(残滓であれ)機能しています。さらに、「人間としての権利と自由」「人間として生きるための教育や自立訓練」「〈人間性〉の未来」、それらとセットになった「合法的排除と周縁化」。つまり「〈人間〉になり切れない者」を〈障害〉として周縁化する管理/福祉政策や「〈人間〉とはいえない者(民主主義を破壊する存在)」に対する合法的排除と抹殺など、こうした近代人間主義的な政治状況が、様々なヴァリエーションをなして、いまなお強固にあります。

ですから、「内なる天皇制」を論じる時、この近代人間主義的な「主体」をどう解消しているのかが問われるのです。普遍的な構造をなす「自己主体」に拠って天皇制と対峙するのであれば、「内なる天皇制」の問題はつまるところ「良い主体」(友)と「悪い主体」(敵)との間で、「友敵関係」による対立(内乱)に終わる可能性があります。

カールシュミットが戦争論で展開した「友—敵理論」は、まさにフランス革命以後の近代人間主義がもたらした暴力理念なのですが、そこからはとうてい抜け出せないことを意味します。天皇制と対峙対抗する理念自体が、同根の人間主義的「主体」のなかで堂々巡りをするのを避けなければならない。「内なる天皇制」はこのような課題を負っているのです。それについては、また後で述べましょう。

徳仁天皇の言葉の特徴

徳仁天皇制もまた普遍的な人間主義の色彩を帯びています。民主主義と相乗りの天皇制、つまり象徴天皇制という政治形態の中では当たり前といえばそれまでですが、まずはその実際をいくつか拾ってみましょう。

以前にも紹介しましたが、今年(2024年)6月に岡山県で開催された「第74回 全国植樹祭」で、天皇徳仁はこのように言っています。

森林から生産される木材は、昔から住宅などの建築物を始め、家具や食器など様々なものに使われており、私たちの暮らしに欠かせないものとなっています。こうした恵みをもたらす森林を、健全な姿で未来の世代に引き継いでいくことは、私たちに課せられた大切な使命であると考えます。

(「木を伐って・使って・植えて・育てる」という林業のサイクルによる〈引用者注〉)循環型の木材の利用や健全な森林づくりの輪が、ここ岡山の地から全国へ広がり、そして将来の世代へとつながっていくことを願い、私の挨拶といたします。

【参考】2024年「第74回 全国植樹祭」(岡山)1:22:29より徳仁天皇の発言
https://www.youtube.com/watch?v=oXnah5Nhf3Q&t=15s

いわゆる徳仁天皇の「おことば」ですが、「植樹祭」であれ「豊かな海づくり大会」であれ、様式は決まっています。すなわち、最初に当該地の風土や歴史に短く触れたあと、現地で取り組まれている事業を取り上げる。次にその関係者をねぎらうとともに、その「苦労」が将来に向けた意義ある使命だという。そして最後に、このことが全国全世界に注目され広がっていくようにと願う言葉で締めくくる。

この「おことば」の様式は、先代の明仁天皇からほとんど変わっていません。1997年の「第48回全国植樹祭(宮城県)」での明仁天皇の言葉と比べてみましょう。

一方世界に目を向けると森林は各地で著しく減少しており,持続可能な森林資源の保護育成は極めて重要な国際的課題になっております。

この世界の現状を深く認識し,これまで森林を守り育ててきた人々の苦労に思いを致しつつ国内森林資源の育成と活用に努めることが大切と考えられます。

かつては鬱蒼と茂る森林であったこの青少年の野外活動の拠点を会場に行われる今回の植樹祭が,緑を愛し,森を守り育てる機運を更に高め,緑豊かで安らぎのある国土を築く契機となることを心から希望いたします

【参考】1997年「第48回全国植樹祭」(宮城県)」での明仁天皇の発言
(以下の宮内庁のHPにおける植樹祭の天皇の言葉一覧にあり)
https://www.kunaicho.go.jp/20years/20kiroku/syokujusai.html

天皇が代替わりして「おことば」の書き手も側近も大きく変わっただろうに、そっくりそのままの様式と内容が繰り返されています。中身がなく、つまらない文言に思えますが、ここでは同じ言葉の様式(天皇の言葉)を保ち続けることに意味があると解釈することもできます。

さらに、明仁天皇の「持続可能な森林資源の保護育成は極めて重要な国際的課題」という文言、徳仁天皇の「循環型の木材の利用や健全な森林づくりの輪が、ここ岡山の地から全国へ広がり、そして将来の世代へとつながっていく」という文言は、ともにSDGsに設定されているような環境対策をなぞるものです。

徳仁天皇制の特徴

しかしよく見ると、多少の変化もあるようです。明仁天皇は「国際問題」だといいながらも、森林資源の育成と活用を「国内」や「国土を築く」方向へとまとめあげている。それに対して、徳仁天皇は「未来の世代に引き継いでいく」「将来の世代へとつながっていくこと」などと繰り返し言い、課題を未来に開いていく。そこでは、あえて「国土」とか「我が国」とか言わずに、未来の世代への連続性を強調しているのです。

この変化はおもしろい。SDGsの課題を取り上げ、何十年いや何百年先の未来のために、今ここで何をするのが効果的であるか。そういう「長期主義」的な用語を好んで用いるのは、アメリカのシリコンバレーの大富豪たちなのですが、徳仁天皇の言葉にもそういった類いのフレイバー(香りづけ)があるというところでしょうか。

しかし、それこそ人間主義に基づく理念といえるのです。人間が幸福で豊かに発展し続けること。それが圧倒的に善であり、その「人間」という普遍性は未来永劫に耐えるものであるとすること。それゆえ「人間未満」「規格外の存在」を未来社会にはつながないという優生思想を隠し持っている。

こうした胡散臭い思想を「未来の世代に引き継いでいく」「将来の世代へとつながっていく」とすらっと言ってのけたのが、先の徳仁天皇の言葉なのです。それは「未来に引き継いでいく」価値がないものは要らない、ということでもあるのです。

長期主義的人間観

シリコンバレーの大富豪たちは、そのことを巧みに展開しています。彼らは慈善事業に巨額の寄付や投資をする財団を設立しており、SDGsの枠に沿って活動する人権団体や環境保護団体に多額の資金を提供している。それによって一部貧困の解消がなされ、感染症のワクチンも届けられることになる。そのための何億ドルという金が動く。そういう金は彼らの資産の数パーセントにも及ばないものですが、そんな資本(小国の国家予算並み)を効果的に使えば、遠い未来に向けて課題を解決できる、そして人間社会の連続が保持できるというのです。環境破壊、パンデミック、貧困、人権の蹂躙などが山積みになっている現世界を変革しながら、健全な未来へとつなげてゆく。その未来をもたらす資本と力を持っていることを、彼ら大富豪たちは存分に誇示しているのです。

だが、そこには慈善事業とはいえない面もあります。マイクロソフトのビル・ゲイツは、かつて高校教育にインターネット設備やパソコンを導入する「教育支援」をしたのですが、その慈善行為は、結局、自分の基盤を固めることにも役立つわけです。トランプ大統領のもとに入ったイーロン・マスクだって何を企んでいるかわからない。

こうした人間主義から派生する慈善事業に名を連ねることで大富豪たちが利益を得るのは、それだけではありません。というのは、階級概念ではとても追いつかないほどの圧倒的経済格差の頂点にいながらも、彼らの巨大資本が「未来のための善(=必要悪)」として意味付けられ、その存在意義をゆるぎないものにするからです。「ヒーロー」とさえ称賛される。そのことで彼らの「犯罪的」な巨大資本は不問にされる。

徳仁天皇は、そういう意味合いを持った「人間主義」的なフレイバーによって、何をしようとしているのでしょうか。

明仁「司牧権力」から徳仁「何かをする」天皇へ?

ところで、今年2月の天皇誕生日インタヴューで、徳仁天皇はこのように語りました。

皇室の在り方や活動の基本は、繰り返しになりますが、国民の幸せを常に願って、国民と苦楽を共にすることだと思います。そして、時代の移り変わりや社会の変化に応じて、状況に対応した務めを果たしていくことは大切であると思います。

皇室を構成する一人一人が、このような役割と真摯に向き合い、国民の幸せを願いながら一つ一つの務めを果たし、国民と心の交流を重ねていく中で、国民と皇室との信頼関係が築かれていくものと考えております。

宮内庁広報室やSNSに関する質問に対しては––

これまで、私と雅子は、様々な行事の機会に、あるいは災害の被災地のお見舞いや復興状況の視察のために、各地を訪問してまいりました。

その際には、国民の皆さんの中に入り、少しでも寄り添うことを目指して、行く先々で多くの方々のお話を聴き、皆さんの置かれている状況や気持ち、皇室が国民のために何をすべきかなどについて的確に感じ取れるように、国民の皆さんと接する機会を広く持つよう心掛けてまいりました。

と答えています。

【参考】2024年2月、徳仁天皇の誕生日インタヴュー(NHKの報道)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240223/k10014367841000.html

ついでですから、明仁天皇の言葉と比べてみましょう。以前にも触れたことがありますが、退位の意向を示した2016年8月8日の「ビデオメッセージ」からの引用です。

天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました(……)

(……)これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な,国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

【参考】明仁天皇が退位の意向を示した2016年8月8日の「ビデオメッセージ」
https://www.youtube.com/watch?v=jW9ObpFgCP8

「常に国民と共にある自覚」を持って「信頼関係を築く」のが天皇の役目だ、という言い分は両者に共通しているようです(ただし、繰り返し指摘しますが、「象徴天皇」のありかたについては、天皇側が決めることではなく国民の側が要求する。それが「民主憲法」の基本理念でしょう。ですから、本来、天皇はこのような発言をしたり、記者会見などで発言させたりしてはならないはずです)。

しかし、考えてみるに、明仁天皇の天皇観はまるで「司牧者」ですね。羊の生育を見守り、群れの繁栄のために心を砕く。そしてかよわい羊のために祈る。こうして羊の群れと司牧者は「深い信頼と敬愛」の絆によって結ばれていると。明仁天皇は「国民の羊飼い」なんですかね。明仁天皇制にはキリスト教のフレイバーが効いている。だから神道祭祀との相性がよくないように見えるのか。それとも本来、これはキリスト教思想の問題か?

この「司牧者権力」の危うさについては、今ここでM・フーコーを持ち出さなくても、問題点は明らかでしょう。こんなものに騙されて「お優しい天皇さま……」などとうっとりするのは、宗教的な媚薬効果も加わっているからでしょう。

それにしてもさらに危ういのは、「皇室が国民のために何をすべきか・・・・・・・・・・・・・・・などについて的確に感じ取れるように」(傍点は引用者)という徳仁天皇の発言です。これは問題発言ですね。たとえ「国民のため」であれ、「何かをする天皇」など望んでいないし、現行の「象徴天皇制」の枠付けからもはみ出している。

天皇が「何かをする」時には、いつもろくことが起こらない。このことを決して忘れてはならない。昭和天皇が「何かをした」時は、隣国への侵略と植民地化や国民弾圧だったではないか。そのことから「戦後憲法」では、天皇には「何もさせない」ことにしたはずです(天皇の罪を問わないことと引き換えに。私はそのことを認めていませんが)。天皇徳仁はそういう歴史的経緯をまったく自覚的に捉えていないか、あるいは無視した発言をしたというしかありません。

明仁天皇はそこまで露骨な態度はとりませんでした。というかもっと巧みに振舞ってきた。ただし終わり近くになって「退位表明」のビデオメッセージでは「本性」が現われて、憲法に反する政治的な意見表明をしました。しかし、それまでは明仁天皇は「国民を思い、国民のために祈る」姿を演出し、「司牧者」(国民に対する「司牧権力」)のように振舞ったわけです。もちろん、それだって「何かをする」ことには相違ないわけで、根拠のない「公的行事」や外交活動に皇室ともども動き回り、ソフトな支配権力を象徴した・・・・のでした。国家予算を使いながら。

ところが、徳仁天皇の発言からは、それ以上に、「何かをする」ことが天皇の「あるべき姿」だ、と考えているフシが窺えるのです。これはとてもイヤな感じですね。

明治天皇から大正天皇、昭和天皇そして明仁天皇に引き継がれてきた天皇のカリスマ性が減少するなか、さらに社会がこれほど脱宗教化してくると、国家神道であれキリスト教の精神であれ、既成の宗教カリスマは効き目がない。かといって天皇(教)カルトを創り出すわけにもいかず、徳仁天皇にはやや焦っている気配があります。ですが、焦っている天皇ほど危険なものはない。

天皇徳仁の言語行為

今年2月の天皇誕生日インタヴューで、能登半島地震に関連して、この地域には貴重な伝統産業があり、それもまた大きな被害を受けたと、徳仁は雅子とともにビデオに登場して語りかけました。その際、背後にとても立派な輪島塗の飾盆が立てられ、前の机には輪島塗の懐紙箱が置かれていました。輪島塗だけではなく、他の伝統工芸品も飾られてありましたが、何といっても露骨なほど輪島塗が目立ちました。するとどうでしょう。今年の秋、輪島塗の代表的人物がしっかり叙勲されているではありませんか。地震の復興事業などに携わった人たちも一緒の叙勲ではありましたが。天皇が「何かをする」とは、こういうことでもあるのかと思いました。

私は輪島塗を誹謗しているのではありません(入手するつもりはないですが、それにしても手が届かないほど高価であることに悪感情は抱いていますが)。

こういうふうに、天皇の言語行為の連鎖は、陰湿かつ強力である。そのことを指摘しておきたいのです。

植樹祭での天皇の言葉も、「次世代に豊かさをつないでゆく」ことを願う、という一見ありきたりの挨拶に見えます。ところが天皇が公式の場でそれを発したとなると、この文言は強い言語行為として機能します。

この言葉がそのまま放っておかれることはない。例えば「循環型の林業事業」に補助金が付けられる。あるいは、関係団体が表彰されるなど様々な連鎖が生じるのが常なのです。

言語行為のなかで起きていること

このような天皇の言語行為の連鎖のなかで、「言葉の受け手」の側で何が起きているかということですが、端的に言うと、命題の論理の逆転です。

〈循環型林業によって「恵みを未来の世代につないでいく」ことができると天皇が言った〉という命題は、〈未来につなぐためには循環型林業にすべきだ〉というふうに逆命題になっていきます。そして、それが天皇が望んでいるという言葉と重なって、さらにこの命題は〈天皇の言葉が我々の未来を保証する〉というふうに折り返されて変形していくのです。

すなわち、主人が下僕に直截に命令を下すのではなく、あえて忖度が必要な言葉によって天皇が何かを言う。すると、それは強い言語行為となって、言及された内容以上のことがなされることになる。

これはほんの一例にすぎませんが、言葉の送り手である天皇とその受け手である人たちとは、必ずしも一直線でつながってはいません。逆になったり裏返しになったり、変形しながら連鎖する言語行為の中で関係性を持っているのです。このことを天皇からすると、「国民との信頼関係を築」いているということになるのでしょう。しかしそれが「信頼関係」といえるものではないのは明らか。

天皇は社会貢献や文化活動などをしている人々をはじめ、広範に「金一封」を与え「授勲」します。この「偽善」のばらまきは実に不愉快ですが、それでもその規模はシリコンバレーの大富豪たちに比べると「雀の涙」でしかないのです。それなのにヒーローを気取り、いや、それ以上の存在として振る舞うことができるのはなぜか。

それは(本当は財力もかなりありますが)天皇の力が、先ほど述べた言語行為の連鎖を引き起こす「象徴権力」を持っているからなのです。富豪たちが何臆ドルという金をばらまいて、自らの「善力」を誇示する「努力」に対して、天皇はわずかな金をばらまいて、「おことば」をすれば、日本のヒーローになれるわけです。そして天皇(制)が存在すれば、豊かな日本の未来世代につながると信じさせることもできる。こうして天皇(制)は「善」を獲得するのです。どう考えてもこんなものは要らない。

天皇が示す「人間社会の未来」

徳仁天皇制と長期主義的人間主義とは同質ではありません。規模も視点も異なっています。

そもそも徳仁天皇制は、世界では通用しません。世界で通用するためには、もっと別の大きな力が必要でしょう。世界のなかで日本が占めているレベルを超えることは決してないのです。ですが、地球と世界の未来へと人間社会をつなぐことのできる力を持っていると誇示するあたりに、長期主義と似たような雰囲気(フレイバー)を感じさせるのが気になります。

徳仁天皇が「何かをする」というのは、そのあたりのことと関連しているのでしょうか。

「長期主義」の観点からすると、資本は「善」であるとされていると先に述べました。そして、その「善を遠い未来のために施すこと(慈善)」が、人間の未来を救済し、人間社会の連続性をもたらすと考えられていると。ですから、人間社会の危機を指摘するSDGsの諸課題は巨大資本とその権力によってこそ解消されるのだという論理です。天皇はそれに貢献したいし、貢献できるというのでしょうか。天皇徳仁があたかも「水の問題」の専門家のように講演をしていますが、そういえば「水問題」もSDGsのひとつですね。

人間主義的な意味での「人間」とは不気味なものです。たとえ、もし個人の欲望や感情を取り上げることがあったとしても(ロマン主義)、それは個別に解消される概念ではなく、「群れ全体」あるいは「集合名詞」になっているのです。情緒や情感が取り上げられたとしても、飽くまでもそれらの普遍性が問われているのです。

これは、天皇が「国民」という言葉を口にする時も同様です。すなわち、天皇が口にする「国民」も「市井の人々」も「未来の世代」も、すべてひとりひとりの場に解消されるものではなく、普遍的な「人間像」に回収される集合体なのです。

「情動社会」の天皇制

「情動社会」における天皇制––。実はこのことを今回のテーマにしようと書きはじめたのですが、そこにいたる問題の整理をしているうちに、紙幅を費やしてしまいました。しかもこのテーマについて話すとまた長くなりそうです。ですから続きは、残念ですが、次回にさせてください。

ただ、今までの話とどういう関連があるのかについて、少し書いておきます。

次回には、宮内庁が4月からはじめたインスタグラムでの皇室情報の発信ですが、そのことが天皇制にとってどういう意味と作用をもたらすのか、について考えたいと思っています。それについては、昨今の衆議院選挙や知事選挙などを見るにつけ、そこで多用されたSNSが従来の選挙のありようを大きく変えた、そのことが参考になりそうです。

そこで見られた現象は、言葉を媒介にする「認識」の共有ではなく、「情感」によるコミュニケーションの作用でした。これは従来とは異なる「力」の伝播を感じさせる現象です。

「言語行為」によって「受け手」に作用する天皇の「おことば」の象徴権力がある。そのことを、これまで話してきました。しかし、同時に、言葉の力によって「主体」が動かされるのではなく、情報による刺激から生じる感情を「主体」に置き換えて行動する、そういう意味合いでの「情動・・社会」のありようが顕著になっているのです。そして、その社会に天皇制があることについて考えなければならないのです。

天皇情報のインスタグラムは、そういう事態を予感して設置されたものといえます。ですから、次に問題にすべきなのは、まさに「情動社会の天皇制」なのです。「情動社会」における情報の「送り手」と「受け手」の関係から、天皇制の「力」の伝播のありようを考えたいのです。

さらに、今回最初に触れた「内なる天皇制」の課題も残っています。「情動社会」では「内なるもの」あるいは「主体」の概念が大きく変容しています。あるいは「内なるもの」が希薄化している可能性があります。その観点から、最初にふれた「内なる天皇制」と人間主義的「主体」の問題も、次回に扱いたいと考えています。

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