野毛一起
前回は、天皇の言葉、それが表象権力として、どのように作用するのかについて話しました。今回はそのつづきですが、前回取り上げることができなかった天皇(や皇族)の短歌について話します。
ただし、私は短歌を詠みませんし、短歌や短歌界隈についても詳しくありません。宮殿「松の間(格式高い儀式を行なう場とされており、即位礼では「高御座」が設けられた)」で、毎年正月に「歌会始の儀」があり、そこで一般公募の短歌のあと皇族や天皇の短歌が詠まれる儀式があること、そのテレビ中継があることなどは知っていました。さらに、そこで詠まれた天皇や皇后の短歌をもとに歌集が出版されることも。
ですが、そのような短歌の儀式は特定の歌人や限られた短歌界の人々に影響を与える程度だろうと、さほど注目してきませんでした。
今年の「歌会始」を見て考えたこと
ところが、たまたま今年の「歌会始」で詠まれた短歌を聞いて、少なからず驚くことがありました。それはこういう短歌が詠まれたときのことです。(以下の動画を参照のこと)
「それいいね」付和雷同の私でもこの恋だけは自己主張する
・2024年「歌会始」(テレビ東BIZ)。(7:50から、引用の短歌が朗読)
https://www.youtube.com/watch?v=c8XmawUuy9s
今年の最年少、高校2年生の入選歌です。1987年の『サラダ記念日』(「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日)で、俵万智が近代短歌の定型を破り、新たに口語短歌を確立して以来、Z世代と呼ばれる若年層にもSNSを媒介にする短歌が広がりました。数年前から現代短歌ブームになっています。ですから、口語表現や会話文や「ら」「い」抜き言葉の短歌が「歌会始」で選定されても、一向に驚きません。
2023年の入選作にも
友の呼ぶ僕のあだ名はわるくない他のやつには呼ばせないけど
という14歳の中学生の短歌があります。
2021年の佳作に選ばれたもののなかにも
実感がどうしてもない私が中学一年だといふことが
という中学生の作品があります。さらに同年の佳作に、
真夜中に頭を撫でてくれたとき母さん実は起きてたんだよ
というのがあります。この歌は、疲れ果てて寝ている母親を気遣う娘のことを詠んだもので、母親が中学生の娘に向けた会話口調が効果的です。おそらくこの口調でないと成り立たない短歌です。
「歌会始」に応募する短歌の言葉がこういう状況ですから、宮内庁が「伝統行事」とうそぶく「歌会始」に、「伝統的表現(皇室は旧仮名遣いの歌を詠み、入選作の多くもそれに従う)」とはかけ離れた現代口語短歌やSNS短歌風のものが選ばれたとしても驚くべきことではない。そもそも根拠のない「伝統」なのだから、なんでもこじつけ可能なのでしょう。
だけども驚いたのは、現代の会話口調がそのまま盛り込まれた短歌であっても、無理やり「歌会始」の形式にのっとり、独特な節をつけて長ぁく引き伸ばして詠まれることでした。先ほどの高校生の短歌も
「それいいねぇ――――――――――――――――ぇえ」………
「ふわらいどうのぉ―――――――――――――――ぉお」………
「わたしでもぉ―――――――――――――――――ぉお」………
などと、存分に間を取りながら歌われると「え? なに? これ、どういうこと」となって、違和感で感覚が麻痺しそうになります。テンポが速くて軽妙な現代曲を、古代楽器の笙・篳篥・龍笛などで無理やりねばっこく引き伸ばして演奏しているような感じです。さらにこんなふうにも思いました。その短歌は、今まさに天皇の前で正装し、新たな衣を纏って披露されている。しかしそのことで、歌は本来の場やその心的環境を失って、天皇を喜ばせる芸能に成り下がってしまった。それは、ある意味、とても悲惨な光景です。
私はこの高校生の短歌をあざけっているのではありません。〈「それいいね」付和雷同の私でもこの恋だけは自己主張する〉--この歌自体はそれなりに面白いのです。
百人一首に平兼盛の「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」という歌があります。この兼盛の歌をひっくり返し、また切り返すような形で、現代女性としての「主体」を前面に出している。これが面白いといえば面白い。俵万智の〈「この味がいいね」と君が言ったから〉という短歌とも違う視点を持っています。ただし「女性としての主体」や「恋愛と主体との関係」が、さらにどう問われていくのかは分からない。実はそこから重要な課題が形成されるわけですが、残念ながら歌はその手前で切れています。それを「女子高校生らしい」とでも思って、高齢の選者たちは取り上げたのでしょうか(くだらない)。それとも、女性皇族たちの思いをシニカルに表わす歌として選んだのでしょうか(たぶん、これはないな)。
ともかく作者の意図と選者の思惑は異なります。歌が選ばれた理由やどのように解釈されたのかについては、なんとも言えません。ただし選考の基準に関しては、それが無いように見えて実はあるはずです。そのことが気になりました。
さらに、これほど感覚的に違和を感じさせる天皇主催の儀式--「歌会始の儀」を催す意図は、どこにあるのだろうと思います。そこに参加した歌人たちは、現代短歌の表現があのように天皇貴族の間延びした音感で歌われることに満足しているのだろうか、もしそうだとすれば、その感性に疑いを持ちます。彼らの言い募る「文学性」も「美」もあったもんじゃない。にもかかわらず、選者も召人も詠進歌の作者たちも揃って「(歌会始に選ばれて)とてもうれしい」「長年の苦労が報われた」「この上ない栄誉をいただいた」などと、まるで勲章をもらったように喜んでいる。
こういう文学・文藝のありかたって、いったい何だろうと思うのです。
明治天皇のもとでの「歌詠み」の儀式
宮内庁は「歌会始」について、
「天皇がお催しになる歌会を「歌御会」といいます。宮中では年中行事としての歌会などのほかに、毎月の月次歌会が催されるようにもなりました。これらの中で天皇が年の始めの歌会としてお催しになる歌御会を「歌御会始」といいました。
歌御会始の起源は、必ずしも明らかではありません。鎌倉時代中期、亀山天皇の文永4年(1267年)1月15日に宮中で歌御会が行われており、『外記日記』はこれを「内裏御会始」と明記しています。以後、年の始めの歌御会として位置づけられた歌会の記録が断続的に見受けられます。このことから、歌御会始の起源は、遅くともこの時代、鎌倉時代中期まで遡ることができるものといえます。
歌御会始は、江戸時代を通じほぼ毎年催され、明治維新後も、明治2年(1869年)1月に明治天皇により即位後最初の会が開かれました。以後、改革を加えられながら今日まで連綿と続けられています。」
と説明しています(https://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/utakai.html)。
「今日まで連綿と続けられ」という決まり文句があり、それを「伝統儀式」の根拠にしたいようです。ですが「連綿」という言葉は、事実としてではなく感覚的希望的に捉えるものでしかありません。明治天皇のもと国家的文化儀式として復興されたものであることは明確です。鎌倉・室町・江戸の武家政権下、公家や皇族が集まって細々とやっていたものを別物の国家的行事に再編したのです。それを「連綿と続けられ」てきた伝統行事であるといい「伝統」化することは、「新しい事実」を歴史的な根拠にするようなもので、論理的にも破綻しています。ここにも「日本神話」の捏造と同様の手法が見られます。
「歌会始」の仕組み
現在の「歌会始」という名称やその仕組みを確立したのは昭和天皇でした。1928年です。大正天皇の喪があけたその年の秋に裕仁の即位礼と大嘗祭が予定されていましたが、それに先駆けて正月に裕仁天皇の下での「歌会始」が初開催されたというわけです。
その時に名称も仕組みも現在のようになりました。これについても宮内庁の説明を引用します。
「毎年1月の歌会始の儀では、天皇皇后両陛下の御前で、一般から詠進して選に預かった歌、選者の歌、召人の歌、皇族殿下のお歌、皇后陛下の御歌と続き、最後に御製が披講されます。皇嗣殿下をはじめ皇族方が列席され、文部科学大臣、日本芸術院会員、選歌として選ばれた詠進者などが陪聴します。
この儀式は、読師(司会役)、講師(全句を節をつけずに読む役)、発声(第1句から節をつけて歌う役)、および講頌(第2句以下を発声に合わせて歌う役)の諸役によって進行されます。」
テレビの中継映像を見ると、次に読まれる歌の作者は起立し、天皇に向かって深々と頭を下げる。そして講頌の朗詠が終わるまで起立している。終わるとお辞儀をして座る。皇族も皇后も同じ所作をするのだけれど、最後に朗詠される天皇の歌にだけ特別な手続きがあります。読師だったと思いますが、天皇の前に進み出て、書かれた歌をうやうやしく受け取る所作が入る。そして「御製」であることが告知され、そのあとの講師から講頌までの朗詠は、同じ流れでなされる。ただし、最後に天皇の歌の時はすべての参加者は起立し、神妙な面持ちでそれを聞く。そして天皇だけが中央に座ったまま。
これが1時間半以上にわたる「歌会始の儀」ですが、儀式のありようを見れば、そのすべてが「天皇のまなざし」を意識させるものであることが分かります。たとえば、詠まれる歌の原稿は天皇が読む向きに置かれ、講師、発声、講頌らはそれを逆向きのまま詠みあげるのです。(こういう儀式で自作が詠まれることが光栄であるとか、苦労が実ったなどと歌人が思うのは、どういう感性からでしょうか。もう一度言います。こういう文学・文藝のありかたって、いったい何だろう)
「歌会始」の背景
1928年に天皇裕仁によって再開された、いわば「戦後歌会始」が、今日の形式の始まりでした。それまで歌を寄せるのは貴族皇族など特定の人に限られていましたが、広く国民も応募できるようにし、その選者も「在野」の歌人などの中から選出したのです。
これを宮内庁は「国民参加」の機会が広がっていったというのですが、実際のところ国民に開かれた儀式だったのでしょうか。
1928年といえば、張作霖暗殺事件に見られるように日本の関東軍による中国北東部への侵略が露わになった年であり、他方で労働組合運動や社会主義政党設立の動きも盛んでした。ところが、政府はそれらの運動を天皇制国家転覆の陰謀として取り締まり弾圧することに躍起でした。3月に当時の共産党員を多数逮捕、4月には労農党や労働組合への解散命令。6月には治安維持法を「改正」して〈国家体制の変革を目的にした結社を組織した者を死刑・無期懲役に処すこと〉を条文に加えました。7月には特別高等課(特高)の設置を全国に拡大します。プロレタリア文学やその作家に対する弾圧がひどくなるのは3、4年後のことですが、すでに弾圧は始まっていました。短歌界でいえば「プロレタリア短歌」の雑誌も結社もありましたから、それへの介入や弾圧があったことは想像に難くありません。
こうしたなか開催された天皇裕仁の「歌会始」です。もちろんそこに「プロレタリア短歌」が選ばれるはずもなく、選ばれる人たちにはその道の大家であり社会的にも認められていること、思想的にも「安全」な人たちであるなどの選別条件があったでしょう。そうした基準は今の「歌会始」にも生き残っている(詳しくは、内野光子著『現代短歌と天皇制』参照)。
そんな「歌会始」に隠された基準も問題ですが、逆にそんなものに「選ばれた」ということが何を意味するのかを考えると、そら恐ろしくなります。
天皇から勲章をもらったかのように自分の短歌が選ばれたことを喜び、栄誉に思うこと。それが成り立つのはなぜか。天皇を中心に据えた同心円の中で、自分の位置が中心(天皇)に近いことを喜ぶことができるからです。これが同時に天皇を中心に据えた文化の同心円を形成することになる。もちろんこの同心円は一様ではなく、多様性や時には「破れ」だってある。しかし、多少の「破れ」があっても、それが中心にある「美」に花を添える役割をするなら(同心円から外れ、中心を裏切らない限り)しかるべき場所が与えられるということなのです。
この国民文化レベルでの天皇制支配のはじまりが、1928年の裕仁の「歌会始の儀」にあったといえます。そしてこの儀式の本質は全く変わることなく「連綿として」今日も続けられているのです。話が前後しますが、裕仁の始めた「歌会始」は一方で国民に「御褒美」を与えながら、他方でその場に決して招かれるべきではない人を特定する、排除と弾圧の道具として機能したことは間違いありません。
「連綿と続けられ」てきたのは「服属儀礼としての歌会始の儀」である
歴史が示すところでは、裕仁天皇のもとで短歌界もまもなく軍国主義に染まっていきます。大政翼賛短歌、従軍短歌が主流になる。そしてその状況下で「歌会始」は続けられ、「国威発揚」の場の一つになります(「美しい日本の和歌と言葉」でしょうから)。
戦時下でどのような歌人がどのように協力したかを伝える「歌会始」の記録があるはずです。ですが、宮内庁は公開していません。ホームページには、1947年以降に再開された裕仁の「戦後の歌会始」の記録しかありません。「戦中」「戦前」の記録を載せると、愛国短歌や戦意高揚短歌を歌った人たちの「罪深さ」や、彼らが「戦後の新体制」後も平然と居座っていることが明らかになる。それがバレるのを危惧しているのでしょうか。
そういえば2019年でしたか、歌人の瀬戸夏子が、天皇と皇后の「和歌」を特集した雑誌『短歌研究』(2019年1月号)を批判したことがありました。
「御製(天皇の歌)がヒエラルキーの最上位にあることを臆面もなく曝け出し」たことで、天皇制と「順接している」「戦後短歌」は終わったと言ったのです(瀬戸夏子『白手紙紀行』)。
「戦後短歌」が天皇の「和歌」に「シームレスに接続」していることに対する、瀬戸夏子なりの批判でした。それに対して歌人・大辻隆弘はあわてて反論し、戦後の出発点では(短歌界には)「天皇アレルギー」があったとか、平成天皇の下での天皇制国家にはそれなりの「強み」もあった(安倍政権の暴走を抑制する働きのことらしい)とか、呂律の廻らないことをいいました。
短歌界における天皇制批判は他にもありました。先の『短歌研究』の天皇皇后の和歌特集について、歌人の川野芽生は、『現代短歌』(2020年3月)の連載ページに「短歌は天皇制を批判できるか」という文章を書いています(『現象録』泥文庫)。しかし、これらの天皇制批判は、短歌界では目立った議論にはならなかったようです。あえて目立たなくしたのかもしれません。とはいえ「短歌時評」(『朝日新聞』2024年7月24日)などを読むと、その余韻はまだ続いているように思います。
そんななか(〈だからこそ〉でしょうか)正面から「御製」批判をしたり歌壇の天皇制依存を指摘する歌人たちを、天皇制擁護の立場から批難したあの大辻隆弘が、今年からめでたく「歌会始の儀」選者となっています。(詳しくは、以下の「内野光子ブログ」参照のこと)
・来年の「歌会始」選者は〜篠弘の後任は大辻隆弘だった
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2023/07/post-48b22b.html
さて、この辺でいったん話をまとめましょう。
このようにみてくると「歌会始の儀」が「服属儀礼」そのものであることがよく分かるのではないでしょうか。
儀礼には宗教的なもの社会的なものや「交換様式」と絡んだものなど様々ありますが、そのなかでも政治的な儀礼は統治権力の顕示を目的にするものがほとんどです。西洋では王の即位式や臣下の服従の誓などが、宗教的意匠を纏って儀式化されています。天皇制においても政治的儀式は、神道の宗教意匠を纏っている/いないにかかわらず、いまなお残存し機能しています。
そして、なんといっても天皇制の政治的儀式のなかで特徴的なのが「服属儀礼」でしょう。これは西洋的王権が用いた「臣従儀礼(王が臣下を跪かせ、その肩に剣をのせて服従を誓わせる)」のとは、ちょっと異なっています。
服属儀礼がそのまま表われるのは、天皇の代替わり時に行なわれる「大嘗祭」です。特に一連の儀式のなかで披露される「隼人舞」「久米舞」などは、その典型です。古代天皇制が武力で支配した原住氏族などを即位の場に呼び、彼ら土着の形式による踊りや芸能を披露させ、天皇を祝福する。そういうふうに土着芸能を取り入れることで天皇を喜ばせるのです。それにより服従の意志を受取るという儀式です。これは被支配民にとっては屈辱この上ない儀式です。しかし、それをやらないと、有無を言わさず殺され排除される「異族」と同じ扱いになるのです。
この服属儀礼で興味深いのは、主人が鞭を持って強制的に奴隷に躍らせるというのではなく、被支配民はその土着芸能を全否定することなく、むしろそれを存分に持ち込みながらそれぞれに「美」を形成していることです。なにしろ美しくないと天皇は喜ばない。そういうわけで今なお「隼人舞」「久米舞」などは芸能文化財として保護されているのです。数十年に一回の大嘗祭で天皇に披露するために絶やしてはいけない事情もあるのですが。
このようなものが服属儀礼なのですが、現在でもそのままのかたちで、あるいは象徴天皇制化したかたちでいくつも残っています。天皇主催の園遊会、勲章の授与式、国会開会式などは、どうみても「象徴化した服属儀礼」です。「隼人舞」「久米舞」が古代天皇制の服属儀礼であるのに対して、「歌会始の儀」こそ現代天皇制の象徴化した服属儀礼なのです。
服属儀礼の特徴は服従への強い「意志」を表わすことではありません。とりわけ明仁以来「リベラル」を装う天皇の前では、従う者の「自発性」と「自由な主体」が装われる必要があります。そういう意味でも「歌会始」で多様に表現される短歌は象徴天皇制のデモンストレーションにとって格好の場となりうるのです。
では、このような象徴儀礼にうちかつにはどうすればいいのでしょう。
考えてみれば、古代日本語の助動詞「る」「らる」は受身と尊敬と自発と可能の意味に遣い分けられます。つまり、それがどういう意味であるかを上下関係や文脈によって聞き分け察することで、命令の受諾(受身)や相手への尊敬(服従)、自発(主体性)そして自己実現の可能性を感じ取ることができる。そういう文法を持っています。さらにこれらの感性が綯い交ぜのまま、その場に参加することもできる。つまるところ私たちの言葉自体に服属儀礼の感性が埋め込まれているといえるかもしれません。いうならば「察する」「忖度する」--そういう言葉や情動を基にした文化なのです。そして同時に「察する」「忖度する」ことができない/しない「異族」を排除する暴力を備えている。
ですから、それとたたかうためには、まずは私たちの馴染んできた「文化」や「言葉」を、まったく切断された次元から非連続的に受け捉えること(「自己」外部化すること)、そのうえでどう操ることができるか(新しい「内部」権力をつくらないこと)にかかっています。そこがいちばんの課題です。そうしてこのことは、短歌だけではなく、すべての文学や言葉を営む作業において避けられない課題であると思います。
とまあ、言うのは容易いですが、ではどうすればいいのか。
残念ながら、これについては今ここで展開する余力がなくなりました。次回以降の課題にさせてください。つづきを書きます。次回は、天皇や皇族の歌を取り上げながら、上記の課題についてあれこれ考えていくつもりです。