幹部自衛官らの靖国汚染と大東亜戦争史観──将軍たちは去ったが参謀たちは残った

内田雅敏(弁護士)

はじめに

「本年は、台湾出兵百五十周年、日清戦争開戦百三十周年、日露戦争開戦百二十周年と我が国近代史、及び靖國神社に祀られる英霊に想いをいたす節目の年であるとともに、日本の国柄を形作った最初の憲法が出来て千四百二十年目の年となります。/この憲法の中で、聖徳太子は徹頭徹尾、和を尊び話し合いを尽くすことを説いています。考古学、分子生物学の進展により、さらに遡って、一万年以上前から日本には平和な文化、文明の根付いていたことが科学的に証明されつつあります。」(靖國神社社報『靖國』2024.06)、2024年4月22日春季例大祭當日祭における大塚新宮司挨拶の一節である。

「聖徳太子憲法」、「一万年以上前から根付いていた平和な文明」云々はご愛敬だが、明治政府による最初の海外出兵、「台湾出兵百五十周年」から語り始めるのは、いかにも「戦争神社」靖国の宮司の挨拶らしい。

幹部自衛官らの靖国汚染

年頭より幹部自衛官らの靖国汚染を白日の下に曝す出来事が続く。

1月9日、小林弘樹陸上幕僚副長(陸将)が自ら委員長を務める「航空事故調査委員会」の委員ら数十名の自衛隊幹部らと共に公用車を使用して(公用車の使用は3名)靖国神社を参拝した。時間休を取っての「私的行為」だと弁明するが、「私的行為に」公用車使用はありえない。参拝に際しては陸自の担当部署が実施計画書を作成していた。こうした参拝は今回が初めてではないようだ。

防衛省は、「宗教の礼拝所を部隊で参拝したり、隊員に参加を強制したりしてはならない」とした1974年の事務次官通達に抵触する可能性があるとして調査を開始した。

2023年5月17日、海上自衛隊遠洋練習航海部隊の指揮を執る練習艦隊司令官・今野泰樹(やすしげ)海将補以下、一般幹部候補生過程を終了した初級幹部等165名が、航海に先立ち靖国神社に「正式参拝」した(『靖國』2023.07)。

参拝した自衛官らは制服を着用し、官用バスを使用した。遠洋練習航海部隊幹部候補生らの靖国神社参拝はこの年だけではなかった。

シビリアンコントロールの形骸化

1月26日、防衛省は、小林陸幕副長らの参拝は私的行為であり前記通達に反しない、但し、公用車の使用は不適切であったとし、小林副長ら3名を「訓戒」処分とした。身内に大甘な処分だ。

海上自衛隊遠洋練習航海部隊員らの参拝について会見した酒井良海上幕僚長は、参拝は強制でなく「問題にしておらず、調査する方針はない」と述べる。「特攻志願」等、旧軍には「強制」の「語」なかった。

自衛隊も旧軍の「伝統」を踏襲しているようだ。3月6日、三貝哲防衛省人事教育局長は「自衛官が制服着用して私的に参拝することに問題はなく事務次官通達に反しない」、「自衛官は自衛隊法などにより常時、制服を着用しなければならない」等々答弁した。泣きたくなるような「制服組」に忖度した「背広組」の卑屈な態度だ。シビリアンコントロール(文民統制)が機能していないのではないか。【注1】

問題は政教分離原則違反だけではない

1月13日付『朝日新聞』社説は、「陸自靖国参拝旧軍との『断絶』どこへ」と題し、「憲法が定める『政教分離』の原則に抵触するというだけではない。侵略戦争と植民地支配という戦前の『負の歴史』への反省を踏まえ、平和憲法の下で新たに組織された自衛隊の原点が風化しているのではないかと疑わせる振る舞いではないか。…この機会に、陸自にとどまらず、自衛隊全体として靖国神社との関係を徹底的に点検すべきだ」と述べる。

そう、幹部自衛官の靖国神社参拝は単に「政教分離原則」に抵触するだけに留まらない。
小泉純一郎首相〈当時〉は、靖国神社参拝を批判された際、日本国内で日本の首相が行けないところはどこもないと嘯き、伊勢神宮の参拝は批判されないのに、どうして靖国神社の参拝だけが批判されるのかと居直った。前段部分について「在日米軍基地にも自由に入れるのか」と突っ込みを入れたくもなるが、問題は後段部分だ。

首相の伊勢神宮参拝も憲法20条の規定する政教分離原則に抵触する違憲な行為である。しかし、日本社会で首相の伊勢神宮参拝は靖国神社参拝ほどの批判を受けてはいない。もちろん韓国、中国等からの批判もない。どこの国でもやっていいことだからだ。中国、韓国等が批判するのは靖国神社参拝についてだ。首相らの靖国参拝には政教分離違反に留まらない重要な問題がある。

靖国神社発行『やすくに大百科私たちの靖国神社』は述べる。「……日本の独立と日本を取り巻くアジアの平和を守っていくためには悲しいことですが、外国との戦いも何度か起こったのです。明治時代には『日清戦争』『日露戦争』、大正時代には『第1次世界大戦』、昭和になっては『満州事変』、『支那事変』そして『大東亜戦争(第2次世界大戦)』が起こりました。戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国々と共に栄えていくためには、戦わなければならなかったのです」。

A級戦犯合祀に象徴されるように靖国神社は現在もなお日本の近現代における戦争をすべて正しい戦争であったとする「聖戦史観」=大東亜戦争史観・アジア解放史観に拠って立つ。

「聖戦史観」を可視化しているのが靖国神社付属の遊就館だ。そこでは、日本の近・現代史がつまみ食い的に改竄され展示されている。

靖国神社遊就館の展示室15(大東亜戦争)の壁に「第二次世界大戦後の各国独立」と題したアジア、アフリカの大きな地図が掲げられ、以下のような解説が付されている。

「日露戦争の勝利は、世界、特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。アジアの独立が現実になったのは大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。日本軍の占領下で、一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した」。

「大東亜戦争」は侵略戦争でなく、植民地解放のための戦い、聖戦だったとする。そして戦後独立したアジアの各国について、独立を勝ち取った年代別に色分けし、彼の国の指導者、例えば、インドのガンジー氏などの写真が展示されている。ところが日本の植民地であった台湾、韓国、朝鮮「民主主義人民共和」国については色が塗られてなく、彼の国の指導者の写真も展示されていない。ただ、朝鮮半島については南北朝鮮につき小さな字で、1948年成立と書かれているだけだ。「大東亜戦争」が白人の植民地支配からのアジア解放の戦いであったとするならば、朝鮮、台湾の植民地支配はどう説明されるのか。なおビルマ(ミャンマー)、フィリピンの独立は1943年と記されている。日本軍が独立させたということのようだ。

日本の近・現代におけるすべての戦争を正しい「聖戦」であったとする、世界に通用しない、また国内の歴代政権の公式見解に反する存在である靖国神社に、強力な殺傷兵器を装備し、対手の殲滅を目的とし、政治学では「暴力装置」〈マックス・ウエーバー〉と称され、最も厳しく憲法、法令順守が求められる自衛隊という「実力組織」が組織的に参拝しているという事実こそ大問題だ。何故メディア、宗教者らは、政教分離原則違反だけでなくこのことについてこそ語らないのか。

第32普通科連隊の大東亜戦争史観

2024年4月5日、陸上自衛隊大宮(さいたま市)の第32普通科連隊の公式アカウントに「32連隊の隊員が大東亜戦争最大の激戦地硫黄島において開催された日米硫黄島戦没者合同慰霊顕彰式において旗衛隊として参加しました。謹んで祖国のために尊い命を捧げた日米双方の英霊のご冥福をお祈りします」という投稿がなされた。

「大東亜戦争」と云う時、それは単に戦争の名称だけを言うのではない。日本の近代における戦争をすべて正しい戦争であったする「聖戦史観」、植民地支配を正当化する考え方だった。靖国神社が現在もなおこの「聖戦史観」に拠って立っている特異な神社であることは前述した通りだ。

1945年8月15日の敗戦を経て、私たちはこのような誤った大東亜選史観から訣別したはずであった。前記公式アカウントへの投稿はこのような経緯を全く理解しない。さすがに事の重大性を指摘された同連隊は、この「大東亜戦争」という記述を削除したが、削除によってこの問題が解決したというわけではない。4月10日付『朝日新聞』の川柳欄に「日頃から使わにゃ出ない大東亜」と投稿があった。大東亜戦争と述べた前記公式アカウント投稿は、旧軍とは訣別して出発したはずの自衛隊が実は訣別していなかったことを明らかにした。

6月3日付『琉球新報』は沖縄駐屯の陸自15旅団HPに沖縄戦指揮者牛島司令官の辞世の句「秋待たで枯れ行く島の、青草は皇国の春に甦らなむ」が掲載されていることが判明し、旧軍と自衛隊のつながりを示し、美化すると批判している。6月6日付『沖縄タイムス』は、陸自幹部候補生学校で「沖縄作戦において日本軍が長期にわたり善戦敢闘しえた」と評価し、教育方針としていると報じている。

将軍たちは去ったが参謀たちは残った

敗戦時、海軍軍令部勤務の元海軍中佐が、特攻隊について書いた以下のような「見解」がある。

「神風特別攻撃隊の奮戦の結果、連合国軍の進撃速度が鈍り、その間に、米軍機の空襲により、わが国の要地が重大な被害を蒙ったために、わが国民に心の準備ができ、わが政府が降伏を受諾したさいに、大なる混乱を起こさなかったことは不幸中の幸いであった。このことは恐らく特攻隊員たちが予測できなかったことであろう。こう考えてくると本土の防衛戦に伴うわが国民と連合国軍の将兵の膨大な数の生命を救ったことは、高く評価されるべきではなかろうか。見方によっては、神風特別攻撃隊は、あの当時としては、わが国民に最良の降伏の機会を与えたものと、見ることができよう」(『海軍特別攻撃隊特攻と日本人』奥宮正武)。

特攻隊員4000余人の死をこんなふうに言うとは、私はこの一文を読んだとき、はらわたが煮えくり返るような気持ちになった。さらにある。戦後、この人物は、航空自衛隊で航空自衛隊学校長、部隊長などを歴任し、空将となった。

1945年の敗戦により旧軍の将軍たちは去ったが、参謀たちは残った。残った参謀(佐官クラス)たちが、自衛隊の幹部となり、本来相いれないはずである旧軍の聖戦史観=大東亜戦争史観・アジア解放史観と、この国の戦後の通奏低音となっている対米従属性を見事に「調和」させて自衛隊を生成、肥大化させてきた。

大塚海夫元海将が靖国神社の宮司に

4月1日、大塚海夫元海上自衛隊海将が靖国神社の宮司に就任した。自衛官出身の宮司としては、1978年、内外の反対を押し切り東條英機ら14人のA級戦犯を合祀した松平永芳氏がいるが、彼が宮司となったのは幕末の賢侯と謳われた松平春獄の孫であったからであり、戦後生まれで、「海将」という海上自衛隊の高級幹部であった大塚氏の宮司就任は、それとは位相が異なる。しかも大塚氏は退官後、自衛隊が駐屯するジブチの日本大使もつとめ、現実政治への関与の度合いも高い。

筆者は、年頭の幹部らの靖国参拝について、自衛隊と靖国の距離感の欠如への危惧を表明したが(『朝日新聞』3月13日、「私の視点」)、幹部自衛官の靖国汚染の現実は想像を超えるものがあるようだ。

大塚海夫元海将は『靖國』(2024.02)で語る。

「国の為に散華された英霊の御心について深く考えるほどに、今日、日本が存在していられること自体、明治維新以降の英霊の尊い献身無くしてはあり得ないとの確信が、英霊に対する感謝の念を深めた」、「日本の『軍人魂』についてきちんと説明する必要が生じ、多くの外国人を靖國神社に連れて行った。どこの国の軍人でも、到着殿で宮司の説明を拝聴し、本殿で参拝すると、一様にその空気に圧倒され、畏怖の念を抱き、日本滞在で最高の経験だと口にするのが常であった。英霊に近い立場にある世界の軍人達は皆、靖國神社の意義をよく理解し、祖国のために命を捧げた英霊に最大限の敬意を表する。そこにはいわゆる『戦犯』への違和感はなかった。旧連合国軍人でさえ、『戦犯』が政治的犠牲者であることに理解を示した」。

東京裁判否定が堂々と語られる【注2】。暁星小・中・高校、そして防衛大学卒、将官というこの「エリート」は、一体何を学んで来たのか。

『陸軍将校たちの戦後史』との出会い

この疑問は、立命館大学立命館アジア・日本研究所専門研究員角田燎著『陸軍将校たちの戦後史「陸軍の反省」から「歴史修正主義」への変容』(新曜社2024.03.19)を読んで氷解した。

幹部自衛官らを靖国神社に繋いだのは戦後、旧陸軍軍人らによって結成された親睦組織「偕行社」だった。

偕行社とは陸軍士官学校出身の旧陸軍軍人の集まりであり、士官学校の古い期(将官・司令官・佐官・参謀クラス)、若い期(尉官、現場指揮官クラス、多くの死者)、超若い期(士官学校在校中に敗戦、戦場に出ていず)によって構成され、のちに退職した幹部自衛官らも入会させるようになった。戦前あった陸軍将校らの集まりの「偕行社」とは別組織であり、設立当初は「偕行会」と称した。

偕行社は、戦前、旧陸軍が政治を壟断したという反省を踏まえ、政治的中立性を謳い、同期の戦死者(戦病死を含む)の追悼及び会員間の親睦互助を目的とした同窓会的な集まりであった。

政治的中立性は多くの仲間を戦死させた若い期に強く、「陸軍の反省」も語られ、1980年代には「南京事件」の調査なども行われ、一定の範囲で捕虜虐殺の事実を認め、その背景には中国人に対する蔑視があったと謝罪もした(『偕行』1985年3月号)。この調査は南京大虐殺を否定するために戦場体験を有する会員の多くからの聴き取りによってなされたものであったが、調査結果は白でなく黒もしくは灰色であった。当時の偕行社はこの調査結果を受け入れたが、後述するように、1990年代に入って歴史修正主義に接近するようになった偕行社はこの調査結果を否定するようになり、2012年8月号の『偕行』で正式に否定した。

偕行社と靖国神社

偕行社の政治的中立性は、靖国神社との関係では別であった。偕行社は、1971年総会で「靖国神社の英霊は、かってのわれわれの部下であり、同僚であり、上官であり、靖国神社の社頭で再会を期した戦友である。紙一重の差で幽明、境を異にして今日に至っている我々にとって片時も忘れることのできないのは靖国神社のことである」、「靖国神社を国家において護持し、本来の姿に返すことに努めるのは、われわれ生存将校の道義的責務である」(1971年偕行社総会決議、『偕行』1971年5月号)と「靖国神社国家護持」を満場一致で決議した。靖国神社国家護持法案の推進活動を通じて偕行社と靖国神社との結びつきの強化がなされた。

偕行社と歴史修正主義との出会い

1989年の冷戦終結を経て、90年代に入ると元日本軍慰安婦らによる告発などにより、日本社会でこれまで放置されて来ていた戦争責任・戦後責任問題等が語られるようになり、93年慰安婦問題に関する河野官房長談話、同年8月細川首相の侵略行為と植民地支配に対する謝罪、95年村山首相談話等がなされた。他方でこれに対する反発として「つくる会」等歴史修正主義の動きも活発となった。

もともと偕行社には、日本国憲法下の戦後を「東京裁判史観」として否定しようとする動きもあり、またその存在が正当に評価されていないと不満を持っていた自衛隊側にも歴史修正主義を歓迎する雰囲気があった。

2009年『偕行』の題字下に「英霊に敬意を。日本に誇りを。」が記されるようになった。偕行社は歴史修正主義に接近し、戦死者の顕彰・追悼を通じてもともと親近感のあった靖国神社の大東亜戦争史観に回帰した、設立当初偕行社が掲げた「陸軍の反省」は敗戦責任(日本を焼け野原にし、310万人の死者を出し、生き残った国民にも塗炭の苦労をさせた)についての反省であって、アジアに対する戦争責任についての反省ではなかった。後者までなされたならば、靖国神社もその共犯者であったという認識に到達する可能性はあった。

この頃、偕行社運営の中心となっていたのが戦場体験のない士官学校最若年期であった。

『陸軍将校たちの戦後史』は以下のように書く。

「彼らは『陸士の誇り』と『陸軍の原罪』に向き合うために、退職後の空いた時間を使い「勉強」するが、その時期、彼らの目の前にあったのが、つくる会に代表される『歴史修正主義』的な言説であった。/そうした『歴史修正主義』的な言説に触れる中で、『陸軍の原罪』から解放され、『陸士の誇り』が強調されていくのであった。/彼ら最若年期は、陸軍士官学校在校中に終戦を迎えており、実戦経験を持たなかったがゆえに、戦場の実相や加害の側面に触れずに済んだのである」。

2012年2月、河村名古屋市長の南京大虐殺否定発言が契機となって偕行社では、『偕行』2012年8月号特集「いわゆる『南京事件』について」で、同誌1985年3月号での南京事件調査結果を否定した。執筆者は「南京事件の真実を検証する会」(会長加瀬英明、事務局長藤岡信勝)のメンバーが中心であった。

会員減少対策として自衛隊退職者の勧誘

陸軍士官学校出身の旧陸軍の幹部及びその候補生によって構成された偕行社は物故による会員減少に対処するために退職した陸上自衛隊幹部を会員として入会させる道を選んだ。創成記の自衛隊には旧軍関係者らがおり、自衛隊側に偕行社に対する親近感があり、その延長上で靖国神社に対しても親近感があった。

自衛隊側としても現職の自衛官としては発言できないようなことを偕行社に言ってもらいたいという希望があった。2001年元幹部自衛官の偕行社加入がなされた。

『偕行』2006年8月号は「各地の元幹部自衛官にお願い」と題して以下のように呼び掛けている。

「陸軍の先輩方が、この会の後継を我々に託された趣旨は、英霊顕彰の継続と陸軍の良き伝統の継承だと忖度します。そのことは入会者として当然のことですが、そういう受け身の加入に留まらず、この偕行社を陸上自衛隊発展に貢献できる支援・協力団体としても大きく育てて行きたいと考えています。(中略)現在、海の『水交会』、空の『新生つばさ会』に対応する陸のOBの全国的な組織はありません。陸自の元幹部自衛官が結集して、陸自を支援し、殉職隊員の慰霊顕彰を行い、修親会(陸自OB会)との交流を深め、また現役には発言できないような問題について国民に訴えることは意義の深いことではないでしょうか。(中略)憲法改正の動きが活発化し、国軍化も期待できるようになりますと、遠い将来において陸、会、空のOB機構の大同団結の機運が生じることも考えられます。その時代に備えておくためにも『陸だけが組織のない』現状は決して好ましいものではありますまい。……」

偕行社を厚労省と防衛省との共同所管とし、その祝賀会に厚労省・防衛省関係者だけでなく、陸自幕僚長や友好団体(靖国神社、隊友会水交会、つばさ会、日本郷友連盟等)も参加するようになった。

2008年陸自幹部候補生学校卒業式において、偕行社山本卓眞会長は来賓として挨拶し、先人の歴史的偉業として日露戦争、戦後の日本とアジアの驚異的経済発展と並んで大東亜戦争を挙げた(『偕行』2008.03.04-05)。

幹部自衛官らは偕行社を介して靖国神社に親しんでいた。2024年4月20日付『毎日新聞』によれば、1月8日、偕行社での新春賀詞交換会に出席した陸自幹部数人が制服、公用車で靖國神社参拝をしていたという。

幹部自衛官らはなぜ靖国神社が好きなのか

岩田清文元陸上幕僚長は、『靖國』(第820号, 2003.11, )で「自衛官は靖國に祀られるか」と題し、

「昨年12月に関議決定した安全保障関連三文書においても、強い危機感が示され、戦争を抑止するための具体化が進んでいる。その中において、自衛官が戦死した場合の様々な処遇等を検討するとともに、死後における慰霊の在り方についても、静かに議論を深めていくべき時期である」、「(自衛)隊員の死後、どこに葬るかは士気にもかかわる極めて重く重要な問題である」、「現状のままであれば、防衛省・自衛隊全体としては市ヶ谷駐屯地での慰霊、及び各地域としては司令部が所在する一部の駐屯地等において慰霊されるであろう。しかし一般隊員の視点から見れば、死後、そこに戻るという意識を持つものは少ないだろう。それら慰霊碑の前では、年に一度追悼式が執行されているが、一般隊員にとっては、その慰霊碑が共に国のために散った戦友、皆の魂が戻る場所と思っている者は少ないと言えよう」と語る。そして「明治以来、日本国は、国のため国民のために命を捧げた英霊を、靖國神社において永遠に慰霊し崇敬することとした。(略)当時、『死んで靖國で会おう』と、国の命令で戦地に赴いた方々には、明確に魂が戻る場所、精神的な拠り所があった」と。

さらに「現役当時から、個人的には、もしいざという時が訪れ、最後の時が来たならば、靖國神社に祀って欲しいとの願いを持っていた。それは、靖國神社には幕末維新から日清戦争、日露戦争、そして大東亜戦争に至るまで、『祖国日本を護る』との一念のもと、尊い生命を捧げられた246万6千余の柱が祀られており、『国のために命をかける』との、我々自衛官と同じ志を持たれていた先人が祀られる靖國に、自分の死後もありたいと思っていたからである」とも述べる。

「大東亜戦争」という言い方にもあるように、1957(昭和32)年生れの岩田氏の頭の中では1945(昭和20)年8月15日の敗戦を経ても戦前と戦後の連続性が断たれてはいないようだ。

岩田氏はさらに言う、「我々日本人は、いつまで靖國での慰霊を他国に配慮し続けるのか。当時の日本政府は、国民に対し命を捧げることを求め、その報いとして靖國神社での霊の奉斎を約束した。これは国家と国民との約束である。それが守られないのであれば、一体どの国民が再び政府の要請に応えるというのか」、「国家と国民の約束を守り続ける独立性、そしてその行為に対する外国からの干渉を排除して初めて、我が国は主権国家と言えよう。主権国家たる日本の姿勢の明示の延長線上に、自衛官の慰霊の在り方が議論されるべきだ。これまでの呪縛を我が国自ら開放し、戦後レジームから脱却することを強く望む」。

確かに、戦前、日本国家は戦死者(戦病死者も含む)を陸・海軍省の管轄する国家機関である別格官幣社靖国神社で祀ってきた。しかし、国家による靖国での追悼の約束は、「アジアの解放」による「大東亜共栄圏」建設の「虚構」の上でのものであったのではなかったか。靖国神社もこの「虚構」の共犯者だった。

岩田氏は、1月31日付『産経新聞』「正論」でも「自衛官の靖国参拝の意味と思い」と題して、元陸幕長として前記『靖國』で述べたと同趣旨の論を展開している。陸幕長を拝命した時、その任を終えた時、靖国神社に参拝したという(前記『靖國』)。火箱芳文元陸幕長も『日本の息吹』2023年8月号の「国家の慰霊追悼施設としての靖国神社の復活を願う」と題する記事で岩田氏と同趣旨の発言をしており、現在、靖國神社崇敬奉賛会崇敬者総代であり、軍需産業三菱重工の顧問をしている。

幹部自衛官らの靖国神社参拝は、戦死者(戦病死者を含む)の遺族、友人らの参拝とは異なる。

いつの時代にも軍隊組織には、国のための戦死者を「護国の英霊」として祀り、称える靖国神社のような顕彰装置(兵士再生産装置)が不可欠なのだ。統率のツールとして靖国というナラティブ(物語「ストーリー」)が必要なのだ。琉球列島を軍事要塞化し、いよいよ「靖国再稼働」(鎌田慧)させようというのか。【注3】

先の戦争の性質いかんにかかわらず、国家は国民を戦争に駆り立てたのだから、「戦場ニ死シ、職域ニ殉ジ、非命ニ斃レタ」(終戦の詔勅)戦没者を国家が追悼するのは当然だ。しかし、その追悼の場が現在もなお聖戦史観に拠って立つ靖国神社であることが適切なのか。海没した兵士、餓死した兵士、非業無念の死を強いられた死者たちは、「大東亜共栄圏」の「虚構」の共犯者であり、今なおその「虚構」を維持し続けている靖国神社に神として祀られ、そこで追悼されることを望んでいるのだろうか。230万人の軍人・軍属だけでなく、80万人の民間人も含むすべての戦没者を対象とした無宗教の国立追悼施設の建設が望まれる。

但し、そこでは戦没者に対してはひたすら追悼あるのみであり、決して戦没者に感謝したり、称えたりしてはならない。感謝し、称えた瞬間に戦没者の政治利用が始まり、戦没者を生み出した者の責任があいまいにされる。

結語に代えて

偕行社の歴史修正主義への接近について角田氏が、士官学校在学中に敗戦を迎えた戦場経験のない最も若い期が偕行社の運営を担うようになったことを指摘しているのは興味深い。

「戦争体験者がいる間はいい、問題は戦争体験者がいなくなった時だ」と語ったのは田中角栄だ。「総理大臣の仕事は、絶対に戦争をしない、国民を飢えさせてはいけない。これに尽きる」というのが口癖であったという。尖閣諸島(中国名「釣魚島」)で中国を挑発した石原慎太郎、集団的自衛権行使容認で対米従属を推し進めた安倍晋三、他国に行って「戦う覚悟」と内政干渉の挑発をした麻生太郎らには戦争体験はない。2016年外務、防衛両省や自衛隊幹部との防衛大綱改定に向けた初の事前協議で、安倍首相(当時)は開口一番、「君たち中国に勝てるだろうな」と質したという(『毎日新聞』2023.01.03)。

5月3日、都内で開催された憲法改正を求めるフォーラムに「国防最前線の与那国島」から参加したと称し、「一戦を交える覚悟」とぶち上げた戦後生まれの糸数健一与那国町長も同じだ。「町長の役割は町民の暮らしと安全を守ることである。一自治体の首長が全国民に対して、なぜそこまで言うのか」(『沖縄タイムス』2024.05.07)という批判は当然だ。

彼が東京霞ヶ関界隈で配る名刺の裏には伊波南哲作「讃・与那国島」が記されており、その末尾は「……厳然とそそり立つ与那国島よ/おお汝は/黙々として/皇国南海の鎮護に挺身する/沈まざる二十五万噸の航空母艦だ/紀元二千六百三年三月」と結ばれている。

「鉄の暴風」と称される艦砲射撃によって「不沈空母」沖縄島が焦土化され、県民4人に1人、9万4000人以上がなくなったのが沖縄戦の教訓ではなかったか。それにしても、戦後生まれの町長が「紀元二千六百三年」と、堂々印刷しているのには驚く。敗色濃くなった1943(昭和18年)年の頃だ。

5月17日、エマニュエル駐日米大使は米軍機で与那国島を訪れ、「日本国最西端之地」の碑の前で待ち受けた糸数健一町長とにこやかに会見した。

麻生自民党副総裁の「戦う覚悟」発言にも見られるように、どうしても中国と一戦やるつもりらしい。米国からトマホーク400発も購入して、一発も撃たないのでは示しがつかないとでも思っているようだ。

厄介なのは、中国にも〈一戦交えよう〉と考えている軍拡派がいることだ。日・中間には双方の軍拡派が互いに不信と憎悪を投げつけ合うことによって増殖しようとする敵対的相互依存関係が存在する。

*『平和フォーラムニュースペーパー』2024年7月号に掲載のものに加筆しました。

【注1】相次ぐ自衛隊員の不祥事が発覚
2024年7月12日、防衛省は、特定秘密保護、海上自衛隊潜水手当の不正受給、不正飲食、パワハラ等の理由で、「背広組」「制服組」218人を処分した(『毎日新聞』7月13日)。海自の処分が最も多い。いずれも積年の弊というべきものであり、特に海自の潜水手当等の不正受給は、潜水艦建造、補修を受け持つ川崎重工による裏金を原資として長年に亘ってなされてきた。綱紀のゆるみ以外の何物でもない。

【注2】東京裁判が「勝者の裁き」であったことは否定できず、また、戦争の最高責任者裕仁天皇、731部隊の責任者等が裁かれなかったという不十分性は否定できない。しかし、「南京事件」等、東京裁判の中で明らかにされた事実は多々あった。何よりも日本人自身で戦犯の責任を問うことが出来なかったという事情もある。

日本はサンフランシスコ講和条約第11条で、この東京裁判等の戦犯裁判の結果を承認して来た。これは国際公約である

【注3】悲願天皇参拝
本日の春季例大祭當日祭斎行にあたり、畏くも天皇陛下よりの勅使筑波和俊掌典の御参向を仰ぎ、(中略)さらにこのたびの例大祭におきましても、各宮家より御玉串料の御献進を賜わり、本日の午後には瑶子女王殿下の御参拝を賜わることになっております。皇室の靖國神社にお寄せ下さいます格別の御崇敬は洵に有難く、御祭神のお慶びはいかばかりかと感に堪えぬ次第でございます」(『靖國』2024.6)。2024年4月22日春季例大祭當日祭における大塚新宮司挨拶の一節である。

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