皇位継承(あとつぎ)問題 ──女性天皇をなぜ支持しないのか

*この論考は、2020年4月に執筆したもので、『終わりにしよう天皇制 2016→2020「代替わり」反対行動の記録』(おわてんねっと、2021/2/23)に掲載されたものです。このかんの皇位継承問題への世論的な関心は、議会での論議とは真逆の「女性・女系天皇」への支持が90%という状況にあり、「愛子天皇」論議もかまびすしいので、最近はあまり出なくなった女性・女系天皇論議の一つを紹介することとします。

桜井大子

皇位継承問題は天皇制にとって最重要課題といっても決して大げさではない。「万世一系」を権威のよりどころとし、父系天皇の血をひく後継者・皇位継承者となる男子の誕生を、天皇制社会は待つ。そのための世襲は皇室の「伝統」と認識され、憲法はそうやってつくられる天皇を「日本国」と「日本国民統合の象徴」と定め、世襲までも規定し制度化している。また、男系男子による継承は法律(「皇室典範」)で定められている。どのように考えても現憲法との整合制などなく、気持ちの悪い話だ。しかし、これが現在における象徴天皇制であり、この皇位継承者なくして「代替わり」はあり得ないし、象徴天皇制の継続も不可能なのだ。

天皇制に関する世論調査によれば、そのような天皇制を維持したいと考える人が90%以上を占めるという。しかし実際は少し違う景色が見えている。「皇位継承」に関する世論調査によれば、たとえば80%前後の人々が「女系・女性天皇」に賛成している。90%以上の天皇制賛成の人々のうち80%が、「皇室典範」が規定する「男系男子」によって天皇の地位を継承する現在の象徴天皇制をそのまま肯定しているわけではなく、少なくとも皇位継承のあり方に「改善」を求める、あるいは認めるという立場である。換言すれば、いまやこの国は象徴天皇制の「改革」「民主化」を望み、「民主化」された天皇制の下で生きたいと考える人たちが全体の80%を占めている、ということでもある。残りの10%前後が「男系男子」による皇位継承を維持する「伝統的」な天皇制に賛成する人々で、さらに残りの10%弱が天皇制に反対する人々ということか。大きなため息が出そうな社会が見えてくる。

と、そういうわけでおわてんねっとではこの皇位継承問題、とりわけ「世襲」制度について、「代替わり」の期間中ずっと折に触れ問題提起してきた。皇位継承問題が内包する問題はマスメディアを通して見るよりは多様で複雑でもある。ここでは、おわてんねっとで訴えてきたことに加え、そこではあまり展開できなかった多様で複雑な問題にも少しは触れつつ、現在的な状況などまとめてみようと思う。

■「皇位継承」問題の現在

2016年、前天皇(現上皇)明仁が退位の意向表明をしてからというもの、慌ただしく新しい形の「代替わり」騒動が続いた。天皇の「生前退位」と新天皇即位という象徴天皇制が初めて経験する「代替わり」だ。議会もマスコミもおおわらわ。「退位」とそれに伴う「即位」に関する法整備、新元号制定、そして儀式の数々。政府が「代替わり」儀式の総仕上げと位置付け、4月19日に予定していた皇嗣秋篠宮のお披露目式「立皇嗣の礼」は、新型コロナ感染拡大という状況下で延期となった。となれば「代替わり」は継続中ということか(2020年11月日に強行された)。

天皇制にとって長いスパンで考えられるべきとされる皇位継承問題は、本来ならばそういった一連の大騒動に加わるはずだった。2017年6月に可決した「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」(「退位特例法」)の付帯決議には「1、政府は、安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について、(中略)本法施行後速やかに・・・・・・・・・(中略)検討を行い、その結果を、速やかに国会に報告すること」「2、1の報告を受けた場合においては、国会は、安定的な皇位継承を確保するための方策について、『立法府の総意』が取りまとめられるよう検討を行う」とあった。この付帯決議に基づき、皇位継承に関する検討は「退位・即位」後、すなわち、2019年5月1日以降わりあい早い時期に開始されるかという当初の予想から、「即位・ 大嘗祭」終了後、そして「立皇嗣の礼」終了後と、政府は先送りし続けた。マスメディアも指摘していることだが、皇位は「男系男子」で継承するのが皇室の(ひいては「日本国」の)「伝統」であると主張する安倍たちは、女系・女性天皇に論議が拡大することを恐れ、「皇位継承」問題には極力触れたくないのだ。「立皇嗣の礼」は延長され「、代替わり」はまだ継続中らしいし、政府の見解「女性・女系天皇」には触れない、というところで事態は留まっているというのが、現状だ。

いま、天皇制にとっての「皇位継承」問題の課題はなにかといえば、周知のとおりズバリ、皇位継承者(あとつぎ)枯渇問題の解消である。メディア上ですでに洪水のように溢れている情報だが、基本情報として簡単に整理しておこう。

現在の「皇室典範」では、第一の皇位継承者は「立皇嗣の礼」で次なる天皇の身分であることを国内外に宣言する現天皇の弟秋篠宮だ。そして第二にその息子の悠仁。第三が父明仁の弟常陸宮正仁となる。天皇になれるのはたったこの3人だけだ。しかもすでに引退した前天皇の弟や、現天皇と同世代の秋篠宮を皇位継承者としてカウントするには年齢的に無理があり、実質は13歳の悠仁のみ、一人ぼっちである。頼りの悠仁が10年後あたりに結婚し男子が生まれるという確証もない。彼で終わる可能性だってあるのだ。それだけではない。女性皇族は「皇室典範」12条により、結婚すれば皇室から出ていく。その女性皇族たちが皇室を去ってしまえば、これまでなし崩し的に認めさせてきた天皇・皇族の「公的行為」を担う皇族もいなくなる。それどころか、その時に女性・女系天皇を認めても、女性皇族はいなくなっているわけだ。皇室は悠仁1人で支えるという日を迎える近未来が見えてくる。現「皇室典範」に手を加えたくない「伝統」大好きの安倍たち男系男子主義者にとっても、大きな危機的状況にあるのだ。だからその危機回避の対策案として早急なる「女性宮家」「女性・女系天皇」容認が浮上しているというわけだ。当面は「女性宮家」容認でお茶を濁すという方針が出される雰囲気にあるが、「女性宮家」を認めると「当主となる」女性皇族のパートナーや子どもの身分問題が出てくるし、その子どもの皇位継承問題も上がってくる。その場合、その子供たちを否定するというさらなる差別制度を作り出すのか、女系の皇位継承者を認めるのかという判断を迫られる。いずれにしろ避けられない問題に頭を悩ますしかないのだ。

「国民」の10%が考えているらしい「旧宮家」復活という選択肢も出ていることは付記しておくが、この「愚策」についてここで触れるのはやめる。「リベラル天皇主義者」がこぞって反対の声を上げてくれるだろう。私はあらためて論じていきたい。

■憲法2条と「皇室典範」

皇位継承については憲法2条に「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」とある。「世襲」規定については後述するとして、ここでは「皇室典範の定めるところ」について少し触れておきたい。

皇室典範の第1条には「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」があり、第2条で「皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える」と事こまかく7項目にわたり皇位継承の順序が記載されている。現在は1条で規定する「男系の男子」が先述したとおり3人しかいないので極めてシンプルな状況だが、皇位継承者が多数いる場合は、この項目によって順位が決まる。その順番は以下のようになる。

皇長子、皇長孫、その他の皇長子の子孫、皇次子及びその子孫、その他の皇子孫、皇兄弟及びその子孫、皇伯叔父及びその子孫、前項各号の皇族がないときは、皇位は、それ以上で、最近親の系統の皇族に、これを伝え、前2項の場合においては、長系を先にし、同等内では、長を先にする。もちろんすべて男子。

ここには天皇制の家父長制的思想や血族主義的思想が色濃く出ている。天皇を中心に一親等、二親等、三親等とその継承の順位が定められ、皇室費の予算配分もその順序で差別化されているし、名誉職や公式の場での立ち位置、歩く順番などもこれらによって決まっているはずだ。なんとも差別・序列社会の象徴そのものなのだ。差別化ということでは、「皇室典範」は各皇族の地位(呼称)や敬称など細かく細分化し決めている。そして私たち「民間人」との関係に目を転じれば、どのような身分の皇族であれ、我々「民間人」の誰よりも上に立つことが「常識」とされ、その地位も世襲でつないでいくという、現憲法の理念では考えられないことが、同じ憲法と法律で定められているのだった。

また、第4条「天皇が崩じたときは、皇嗣こうしが、直ちに即位する」の問題も大きい。天皇が死亡した際は、間髪を入れず即位することが法律できまっているのだ。今回の明仁「退位」も同様で、天皇不在の時間を作らないという原則は守られ、天皇の退位と同時に新天皇が即位した。だからこそ、次なる天皇である「皇嗣」の存在は不可欠であるのだ。天皇不在の時間は一瞬たりともなく「連綿と」続く天皇制というわけだ。政府が「代替わり」の一環に「立皇嗣礼」まで含め、国事行為としてやることの意味もそこにあるのだ。皇位継承とは天皇制継承と同意であるのだから、そうなるだろう。そこには天皇制の存続に関する「民意」が入る余地など皆無の法体制がある。天皇制を維持するのかそうでないかの意思決定の場を完全に奪ってしまうシステム。そうでもしなければ維持できない悪しきシステムでもあるということだ。こんなに非民主的で主権在民の原則も平等主義もない排他的でいびつな制度なのに、社会全体に天皇制批判を許さない空気が充満しているし、それが「常識」と思わされている社会である。

この違憲としかいえない「皇室典範」によって維持されている天皇制ではあるが、この法律が現在の皇族と後継者激減という天皇制の危機をも作り出している。たとえば、1条の「男系男子」規定、九条「天皇及び皇族は、養子をすることができない」規定、12条の皇族以外との結婚によって女性皇族は「皇族の身分を離れる」という規定。男子が生まれなくては皇位継承者も皇族も激減していくのは当たり前だし、養子という「補充」もみとめていない。また、明治憲法当時は当たり前だった「側室」は、戦後「皇室典範」では否定された。

その「側室」廃止の影響は大きかった。「側室」が認められていた時代は、書くのもおぞましい話だが、とにかく男子を増やすべく天皇たちは複数の女性とセックスしていたわけだ。それでも皇位継承問題はな かなか大変で、その時代においても「女性天皇の可否」 については国会の内外で議論されているくらいであっ た。それでも「側室のおかげ」で天皇家は男子皇族減少にいまほど困らずにすんできたのだ。要するに「男系男子」規定はこの「側室」制度によって長きにわたりなんとか守られてきたのであり、それを否定するのならば、それに代わる「皇位継承」のための手立てが必要ということになる。

高橋紘や所功らは、この「皇室典範の欠陥」を以前から指摘していた。2人の共著『皇位継承』(文春新書、1998年)では、この問題を歴史的に検証しながら「皇室典範」見直しを強く主張していた。この時代にあって「側室」を奨励するのか、「民間人」として生きてきた旧皇族の復活を考えるのか、それとも「女性・女系天皇」容認に踏み込むのか、これまでなされてきた議論を紹介しつつ選択肢を提示する。明確に結論を述べないまでも、「女性・女系天皇」容認に行きつく展開である。当時は右派・保守派のために書かれた、皇位継承問題に関する啓蒙書という位置づけであったと思うが、いまやここに書かれていることはこの社会の大多数と思われるリベラル派と呼ばれる天皇制擁護派の常識ともなっている。ここ20年の象徴天皇制の「進化」の結果でもある。

■世襲の制度化がもたらすもの

皇位継承問題を世襲規定抜きに語るわけにはいかない。まず、世襲で引き継ぐのは何であるのか。天皇という社会的地位は、公式には憲法1章で規定されているとおりで、たとえば6条・7条が規定する天皇の仕事は、以下のようになっている。

「内閣総理大臣と最高裁判所長官の任命」「憲法改正、法律、政令及び条約の公布」「国会の召集」「衆議院の解散」「国会議員の総選挙の施行を公示」「国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証」「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証」「栄典授与、批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証」「外国の大使及び公使の接受」「儀式を行う」だ。

任命・認証政治のトップに天皇がいることは一目瞭然だ。そもそも、国会で決めたことに、認証や任命が必要なのか。しかも、それを天皇に預けるとはどういうことなのだ。実際は天皇には拒否権も罷免権もなく、国会が決めたことにハンコを押すだけだ。そして全てが公式決定する。おかしな話だ。「国民」の代表による議決内容について、最終決定的な段階が必要であるならば、それをするのは議決内容に大きな影響をうけるこの国の住民ではないのか。それよりも最高権威者天皇にハンコを押させるシステムは都合が良いだろう。民意を廃し権威もつく、一石二鳥というものだ。こういった任命・認証政治や「お墨付き」・権威依存政治のトップに座っているのが天皇なのだ。その地位は選挙ではなく世襲で繋ぐ、というのが憲法第2条である。主権在民原則も民主主義原則も無関係の無責任な政治的常識を作り出す。これが政治の世界に世襲制を持ち込んでいることの問題の一つだ。

世襲を制度とすることのもう一つの大きな問題は、なんとしても子供を産ませなくてはならないという単純で残酷な問題だ。子供を産む生身の女性の身体を国家が要求するという規定なのだ。しかも現「皇室典範」の下では父方の血を引く男子が必要。書いていて気持ちが悪くなる。現時点で予想できる、これから10年後くらいにメディアを賑わす事案は、現天皇の甥っ子、皇位継承者第3位にある悠仁の結婚話ではないか。予想話とはいえ、実際そうならなくてはならない。なぜなら、悠仁が結婚し、皇位継承資格を持つ男子を産ませることは、憲法と法律が定める天皇制維持の唯一の対策なのだから。悠仁と結婚する女性がいればの話だが、その女性は国家の制度である天皇制のために子供を産まなくてはならないという使命をもたされる。憲法が天皇制を国家の制度と規定する以上、それは必要不可欠の条件となるのだ。

「女は子産み機械」「子どもを産んで一人前」といった観念はいまだ保守的な世界に限らずはびこっているし、こういった悪しき思い込みがこの社会をいびつにしている。これに類する政治家たちの暴言は例にあげればいとまがない。そのものずばりの暴言をはいた柳沢伯夫元厚労相の「女性は産む機械」発言(2007年)や、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長で元首相でもある森喜朗の「子供を1人もつくらない女性の面倒を、税金でみなさいとい うのはおかしい」(2003年)というのもある。あるいは現在の副総理で2008年には首相にもなった麻生太郎の「(自分には)子どもが2人いるので、最低限の義務は果たした」(2009年)。極めつけは「ババア発言」と批判され提訴までされた石原慎太郎元都知事の「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です」(2001年)発言。

このような暴言が吐かれるたびに批判と抗議にさらされるが、すぐに同様の暴言は別のところから吐かれる。少し前だが、杉田水脈衆議院議員の「LGBT生産性なし」(2018年)発言など、女性による同様の暴言も聞こえてくる。どうしてこうなのだろうかと頭を抱える女性たちは多い。この「どうして」の答えの一つに、天皇制の世襲規定があると私は思っている。このような暴言を堂々と放つ政治家を作り出し許してしまう土壌が天皇制なのだと。

子どもを産まなくては、役立たずの皇后・妃として世間に晒されるし、逆に子を産めば国を挙げた祝意を受ける。実際、2019年に皇后になった雅子は男子を産まないというただその一点で、長期にわたるバッシングを受け心身を壊したではないか。娘も学校で「税金の無駄遣い」といじめられた。それは皇室制度そのものが税金の無駄遣いであるといった批判ではなく、学習院に子を通わせるような天皇主義者による、子どもを産まない・生まれても女子であった雅子への批判なのだ。

世襲を制度化すれば、皇族男子にはなんとしても女をあてがい、セックスさせ、子どもを産ませる必要が出てくるのだ。このグロテスクな話も少し表現を変えれば、皇族男子の恋愛と結婚、そして出産というめでたい話に変わる。そして、結婚・出産のたびに国を挙げて「お祝い」するのだ。それはすべて「代替わり」のためのステップにすぎない。皇位継承とは「万世一系」の系譜を増幅させ維持していくことだけが目的なのだ。これは、女性・女系天皇容認になろうと同じことで、世襲である以上変わりはしない。

■「女性・女系」天皇や「女性宮家」になぜ反対するのか

冒頭で触れたことだが、現在「女性・女系」天皇をよしとする人たちは、80%前後を占めている。女性・女系天皇を認める天皇制の容認であり、一方で天皇制維持のための容認である。しかしこの80%には、少し複雑な思いも含まれている。言うまでもなく「女性が天皇になれないのは女性差別だ」という、女性たちの思いだ。この女性たちが求める「女性天皇」容認論が、運動として大きく声を揚げたのは、1989年の昭和天皇Xデー前後のことだった。この声は今も潜在的にあり続けている。「女性が男性の前を歩く」という象徴的な図を天皇一族が示すことで、女性差別社会は少しはマシになるのではないか、という思いは何度も語られてきた。

しかしこの図が象徴するのは、女性が少しでも社会的平等を手にした社会なのだろうか。女性天皇は連れ合いと並び、あるいは先頭を歩く。しかし、その列を取り巻く「民間人」は、直立不動か最敬礼か超有名人との対面という立ち振る舞いだ。行列への視野を少し広げれば、皇室と「民間人」の間にある階級・身分差別が鮮明に見えてくる。女性天皇が生まれようとその構造に変わるところはない。あらゆる差別構造のトップに女性が就くというだけのことだ。それでいいのか。フェミニズムの思想はさまざまな差別を否定すると考えるが、差別構造のトップに立つ者に、この思想を領導してもらおうとはおかしな話であると思う。

女性天皇容認に一筋の希望を抱く女性解放論とどこか似ている問題として、女性兵士問題があった。私がこの問題を初めて知ったのは、1991年に米軍および多国籍軍のイラク攻撃開始によって始められた湾岸戦争のさなかだ。全米女性機構(NOW)が軍隊内平等を掲げ、女性兵士にも前線派遣を認めよという要求を出した。その情報はフェミニストたちのさまざまな批評とともに伝わってきた。また、NOWの主張に賛同したり理解を示す意見もそれなりにあり、驚いたことも覚えている。女性が軍隊で平等に力を得られれば、「女性的特質」(たとえば母的平和主義など)が発揮され、軍隊や戦争も変わっていくといった論議だ。軍隊は少しはマシになると。しかし、結局は国家のた めに戦場で殺しあうわけで、「マジか?」と驚きは増 すばかりだった。人殺しを目的とするシステムはダメ なのだ。そこに参入することで得られるものはダメな国家目的への加担という結果だけである。システムの目的を変えるとすれば別のシステムが必要であり、目的が否定されたシステムは廃止されるのが筋だ。

このNOWの主張は日本ではそれほど受け入れられず、むしろ最終的には批判的な立場をとるフェミニストの方が多かったのではないかと思う。ここでNOWを引っ張り出したのは、先に述べたとおり、このNOWの主張にはフェミニストによる女性天皇容認論と繋がるものを感じるからだ。天皇制を廃止することはむずかしいが、「皇室典範」という法律による女性差別をなくし、少しずつ皇室内の民主化をすすめ、男子主義の力を弱めていくという闘い方の選択。日本のフェミニストのNOW批判は女性天皇容認論批判にはつながらないのか。女性天皇容認あるいは待望の女性たちの声は多いが、批判的立場を表明するフェミニストはどれくらいいるのだろうか。

冒頭で述べたとおり、次代天皇という身分の秋篠宮が、国内外にそのことを宣言する儀式である「立皇嗣の礼」が4月19日に予定されていた。天皇代替わりはこの儀式を経て終了することとなる。コロナ緊急事態宣言下で政府は儀式の延期を決定したが、この儀式には4000万円もの税金が使われる。また、秋篠宮や上皇たちの住居改修を合わせると、2020年度の皇室予算は238億円。宮内庁等々の予算は別で、すべて税金だ。天皇制とはどのような社会的困難が渦巻く状況にあっても、彼らの「権威」「伝統」「品位」などというものが優先され、彼らへの「最敬礼」として、さまざまな形で社会全体に払わせるのだ。

このようなシステムをこれからも維持し続けるのか、いまこそ真面目に考えるべきである。また、天皇制と侵略戦争・植民地政策の歴史、様々な差別の問題、主権在民原則や平和主義・民主主義との対立等々、多くの問題がすでに指摘されてきた。そのような天皇制を維持し、女性天皇に女性解放の一縷の望みをかけるような愚かな選択はやめよう。天皇に男女平等など語れないし、語らせてはならないのだ。

(2020年4月18日記)

*初出:『終わりにしよう天皇制 2016→2020「代替わり」反対行動の記録』p.71〜p.80(おわてんねっと〈終わりにしよう天皇制! 「代替わり」に反対するネットワーク」〉、2021/2/23)

 

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