天皇の戸締まり(3) 語りかける象徴――その言葉と権力

野毛一起

能登半島地震のお見舞に出かける天皇皇后

3月22日、徳仁天皇と雅子皇后が中型ジェットや自衛隊のヘリを乗り継ぎ、能登半島地震の被災者や関係者を日帰りで見舞訪問したとのこと(弁当持参で)。それに宮内庁長官も同行し、能登空港で出迎える石川県知事に見舞金(金一封)を手渡したと報道されています。

その時の記事や映像を見たとき、いくつも疑義や違和感が湧きました。そして腹立たしくもありました。今回はそのことについて書きます。

報道された映像でいちばん目立つのは、輪島朝市の焼け跡で黙礼する天皇皇后の姿と避難所で被災者に語りかける様子でしょう。(以下の報道などを参照)

・テレビ朝日NEWS「両陛下が輪島朝市の焼け跡で“黙とう” 」
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000342051.html

・MRO北陸放送「【速報】天皇皇后両陛下が帰京 日帰りで能登半島地震の被災地を視察」 https://news.goo.ne.jp/article/mro/region/mro-1068696.html

珠洲市では、避難所になった体育館で(選ばれた)被災者に語りかけました。その時、天皇皇后ともにラフなジャケットとズボン・スラックス姿で現れ、一人一人と言葉を交わしました。靴を脱いで入り、スリッパも履かずに、靴下のまま。そして被災者の前にいくと、床に膝をつき目を見ながら声を掛けたのです。「お怪我とかは大丈夫ですか」「お体を大切に」と。皇后も「お二人暮らし? お母様と?」「怖い思いをされましたね」とか言っている。別な所では大学進学が決まった高校生に「大変ななかで受験を」とか「大学生活が楽しみですね」などと言っている。

後で触れますが、このニュース映像は加工されてはおらず、いわばありのままの姿を伝えるように見えます。しかし、実はこの「天皇のありのままの姿」ほど「不自然」な意味作用を持つものはありません。ひざまずいて語りかける天皇・皇后の姿、その「天皇らしからぬ不自然な所作」から、実は「天皇が存すること」の意味と強烈なメッセージが放たれているのです(それが私を腹立たしくさせる理由のひとつです)。

その結果、天皇皇后と会った被災者は「優しく声を掛けていただいて励まされた」とか「お見舞が前を向くきっかけになった」と、報道陣の取材に応えることになるのです。大層な車列を作らずに随員とともにマイクロバスに乗り合わせてやってくる天皇を出迎えながら、直接天皇に会っていない輪島市の人たちも「勇気づけられる」「みんな苦しんでいるなか励みになる」「元気をもらったので頑張っていける」などと言うのです。8000戸の申請があるのにまだ300戸しか完成してない仮設住宅を待ちながら、ほとんどの被災者が野ざらし状態になっている、さらに片付けもままならず復旧のめども立たない。そういう現状の中での被災当事者の発言なのです。このことからすると、天皇皇后の「お見舞」は被災者の事実認識を麻痺させ悲惨な現実を忘れさせるような効果をもたらす、そんな作用を持っていることがうかがえます。そうでなければ「天皇のお見舞」という行動が、被災者対策をもっと急ぐようにという「隠れた命令」となり、国や県がそれを「忖度」して対策を進めるという政治効果を生じさせる。被災者はそれに期待しているのでしょうか。前者も十分危険ですが、後者であれば見えない形での天皇の政治介入の現実があるわけで、それはあきらかに憲法に反する天皇の行為といえます。

明仁(前)天皇が確立したスタイル

多くが指摘するように、災害被災地への訪問時の「天皇皇后の所作のスタイル」を確立したのは、先代の明仁天皇でした。

天皇皇后が見舞に出かけ、床に膝をついて被災者と話すスタイルは、1986年の三原山噴火による被災見舞が始まりでした。ただし、この時はまだ明仁皇太子と美智子皇太子妃でした。二人が靴を脱ぎ床に膝をつき、相手の目を見ながら話しかける写真があります。服装は立派なスーツでした。さらに天皇皇后になっても1993年北海道奥尻の地震や1995年の阪神淡路大震災の見舞など被災地に度々出かけるようになりました。わけても阪神淡路の被災地見舞ではスーツではなくジャンパーを着た天皇が膝をついて話しかけ、被災者の背中をさする姿が見られました。マイクロバスで随員とともに移動したのもこの時でした。

明仁天皇と美智子皇后による被災地訪問の数は数えていませんが、昭和天皇の5回に比べて回数が圧倒的に多いのは明らか。さらに例の「マイクロバスでの移動」「ラフな服装」「膝をついて話しかける」というスタイルは、明仁天皇が意図的に確立したものでした。

当初は「特別な地位にある方なのだから膝をつく必要はない」「同じ目線ではなく、立ったままでいい」。それでこそ天皇なのだという反論もありました(1995年3月『文藝春秋』、江藤淳)。しかし、明仁天皇はそのスタイルを変えずにその後も続けました。障害者リハビリ施設や子どもの福祉施設などにも足を運びました。

そして今回の徳仁天皇も皇后とともにそのスタイルを完璧に踏襲したのです。
徳仁天皇になってから、被災地の見舞は今度が2度目ですが、最初の訪問地である宮城・福島(2019年、台風19号による災害)の時はまだスーツ姿でした。ですが今回は被害の大きさもあってか、先に触れた通り、徹底して明仁スタイルの被災者見舞を踏襲したといえます。

天皇の公務?

ところで、天皇皇后による被災地への見舞は「公務」の一つとして続けられています。けれども、それには大きな問題があります。というのは、天皇や皇室の「公務」について、どこにも規定がないのです。天皇の「公務」については、憲法はまったく想定していない。天皇の行為については「国事行為を行う」とだけあり、明記された国事行為のほかに様々な公的活動などは想定されていません。旧憲法では「君主大権」をもつ元首であり軍の統帥者でもあった天皇ですが、日本国憲法ではその天皇から統治・軍事権力を外したうえ、政治への介入もさせずに、主権者である国民の総意に基づく象徴としてのみ残すことにしたからです。それが結果的には「立憲君主制」でもなく、さらに天皇の権力を薄めた形のなんとも分かりにくい〈象徴天皇制+民主主義〉の形を取ることになったわけです。ですがこの憲法には、天皇の行為を内閣の助言と承認が必要な国事行為に閉じ込めておかないと、民主主義が実現できないという考えが示されています。

にもかかわらず現在では、国事行為から大きくはみ出した行事への天皇の参加やそこでの「おことば」、さらには宮内庁が「行幸啓」と呼ぶ国内各地への訪問や見舞、外国の元首への訪問や見舞などが、法的な根拠も規定もなく「天皇の公務」としてなされているのです。これに関する疑義は憲法学でも出されているのですが、決着を見ていません。ですから象徴天皇の行為に関する憲法問題は棚上げされたまま、根拠のない「公務」(公的活動)が堂々とまかりとおっているのです。

「象徴の中身」を語った明仁(前)天皇

2016年8月8日にビデオメッセージという手段で、明仁(前)天皇が退位の意向と象徴天皇制とはどうあるべきかについて語ったこと(宮内庁が「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」と命名したもの)は、まだ記憶に新しいと思います。その時多くの議論がありました。この言動じたいがあからさまに憲法に抵触するものであり、批判も少なからずあったのですが、天皇の言動への「断罪」はなされませんでした。それどころか、政府は天皇の意向を受けて憲法や他の法にもない「上皇・上皇后」という地位を皇室典範特例法として設け、天皇の望みを叶えるという「超憲法的」選択をしました。

こうして明仁天皇は、正面から国政に介入し法律を変えさせることに成功したわけです。しかもその内容は「自らの退位」に関することを装いながら、実際には「これからの象徴天皇制のありかた」と「象徴天皇制の継続と強化」のための提案でした。これによって、天皇が政治介入をなすこと、さらに政府がそれを咎めずそのまま受け入れるという違憲状況が作り出されたのです。これはヨーロッパの立憲君主制どころか、ある意味それ以上の君主制的政治状況だといえます。この出来事は、政府や議会が天皇の政治介入を監視し阻害するどころか、一緒になって国家管理をしている証左です。天皇の意向に傾かないようにする「歯止め」が制度上どこにもなく、そうならないのは天皇の「品性」によるのだといわんばかりの状況です。

ところで、そのビデオメッセージで明仁天皇が語った内容についてですが、こういう言葉があります。

「天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました」

さらに続けて、

「こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」

と明仁天皇は言っています。

ここで言われていることはとても奇妙なことです。ひとことで言えば「象徴」とはどのようなものであるかを「象徴じたい」が意味付けして語り、それについて国民の理解を求めるという図式だからです。そういう言動を天皇がした。意見を言う「象徴(シンボル)」など見たことも聞いたこともありません。「日本とその国民の象徴」はその中身について意見を言い、理解を求めることができるのでしょうか。そして「おことば」として「陛下のご意見」を報道することもできるのです。これは不可解。おかしすぎる事態です。

歴史的な君主制ならば、国と国民を守り導くために国王が「詔勅」を出したり「慈善」をなしたりすることがあるわけですが、象徴天皇は「君主」ではないし、イギリス的な「立憲君主」でもない。憲法上では天皇の地位は「国民の総意に基づく」「象徴」となっているのですから、天皇から国民に働きかけて何かをさせることも、それによって政治や制度を変えることもできません。

そうではなく、憲法が想定する象徴天皇制とは(それがよいものであるかは別にして)、主権者である国民の側から天皇に向けて「余計なことをするんじゃない」とか「国民の意思をちゃんと表せ」「そんな天皇はいらない」とかを伝えることです。象徴天皇の中身は、天皇にではなく国民に委ねられているというのが本来の考えではないでしょうか。最低限、それは譲れないのが現行憲法の理念だと考えていますが。

ところが事態はまるで逆です。天皇がみずから象徴天皇制の意義を語っている。それを国民や政府がありがたく拝聴し忖度して実現させるという方向に動いているのです。

「公務」の意味付けをした明仁天皇

もうひとつ問題があります。先の明仁天皇のビデオメッセージですが、そこでは象徴天皇の実質性は「公務」によって示され、それによって安定して維持されるという考えが示されています。だからこそ「天皇の公務」を象徴天皇制に必然的かつ必須なものとして認めさせようとする意図がみられます。先に触れたように、これは「国事行為」でもなく、私的行為でもなく、法から大きくはみ出した天皇の公的(政治的)活動の要求であることは間違いない。しかもビデオメッセージによる(踏み込んだ)政治的発言であり、違憲行為であることも明確です。

そしてその「公務」の中心にあるのが、国内の各地への訪問(行幸啓)であるというのです。

明仁(前)天皇の言葉を引用するなら「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なこと」という部分です。ですから被災地への訪問は、天皇の「公務」のかなり上位に置かれているといえるでしょう。

ひざまずいて話しかける象徴天皇とは?

このような経緯で「明仁スタイル」での被災地訪問が編み出されたのでした。ひざまずいて目を合わせて話しかける。勢いあまって「背中をさする」こともありましたが、民間人に「触れる」行為は最近ではやらないようです。
この被災者を見舞う天皇の所作が、人々に「ありがたい」「お優しい」のなどの感情をもたらすのです。そして復興の励みとなり勇気づけになると。天皇の側も「その声に耳を傾け、思いに寄り添う」ことで「象徴であることへの理解が深まる」と。
しかしよく考えみると「ひざまずいて話しかける」所作が、その内容とは関係なしに、それじたいが「ありがたい」「お優しい」と受け止められるのは奇妙なことです。ここにはトリックがあります。

というのは、その「へりくだったような所作」は、一見「同じ位置にあって思いやりのある人」のように思えますが、実はそのような所作が無前提に意味を持つのは、相手が天皇の時だけです(それが「神」であればもっと効果がある)。天皇や皇族以外の「ふつうのおっさん」「おばさん」がそんなことをしても、「お優しい」とはなかなか思わないでしょう。何を考えて何をしてくれるのかもまったく不明でありながら、その訪問が「ありがたい」「励まされる」と感じられるのは、相手が天皇皇后だからです。そのように、トップが底辺までやってきて、かがんで謙虚に話しかける。これはヨーロッパの君主が示してきた「下々への慈愛」のパターンそのものです。君主だからこそ「お声がけ」がありがたい。そういうことです。

ということは「被災地訪問」の天皇皇后の所作は、けっして「やさしさ」から出たものではなく、君主として「下々」に示す「慈愛」の所作なのです。なぜそんなことをするのか。それはそのことが君主の権威を確認させ、民の信頼をより固いものにしてゆくからです。

「平成流」とも呼ばれる明仁天皇の被災地での「寄り添う」所作は、こうして「下々」の信頼を集めることができ、それによって天皇制の安定維持が可能と考えてのことなのです。さらには「訪問」とともに「金一封」(皇室経済法施行法によると一か所1800万円以下。最近では特例で5000万を「下賜」しており、今後、金額を上げることもありうる)をばらまくことで、人脈などを築いて地域ネットワークを動かすこともできるわけです。

このスタイルを完璧なまでに引き継いだのが徳仁天皇ですが、何を考えているのでしょう。先の明仁(前)天皇のビデオメッセージでは「これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ」ている自分の気持ちを、国民に伝えたいと結ばれていました。

今回、能登半島地震の被災者を訪ねた徳仁天皇雅子皇后が、このメッセージを受けて同じスタイルを採ったということは、ですから、「優しく」「国民に寄り添う」ためではなく、前天皇と同じく天皇制を途切れることなく安定させるためなのです。そうして「君主」であると勘違いさせるような言動や所作を、これからも国民に見せてゆく決意と受け取れます。

折しも宮内庁は4月からインスタグラムで皇室の情報発信を始めました。あんなふうに「良き君主」気取りで活動している人たちの「情報」を、「国民生活」の場に直接届けようというのでしょう。届けられるのは「情報」だけでしょうか。とても悪い予感がします。

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