分解をはじめた天皇制の支持基盤

                       堀内哲

「令和」になって、役所の仕事で決定的に変わったのは「西暦」を使用する人が圧倒的に増加し始めていることだ。毎日の仕事で住民からの申請書類や業者からの伝票を受け付けているが、西暦表記がほとんどだ。外国人の住民が増加したことも理由の一つだが、そもそも昭和・平成・令和と不規則に断絶した元号で年齢や時代をはかることに無理がある。すでに時間計測のツールとして元号が限界にきている。二十数年前、いまの自治体で働き始めたときに、文書に意識的に元号を消して西暦で作成したりしたこともあるが、そのときは周囲から注意された。しかし、さすがに時代の趨勢にはかなわない。公文書での西暦と元号の併用は、自治体の職員では当たり前になった。とりわけ西暦の使用はデジタル化の進行と軌を一にしている。本来は元号を推進する立場の行政が、効率化を進めるあまり元号を切り捨てているのは皮肉だ。天皇にとって、元号は時空を支配してきた最大のツールだった。その効力が薄れつつあることは、天皇制の片翼がもがれたに等しい。

元号と並んで、もうひとつの天皇制の支配ツールに「テレビ」がある。テレビも影響力低下が著しい。若年層の非視聴者の増加は無論のこと、それまでの人生の大半をテレビとともに歩んできた中高年齢層のテレビ離れが顕著だ。皇室絡みのニュースは頻繁に報道される。さして重要とは思えない、秋篠宮家の娘が参加していたイベントニュースまでもが、6時・7時・9時のニュースで繰り返し放送されている。「皇室アルバム」(今でもやってるのかな?)など天皇制関連の番組の視聴率がどの程度かは知らないが、最近の露出過多とも思えるほどの皇室報道は、むしろ、大衆社会に埋没しつつある皇室の危機感の顕われともいえよう。

そして、昨年、天皇家は、もうひとつの有力な見方を失った。2023年1月、新右翼・一水会の創始者で理論的支柱だった鈴木邦男の訃報が伝えられた。鈴木は理論面だけでなく、大衆性・影響力・政治力において天皇制右翼の中では傑出していた。

私は、鈴木邦男とは、一度も口を利くことがなかった。正面きって顔を合わせることもなかった。鈴木邦男は葬儀や追悼の場で、二回だけ、遠目で姿を見かけたことがある。思い出すのは数年前に池袋で開催された故・小田原紀雄さんを偲ぶ会で、なぜか右翼の鈴木邦男が一番最後に会場入りしてやってきた。左翼と右翼で思想も違う、さして親しい間柄とも思えない小田原さんを偲ぶ会に、彼奴がなぜ? と思ったが、案の定、後ろの席からこっそりデジカメで発言者の写真を撮っていた。「偵察まがいのことをする人物なのか…」とゾッとした。不愉快だったので、故人には申し訳ないが、その場から一目散で退散した。それが鈴木邦男を間近に見た最初で最後だった。その後、某出版社で鈴木邦男と対論する企画が持ち上がったが、鈴木側が拒否してお流れになった。

多くの人が気付いているように、鈴木邦男は「与しやすし」と見た人物には、言葉巧みに近寄って自分にシンパシーを抱かせ、親しげに振る舞う「政治家」だった。武闘派の強面をソフトムードに覆い隠して左派やリベラルに接近し「あの鈴木邦男さんが…」と驚いたところを、すかさず胸襟に入りこむ。そして天皇制に関しては「憲法から天皇制(第一章)をなくせば日本はファシズムになってしまう」から「天皇制を守りましょう」と威嚇する。それが常套手段だった。晩年の鈴木の左翼への接近の最大の目的は天皇制擁護だった。その思惑を見通した私の共和制論が鈴木からは敬遠されたのだろう。兎にも角にも「私、天皇陛下の見方です!」と大真面目に叫ぶ人は日本にいなくなった。もはや鈴木に匹敵する人物は右派に皆無だ。

そして天皇制最大の支持基盤は自民党だ。その自民党がパーティー券問題で大揺れだ。

そもそも、パーティー券問題の内情をリークしたのは旧統一協会と言われている。案の定、パー券問題以降、旧統一協会解散の動きが封じられた。自民党と旧統一教会は一心同体。いまでも自民党には旧統一教会人脈が根付いている。今後も、旧統一教会解散の案件が持ち上がるたびに同種のスキャンダルが蒸し返されることが予想される。ズブズブの切っても切れない関係は、安倍が旧統一教会の信者だった山上徹也に暗殺されたように、最終的に自民党を破滅へと導いていくことだろう。

こうした状況下で、前天皇(上皇)アキヒトの動向がさっぱり報道されなくなっている。隠すより顕われるなしで、かなり重症・重篤なようだ。宮内庁・政府でも、すでに「新Xデー」を視野に入れつつある。その際に参考となるのは、一昨年のイギリスのエリザベス女王の葬儀だ。アキヒトとミチコを「国父」「国母」として、最大限「葬送」すること。これが彼らの当面の課題だ。しかしながら、新Xデーの効果は、皇室の維持にとって「ジョーカー」ともいうべき最終手段であって、一時的なショック療法でしかない。日本中の多くの家庭が崩壊しつつあるように、天皇家もまた、イエ制度の解体過程に入りつつある。直感だが「新・Xデー」ムーブメントが発動された暁は天皇制にとっての「終焉の始まり」の予兆がする。

こうして列挙すると、天皇制の支持基盤は分裂・分解し、我々にとって良いことづくめの
ように思えるが、まだまだ、圧倒的多数は天皇制を支持している。天皇制も強固だ(日本国憲法こそが最大の支持基盤だが、それについてはここでは省略する)。彼我の大小は明らか。然らば「小よく大を制す」には?

この間、私が注目したのはジャニーズ事務所とお笑い芸人・松本人志の没落劇だ。芸能界の天皇とも言うべき故ジャニー喜多川及びジャニーズ事務所。お笑い界の天皇だった松本人志。テレビによって庇護された両者が、鹿砦社や週刊文春などの活字メディアによって駆逐されたのは、大衆との関係性において、マスメディアとしてのテレビがの相対的力量低下を示している。
3年前、私は長野での聖火リレーの際に「東京オリンピック反対!」の絶叫がNHKの生
中継で消音された経験がある。その後、NHK長野放送局に抗議したが、けんもほろろの対応だった。これに加えて、福島第一原発の汚染水を「処理水」と言い換えるテレビ局への不信感は極限に来ている。したがって、テレビの王様然として振る舞っていたジャニーズ芸能人と松本人志の没落には、素直に溜飲を下げて喜んでいる。

そして、テレビの桎梏から意識が解放されつつあることは、天皇制の影響力の低下と同時進行的だ。忖度と腐敗の横行するテレビ局をどうやって乗り越えていくのか。常日頃、大衆運動の参加者は、現場でテレビ局という資本と権力の牙城と立ち向かい、テレビの忖度報道に怒り、彼らを打倒することを意識している。私たちは、ペンは、剣よりも電波よりも爆弾よりも強いことを、ジャニーズや松本の事件で知ってしまった。情報が逐一分断されるSNSではなく、直接性の強い、ビラや本・冊子などの「紙爆弾」の有効性を再認識させられた。

一例を挙げれば、2022年、私は自身が編者となって『令和から共和へ~天皇制不要論』を同時代社より刊行した。東京新聞にも広告も打ち、少なからぬ反響があった。天皇一家と宮内庁も広告を目にしているハズだ。「ブツ」であることは強みだ。

ちなみに大衆運動で積極的なSNS活用が叫ばれるが、はたしてSNSが大衆運動的にどの程度の効果があるのかは未知数だ。運動現場で「若者が集まらない」とは、労働組合も同じだ。東京などの大都市と地方はで運動事情が違うのかもしれないが、時折出向く東京の運動体でも大差ないようなので、どうやらSNSも巷間噂されているほどの影響力はなさそうだ。長野県という地域に限定していえば、新聞の告知欄や広告、ビラ、ポスターが、いまだに運動的には便利で有効であることは体験として言える。

なによりも運動を「見える化」することが重要だろう。オンライン会議では本音は伝わらない。コツコツ小さな集会をやって討論し、一冊でも多く本を売る。それが、天皇制廃止に1ミリ1センチでも近づく「最速の方法」だと私は感じている。

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