天皇の戸締まり(2) 喩としての「王国」—天皇制を下支えするもの—

野毛一起

全国に氾濫する「〇〇共和国」や「○○王国」

言葉は絶えず侵食・風化に晒され、その概念も酸化していくのが常です。ですから、それに対してとやかく言うこともないのですが、日本語における「共和国」「王国」の語の変遷にはけっこう驚いてしまいます。何と言っても、今やこの二つの語は横並びの概念で、ほとんど同じような使い方をされているからです。

「〇〇共和国」や「○○王国」という呼称が全国あちこちにありますが、それらの意味するところは「あるもの(こと)が盛んで、それを中心に頑張っている地域」です。そしてその特定地域を「共和国」という呼称にするか「王国」にするかは、かなり曖昧になっています。

ですから、オランダ王国(Koninkrijk der Nederlanden)やデンマーク王国(Kongeriget Danmark)のように、「王国」でありながらも主権者が国王を望んでいるからと国民主権(民主主義)と折り合いをつける国家の表象とも異なっています。さらに、英国王を国家元首とする君主制(英連邦王国)を廃して、2021年に共和制国家になったバルバドスの選択とも無縁です。君主制をめぐる世界の動きのなか、日本語の「王国」や「共和国」などの言葉の変遷にはどんな背景があるのか。今回はそれについて考えてみたいのです。

期待される「王国」

今年の1月14日、栃木県庁内で「いちご王国・栃木の日」のイベントが「栃木県誕生150(いちご王)年記念」と併せて開催されました。県庁舎内の大ホールには県内の高校生の吹奏楽が鳴り響き、高校生がデザインした貴族の晩餐会ドレスやティアラを着けたプリンセスの白いドレスが待ち受けるなか、「いちご王」(県知事のこと)が悠然と階段を下りてくるという演出がなされました(この映像は、以下の「とちテレニュース」1月15日分で見ることができる)。
https://www.youtube.com/watch?v=HjusYxyhi-I

決して笑いを誘うものではなく大真面目な演出です。近くには「いちごマルシェ」が設けられ、名産のいちごや様々ないちご関連商品も販売されました。大勢の人で賑わっていました。ですが、このイベントの様子を見た時、まるで「裸の王様」を見るようで恥ずかしくまたおぞましくもありました。

「〇〇王国」を名乗る地域は、全国にいくつもあります。青森県弘前市の「りんご王国」高知県北川村の「ゆず王国」、さらには商業・観光施設などで「デザート王国」「おもちゃ王国」「動物王国」などと名づけられたのを数えればきりがありません。

自治体が「王国」を「宣言する」という話なら、鳥取県が突出しています。「まんが王国とっとり」は2012年に「建国宣言」しましたが、他にも鳥取県には「きのこ王国」「和牛王国」「カレー王国」「子育て王国」「芝生王国」「サウナ王国」など7つもあります。この「王国」の狙いは、県内の特産品などが全国レベルの賞を取り、また話題になったのをきっかけに、国内や世界に向けてPRし販路や観光効果を拡大しようというものです。さらに鳥取県の認知度も上げ、県外からの移住者も増えることで、県民も郷土に自信と愛着を持ち、少子化に歯止めをかけられるとするものです。県の補助金や優遇制度があります。「子育て王国」については「子育て・人財局子育て王国課」を県庁に設け、「パスポート」を発行しています。それにより買い物での割引や保育施設の無料化のサービスを受けられます。まさに県を挙げて「王国」化に期待を寄せているのです。

栃木県の「いちご王国」は、2018年1月15日に「建国宣言」がなされました。いわく「いちごを生かした人づくりやまちづくりを進め、そこに暮らす誰もが、そしてそこを訪れる誰もがいちごで幸せを共有できる」ような「いちご王国栃木」を創出するとのこと。そしていちごの品種開発やいちご農家への補助だけではなく、いちごを原料にしたりそれに因んだ商品を開発する企業との提携を進めています。そして栃木のいちごを世界にもPRし、その経済産業効果と「しあわせ」イメージによって「郷土愛」を育てるとしています。

以来、毎年1月15日「いちご王国建国の日」前後に県庁舎で大々的なイベントが開催されています。第1回のイベントから「いちご王」を名乗る県知事が、赤いガウンを纏った王のコスプレで登場しました(王笏〔おうしゃく〕までは持っていませんでしたが)。そしてホールの大きな階段をゆっくり降りてきて、下で待ち受ける王妃と白いドレスのプリンセスと合流します。その後、登壇してメッセージを宣べる。基本的にこの演出を7回7年続けているのです。その間、知事は国王のコスチュームで、いちごを携えてPRする派手なCMを作成。これが「第二回全国ふるさとPRCM大賞」を受賞したこともあって、「悪ノリ」が止まらなくなりました。県の予算書も「ふるさととちぎ. いちご王国 進化予算」と銘打たれています。

さらに今年は地元の高校生を多数動員してのイベントでした。高校生がデザインしたドレスのショーと吹奏楽。その目玉は「王女の白いドレス」でした。何人もの女子高校生がティアラと白いドレスを身につけて登場し、それぞれに「プリンセス」を演じたのです。プリンセスに憧れる年頃は過ぎているのではと思いましたが、そうではないようです。イギリスでも「シンデレラ物語」の具現だとして皇太子妃キャサリンの人気は高く、さらにその娘シャーロット王女の人気も高まっています。こうしたプリンセス流行りに乗じたイベントでもあるようです。参加した高校生はそれを楽しんだのでしょうか?

栃木は、いちごの生産量が全国1位ですが、かんぴょうもそうです。餃子の消費量も首位を争っています。乳牛も上位です。鳥取県のように「いちご王国」に続いて「かんぴょう王国」「餃子王国」などが宣言されるのでしょうか。

停滞気味の「共和国」

「王国」の問題に入る前に「共和国」の動向についても見ておきましょう。1980年頃、井上ひさしの小説『吉里吉里人』の影響もあり、「共和国」や「ミニ独立国」を宣言する地域が各地で出現しました。熊本の「河童共和国」や新潟の「さんさい共和国」などがあります。しかし「共和国」はこのところ停滞気味です。昨今ではスタジオジブリのキャラクターショップである「どんぐり共和国」くらいしか思い浮かびません。

福井、岐阜、三重、滋賀の4県が結束して「日本まんなか共和国」を「建国」したのは2000年のことでしたが、2021年には解散しました。それは当該4県で知識や情報を共有し、共同事業を立ち上げるというものでした。地域の自立性を基本にして交通網の整備、環境対策、農村振興や家畜伝染病対策を進め、また文化交流や観光開発、PRを共同で進めようというものでした。4県挙げての大掛かりな「共和国」化でした。国に頼ってばかりではだめ、自分たちで独自に「地方分権」を進める意識もあったのかもしれません。しかし今では消滅しています。「地域振興」や「郷土愛」は「共和国」では難しいのでしょうか。

なぜ「王国」が隆盛を極めるのか?

栃木県にも「いかんべ共和国」を名乗る自治体が、かつてあったのですが、それも町村合併によって消滅しました。それと入れ替わりに「王国」が隆盛を極めているのです。だけども、「いちご王国」のように「王」「王侯貴族」「プリンセス」のイメージを借りて特定の地方が「王国」宣言すると効果があり、けっこうウケるのは、なぜでしょう。栃木県は特に「イギリス王室かぶれ」というわけではなさそうですが。

栃木県には「御料牧場」や「那須御用邸」があり、天皇や皇族がしょっちゅうやってきます。その都度、小旗を振って出迎える人たちもいます。皇国史観教科書を頑なに採用し続ける教育委員会もあります。皇族は安心しきって県内の淡水水産施設や梨園や名産物を求め訪ねたりするようです。ですからある意味では「天皇家」に馴染んだ場所です。

にもかかわらず西欧王室のイメージを借りて「王国」を宣言するのには、理由がありそうです。それについて考えてみましょう。

なぜ天皇・皇室ではなく、西欧イメージの「王国」なのか?

まず思い浮かぶのは、天皇や皇室のイメージそれ自体を、県政や地域振興のシンボルとして使えない、使わないということでしょう。それを禁じる法律がある・ない以前に、「恐れ多い」という感覚があるのかもしれません。天皇皇族の画像利用には著作権(宮内庁)があり、(個人が撮った皇族の写真がネット上に拡散しているというのに)肖像権・プライバシー権を盾に脅されることがあるかもしれません。ですが皇室めいた人々をパロディーで演ずることには何の規制もないはずです。にもかかわらず皇族のイメージを使うことを自粛している(商品の売り込みには「宮内庁御用達」と表示しても)。そうなると、皇室のイメージを使わないことが、むしろ天皇皇族の権威を護ることになる。皇室を神秘のベールで覆って護るという感性と政治は、今なお生き残っているのです。皇室ではなく、敢えて海外の王室のイメージを用いるのは、そういう事情からでしょう。

次に、天皇・皇族はあまり「絵にならない」イメージだということもあります。衣装やその姿を真似るとしても、(神道祭儀以外)ほとんどの儀礼がイギリス王室を模したものです。それでいてイギリスのように頻繁にメディアに登場し、王室ブログに載せたりして(かつてのダイアナは露出気味でした)「見せる」存在ではないということです。であるならイギリスや西欧の王族のイメージを直接持ってきた方が見栄えがいいということになります。そのことで天皇を無視していることにはならず、むしろ外国の「王の衣装(意匠)」の力を借りて天皇制を支えることに寄与しているわけです。

3つめは、天皇制国家のもとでの「王国」宣言ですが、その内容をよく見ると、「明治天皇制」の下に「家長的なパトリオティズム」が束ねられた歴史を思い出します。「近代日本」のナショナリズムの象徴であった天皇ですが、明治期にはすぐさま機能しなかった。だからこそ皇国史観教育を進めながら、他方で郷土の長としての「家長」やパトリオティズムに接ぎ木される必要があったのです。

栃木県は「いちご王国」で「郷土愛」を育てると言っています。だからといって栃木県に明治以来の天皇制の残滓が色濃くあるわけではありません。全くないとも言えないのですが、今日ではかなり変質した形でパトリオティズムとナショナリズムの結合の問題があるのです。昔とは異なる仕方で「地方」を天皇制国家に繋ぐための政治状況が作り出されている。そのことは少子化、高齢化、過疎化による中山間地域の崩壊を背景にしています。家族は海外や他の都市で暮らしており、残された老夫婦の家には遠い地にいる孫たちの写真が飾られても、昔のように天皇・皇室の写真はありません。すなわち取り残され疲弊した地方の再生は天皇に求められるものではない。そんな地方の再生のためには、天皇皇室の存在とは別途に「地域おこし」や「新しい郷土愛」を作り出し、その救済原理をナショナルなものに繋いでゆく政治が必要ということです。その時「王国宣言」という目新しい「地方の枠組み」がきっかけになるのです。王のガウンを纏った県知事は、疲弊した「地方」に豊かさをもたらしてくれる「王」であり、その「郷土」で生き延びる自分たちが「普遍日本」に繋がっているという新たな感覚と実態をもたらすのです。

その意味では、天皇は日常から遠くはなれた場所にあって「日本」という価値を刻んでいます。だけども何の力も持たない「お飾り」ではありません。国家的規模の大災害や戦争において、この「象徴」は(「新しい郷土愛」を通じて)それに束ねられていない人々を憎み差別し、いつでも排除できる情動を呼び起こすことができるからです。

4つめは、天皇制のありようを若い世代がどう受け止めているかに関する問題です。

ヨーロッパの王室は、1980年のスウェーデン王国を皮切りに王位継承法を改正し、2013年までに、オランダ、ノルウェー、スペイン、ベルギー、デンマーク、イギリスでは長子先継あるいは絶対長子相続制を取り入れ、王位継承から性別の要件を取り除きました。その結果、スウェーデン、オランダ、スペイン、ベルギーの4国がまもなく女王の国になるのは確定的です。そのせいかヨーロッパの王国ではプリンセスの存在を中心に王室への関心が高まり、情報メディアが華々しくなっているようです。

「プリンセスファッション」から「女性天皇」支持へ

「いちご王国」イベントでの「プリンセスファッション」は、高校生の視線から「プリンセス」を捉えるものですが、そこには「欲求の陽性転移」のようなものが感じられます。「階級差」を超えてイギリスの皇太子妃になったキャサリンが集める人気と同質のものです。

日本は男系長子が皇位を継承することになっていますが、その改正の動きとそれを阻む動きが拮抗しています。そんななか世論調査では「女性天皇」に期待を寄せる若い世代の声が半数を超えています

*参考資料
・毎日新聞「日本の世論2021」
https://mainichi.jp/articles/20220224/ddm/002/010/031000c

・朝日新聞「象徴って何だろう」(2024/01/25)
https://www.asahi.com/opinion/forum/194/

国際情勢に合わない「伝統」を取るのか、情勢に合わせて「生き残り」を取るのか。皇位継承のあり方は、タイミングの問題を含みながら検討されているに違いありません。そういう時、欲求や願望を「プリンセス」に転移するという若い世代の情動を利用しないはずがない。ですから「プリンセスファッション」は、批判的な意味を持つものではなく、むしろ象徴天皇制のありようを検討する上で大いに参考にすべき「同調者の声」として受け止められるのです。こうして「いちご王国」イベントは、ヨーロッパの王権のありようを経由して、象徴天皇制の存続に関わる「好意的欲求」を示す場となっていることは明らかです。

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