千葉功『南北朝正閏問題——歴史をめぐる明治末の政争』

不純きわまる天皇制の「ルーツ」をめぐる悲喜劇の歴史

「南北朝正閏問題」なる「問題」が、かつて「存在」した。

天皇は、現在の天皇徳仁で126代を数えるとされ、「神武」以来、「一貫して男系相続」がなされて持続してきたことになっている。しかしこれは、誰もが知るように、近世〜近代になって儒教の大きな影響と反動により興隆した「国学」「国史」の、「学説」をつぎはぎ細工することで捏造されたものである。

千葉功『南北朝正閏問題』 (筑摩選書260、2023年)

天皇に権威がある、天皇に権力がある、天皇の施政により「国」の伝統や歴史が続いてきた、だから天皇を敬愛せよ、天皇制大日本帝国のあらゆるものに従属せよ、というのが明治天皇帝国の要求する支配の観念だ。そして天皇制官僚はこの観念に基づいた「歴史」を、かたちと中身の齟齬も明らかな社会の隅々にまで浸透させようとした。

とはいえ、これはそれほどスムーズに進むはずもなかった。実証性に乏しい「歴史」像は、宗教観念や地方権力、世俗意識ともずれたものであり、だからますます歪んだものとなる。そして、そもそも、典拠とする歴史資料が天皇制の「価値」を「立証」するものではない無根拠なものである以上、天皇じたいの「歴史」があやふやな存在となるのは当然でもあった。かつて実際の支配権力を確立していた、徳川や足利、藤原などの歴史ならともかく、権威・権力の多くを喪失していた、あるいはそもそも乏しい天皇と公家たちの「歴史」は、そのようなものとしてあった。支配権力の存立や行使の事実関係を根拠づける立証など、そもそも不可能だったのだから。

とくに、政治権力が安定した時代ではなかったときには、「天皇」の即位すらも危ういものだったし、その天皇じしんがしばしば政権に対するクーデターを働いたりして流されたこともあった。そもそも縁戚閨閥など、内部の地位の相続が、明確なルールに基づくものではなく利権争いそのものでもあった。「誰が天皇なのか」ということの確定すら困難あるいはできなかったのだ。神武以降の「欠史八代」、さらに「欠史十代」が、神話や伝承にしか基づかないということだけではない。明治期末、その時点で数えられている天皇の代が怪しいものだということは、当時の「国学」「国史」の側にとってもつねに意識されるだろう重大な問題であったと思われる。もちろん宮内省においてはとりわけ肝心かなめのことでもあった。

大日本帝国は対外的には戦争と植民地政策を拡大しており、国家のかたちも「国民」もこれにより変わりつつあるということが意識されていた。そしてそこに、「国定教科書」編纂の必要性が絡んでくることになる。藤原ら「貴族」が支配する時代から、武士たちの勃興で、天皇やその地位を象徴し証明するはすのガレリアが海に沈み、天皇やその眷属が権力を奪われ流刑地に送られることも繰り返し起きる時代となり、天皇や院が複数存在するということになった果てに、それぞれが自派の正統を打ち出した「南北朝」という時代となった。これに決着をつけるために、「南北朝」のいずれが「正」でいずれが「閏」であるのか、「国定」の「歴史」を確立せねばならず、そこから「学派」とも言えないような派閥争いが生まれ拡大することになった。

そのこと自体は、嗤うべしとしか言いようがない。しかし、この時期は「大逆事件」など天皇制国家の暴力性が次元を上げてきた時期であり、「国体」思想が脅迫的な色彩をより強めてきた時期でもあった。著者は、これらの時代背景を丁寧に拾い上げており、それにより、「南北朝正閏問題」の「論争」が、愚かとしか言いようのないものであることを導き出してくれている。

メディアや「帝国議会」にまでこの「論争」は持ち込まれ、あげくは山県有朋や桂太郎らにより「政治決着」がつけられた。「神皇正統記」史観に基づいて大覚寺統の後醍醐から後亀山までの南朝の天皇を数え上げるとともに、光厳から後小松までの北朝も別途に数え上げて統合を図り、北朝の流れに以降の皇統を位置づけた。水戸学の「大日本史」において南朝正統説が形づくられながら、天皇の系統が実際には「北朝」に帰している矛盾を否定するためのレトリックの数々が、その後も、天皇の「歴史」から、ひいては現在の「日本史」にまで影響を与えたという醜悪な経過がここからは読み取られる。

文部省により教科書が改訂され、政治決着によりいちおうの終着をみた「南北朝正閏問題」だが、これは、「万世一系」論や「女系天皇」論、「伏見宮」ら「皇族」の「正統性」など、現在に至るまで、天皇主義者たちにとっては、なお「重大な論争」を生みだし影響を与えているものでもある。歴史学に国家が干渉し、これについて「国史」としての正否をつけるということの問題は、いまなお、大きい意味を持つ。

それは、天皇制の大日本帝国が、植民地侵略や強制連行、さらには虐殺を繰りひろげて、惨めな敗北と多数の死者を生みだしてきた史実を、栄えある「国史」から除外するという、右翼たちの歴史修正主義とも密接不可分のものとしてあり、その大枠をつくったということでもある。愚劣きわまる「南北朝正閏問題」は、歴史の事実から目を背けさせて、あるべき論点を収奪して、天皇制国家を「自明」なものとして議論の全体を暴力的に蔽いつくすものであった。考えるべきものは、こうした空虚な論点の誘導と議論の圧殺を、どのように否定していくかというところにこそあるだろう。

(蝙蝠)

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