憲法から考える天皇制

清水雅彦(日本体育大学教授・憲法学)

はじめに

徳仁が天皇に即位し、元号が変わってから6年目。徳仁は明仁ほど積極的な発言・行動をしないが、明仁の「遺産」はやはり大きく、日本が共和制に移行するのはかなり困難なことであろう。とはいえ、やはりしつこく天皇制の問題を言い続ける必要がある。

私の専門は憲法学であるが、私自身は「護憲派」ではない。天皇制は、人を生まれによって差別した封建制社会の遺物であり、国民(憲法は「市民」や「人民」ではなく、「国民」という用語を使用しているので、この表現を使用する)がそのつど継承順位を決めるわけではなく、国民誰もが天皇になれない点で、民主主義と法の下の平等に反し、国民主権とも相容れないため、憲法を改正して天皇制は廃止すべきと考えるからである。

このような私の立場から、まずは今の日本だけを見るのではなく、他国と戦前とを比較し、憲法の天皇の規定を確認した上で、思うところを述べたい。

比較から考える天皇制

まず、天皇制を他国との比較で考えるとどうなるであろうか。身分制を基本としていた封建制時代においては、君主が支配する君主制国家が世界の多数派を占めていたが、フランス革命などの市民革命後、君主の存在しない共和制国家に移行する国が増えていく。このような世界の状況の中で、日本は憲法で国民主権を規定するものの、外務省が元首として扱う天皇が存在し、形式的には君主制国家(立憲君主国)として分類される。そういった意味で、日本は世界の中では少数派の君主制国家に位置づけられる。そして、日本では明仁の「功績」も大きいため、かなり長く天皇制が残る可能性がある。

次に、戦前との比較で考えるとどうなるであろうか。天皇の地位については、戦前は天照大神の意思により天皇の地位が決まり、「万世一系ノ天皇」(大日本帝国憲法1条)が統治するとされたが、日本国憲法では天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」(1条)としたので、国民の「総意」によっては天皇制廃止・共和制への移行は憲法上いくらでも可能になった。天皇の権能についても、戦前の天皇は「国家ノ元首ニシテ統治権ヲ総撹シ」(大日本帝国憲法4条)、天皇が立法権及び行政権を有し(大日本帝国憲法5条及び6条)、司法権は天皇の名において行われた(大日本帝国憲法57条)が、日本国憲法で天皇は「国政に関する機能を有しない」(4条)としている。

天皇についての憲法の規定と現実

さらに、日本国憲法の天皇の規定をより詳しく見ていきたい。戦後、天皇制を日本に残すにあたっては従来の天皇とは明確な差を設けることにし、「日本国」と「日本国民統合」の「象徴」として残すことにした(憲法1条)。もちろん、生身の人間を「日本国」や「日本国民統合」の「象徴」とすることは意味不明な部分もあるが、少なくともこの規定は天皇が象徴であるから偉いというような天皇の地位を強調するものでは全くなく、天皇には象徴たる役割以外の役割がないことを強調しているにすぎない。別に偉いわけではない存在の天皇家に対して、マスコミなどが皇族の名前に「さま」(「様」ではない。また、「上皇さま」と、称号にまで「さま」を付けるありさまである)を付けるのは大変滑稽である。

皇位については、憲法2条で皇位を世襲としている。そして、皇室典範では、1条で皇位を男系男子に限定し、2条で具体的な皇位継承順序を規定している。この皇位の世襲制は、本来なら民主主義と法の下の平等に反するものであるが、憲法に天皇制を残したため、皇位世襲制は民主主義と平等原則の例外と憲法上解釈されている。女性天皇を認めないことを差別だとする議論があるが、女性天皇を認めても天皇制という差別制度は残る。やはり民主主義と法の下の平等の観点から、天皇制そのものも廃止すべきである。

憲法は4条で天皇の国政に関する権能を否定しつつ、国事行為を認めた。具体的に6条と7条で列挙している。この国事行為の実質的決定権が天皇以外にあるという点で、天皇の行為に対して質的限定(国政からの隔離)を行い、6条と7条で具体的行為を列挙することで量的限定(限定的列挙)を行っている。そして、全ての国事行為は内閣の助言と承認を必要とし(憲法3条)、天皇は形式的儀礼的行為を行うにすぎない。

この国事行為以外に、特に憲法に明示していなくても私人として私的行為を行うことは天皇に認められているが、国会開会の際の「おことば」、国内巡幸、国民体育大会や植樹祭への出席など、象徴としての地位に基づく天皇の行為(公的行為又は象徴としての行為)が行われてきた。学界では、公的行為を認める説が多数説ではあるが、私自身は天皇の行為の拡大と影響を批判する観点から、公的行為を認めない立場に立っている。

自民党改憲案の中の天皇規定

これまで自民党は、2005年に「新憲法草案」、2012年に「日本国憲法改正草案」という全面的な改憲案を公表している。特に後者は、復古色が前面に出たものである。

まず、12年案前文の冒頭で「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」と規定し、1条では「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」としている。憲法学界では天皇を元首として扱うことには異論もある。世界では君主制から共和制に移行していく中、日本でも天皇主権の大日本帝国憲法から天皇が象徴である日本国憲法に変わったのに、天皇を元首にすることは世界の流れに逆行する。

また、3条1項では「国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする」、2項では「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」とし、4条では「元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する」としている。そもそも、天皇の時代が末永く続くと歌う君が代と、天皇が時間を支配していることを示す元号は国民主権に反し、侵略戦争のシンボルであった日の丸は平和主義に反する。日本国憲法の下では国旗国歌法と元号法は違憲立法であり、ましてや憲法に日の丸・君が代・元号のことを規定することは大問題である(私自身は、日の丸・君が代が好きな学生が多い体育大学で、いかに日の丸と君が代には問題があるのかという授業を行なっているが)。

さらに、6条5項で「……天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う」とし、天皇の公的行為を憲法上認める規定となっている。これも先に触れたとおり、天皇の公的行為を認めること自体に問題がある。

おわりに

特に明仁に対する肯定的評価は、市民運動家の中にも結構あり、リベラルとされている『朝日新聞』『毎日新聞』、それ以上に『東京新聞』が明仁や皇族に対して礼賛的な報道が多い。いかにも『水戸黄門』が大好きな国民気質の反映ともいえるが、やはり、権威にすがるのではなく、主権者である私たち自身の主体性が求められている。

では何が必要か。まずは、地道に天皇制やそれにかかわることのおかしさを多くの人に伝えていくことである。例えば、君が代の歌詞の意味や祝日16日中9日が天皇がらみの日であることを、国民主権の観点からこれでいいのかと知らせていく必要がある。また、私自身は全ての公文書に西暦表記を求める「西暦表記を求める会」の活動にかかわっているが、元号のおかしさ・不便さも広めたい。やはり、国民主権・民主主義・法の下の平等を徹底すれば、将来的には天皇制をやめて共和制にするしかない。

「西暦表記を求める会」ブログ
https://seirekiheiyo.blogspot.com/

参考文献:清水雅彦「憲法から考える天皇制」堀内哲編『令和から共和へ 天皇制不要論』(同時代社、2022年)

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