「選択肢が限られている」人たちの存在

斉藤小百合(恵泉女学園大学教員)

はじめに

わたしたち国民の間で「天皇制」をめぐる議論は活発でしょうか。なかなかそうとは言えなさそうです。ただ、天皇制に関する議論が高度に「タブー」視されている状況も変わりつつあるのかもしれません。2023年10月の臨時国会開会式で、衆議院議長に選出されたばかりの額賀福志郎氏が手順を間違えて、本来渡す必要がない自ら述べた式辞を天皇に手渡してしまうというミスがありました。全体の流れとしては、本来は一度下がって天皇の「お言葉」を聞き、その後、再び中央に戻って天皇に歩み寄り、「お言葉書き」を受け取るという段取りなのだということです。ですから、たしかにミスではあるけれども、勘違いしうる動きではあるのかもしれません。(手渡すのと受け取るのとでは全く逆の動作ですが・・・。)

このミスが報道された際に、保守派からの強い抗議や、額賀氏に対するバッシングが起こるのだろうか、と注視していたのですが、管見の限り目立ったものは見当たりませんでした。逆に、週刊誌などでは、いうなれば「秋篠宮家バッシング」のような記事--ただし、これが秋篠宮文仁氏を対象とするのではなく、妻や子どもたちがターゲットとなっている点で日本社会に根深く潜在するミソジニーの表出でもありそうです--が散見されます。一見すると、この領域での自由な言論が確保されているようでもあります。しかし、この件に限らず、日本社会で天皇制の本質にかかわる議論というのは乏しいのではないでしょうか。この「反天ジャーナル」はとても貴重な議論の場です。

日本国憲法下の天皇制の基本

ここでは、議論の土台とすべきことを憲法的に考えてみようと思います。天皇制に関する、日本国憲法におけるもっとも重要な原理は、まさに憲法第1条に規定されています。すなわち、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」ということです。この規定を理解する際に、いくつかポイントがあります。まず第1に、「天皇の地位」が「主権の存する日本国民の総意」に基づくという点です。国民が、「日本国の象徴」であり「日本国民統合の象徴」であるという「天皇の地位」を必要ないものと考えれば、「この地位」は基礎付けを失います。土台がなくなってしまえば、憲法上の制度としては持ちこたえられないということになります。ただ天皇家の人々も、たとえば、徳川幕府を率いた徳川家の人たちが、他の家系の人たちが、継続したり、断絶したりするのと同様に、「法の下の平等」に反しない限りで、血筋を引き継いでいくことは差し支えないでしょう。

結局、ひとえにわたしたち国民が、天皇を「日本国の象徴」として必要としているかどうかということにかかっているのです。2023年は、これまでなんとか取り繕われてきたようなところがあった、日本のお粗末な人権状況をまざまざと浮かび上がらせた年ではなかったでしょうか。そんな人権後進国である日本に、基本的人権の多くが制約され、憲法的原理、とりわけ平等原理・個人尊重原理に真っ向から反する存在である天皇が象徴である、というのは相応なのかもしれません。しかし、それを今後も続けていくべきでしょうか。人権後進国のままであり続けることにわたしたちは加担させられていいのでしょうか。むしろ平等原理に真っ向から反する存在である天皇を象徴とすることを清算してしまうべきなのではないでしょうか。天皇制を維持していくことと、自由で平等な社会を進めていくこととどちらに優先順位をつけようと思いますか?

もう一つ、憲法第1条について、指摘しておくべきポイントとしては、「国民統合の象徴」というのですが、天皇に積極的に「国民統合」の役割を期待しているわけではありません。国民統合はすでに存在するのです。積極的に「国民統合」的な機能を果たそうとすれば、日本国憲法が構想している象徴天皇制を著しく逸脱してしまうことになります。天皇は、憲法4条が言うように「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」のです。政治的な機能を果たしてはならないのです。ですから、「国民統合の象徴」といっても、天皇は、すでに存在している国民統合を象徴するにすぎません。

「伝統の継承者」

ところが、実際上は日本国憲法が制約している範囲に天皇制が収まっていない疑いがあります。岡田健一郎さんの論考でも指摘されているように、2016年8月の「おことば」(「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」2016年8月8日)は平成天皇の退位についての議論を決定づけてしまいました。この「おことば」は、平成天皇の高齢化による機能不全や死去の際の混乱といった人間としての天皇が退位を要請するという論法でした。日本国憲法は、天皇の役割は徹底的に小さなものに収めようとしています。天皇が行うことができるのは、「象徴」であることと、「国事行為」を行うことですが、国事行為とは、突き詰めれば極めて儀礼的な行為にすぎません。そこに天皇の意志を介在させることもできません。

しかし、人間であるからには天皇も意志を持ち、平成天皇は、象徴天皇制を維持していくために、いわゆる「平成流」と言われるような、「象徴としての役割」、つまり国事行為以外の「公的行為」によって自身の存在意義を示そうとしてきたわけです。そして、平成天皇にとっては、この「公的行為」に属する自身の活動ができなくなった・できなくなることを憂えて「退位する」意志を固めたのでしょう。また私的行為として、国民にはあまり可視化されない宗教行事の挙行についても、困難になったということもあるでしょう。2016年8月の「おことば」には、天皇にとっての「祈ること」の重要性も綴られていました。宗教行事を通して「国民の安寧と幸せ」を「祈る」という宗教行為とも読み取れます。天皇の活動の中で皇室祭祀を重視することは、政教分離原則上の懸念を孕んでいます。

何よりも、この「おことば」で、平成天皇は自身を「伝統の継承者」と自己規定しています。それはどのような「伝統」でしょうか?1946年1月1日の「新日本の建設に関する詔書」、いわゆる「人間宣言」でも「伝統」に触れられています。

「我が国民がその公民生活において団結し、相倚り助け、寛容あい許すの気風を作興するにおいては、能く我が至高の伝統に恥ぢざる真価を発揮するに至らん。斯くのごときは、実に我が国民が人類の福祉と向上とのため、絶大なる貢献を為す所以なるを疑はざるなり。」

「人間宣言」と称されているものの、この文書そのものも明治天皇の「五箇条の御誓文」から書き起こされており、大日本帝国憲法下での体制からの断絶、とりわけアジア・太平洋戦争における惨禍を経て、国内外の人々に多大な苦難を強いてきた軍国主義的天皇制国家からの決別といったものではありません。「五箇条の御誓文」からの延長線にある文書なのです。平成天皇が念頭においている「伝統」も、この「伝統」に連なっているのではないでしょうか。そうなのだとすると、随所で、日本国憲法への理解を示しているようでいて(2016年8月の「おことば」には、「天皇という(憲法に規定された制約のある(筆者補足))立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控え」るとか、「憲法の下,天皇は国政に関する権能を有しません」と言及してはいます)、日本国憲法の基本原則である国民主権や基本的人権の尊重、平和主義といった大日本帝国憲法からの決定的な違いということは浮かび上がってこないのです。その「伝統」が、大日本帝国憲法的なるものからの根底的な転換であるような、そのような「伝統」ではないということを見据えておかなければならないと思います。

おわりに

この文章をまとめている際に、誕生日を迎えた秋篠宮佳子氏が、活動(費用なども含め、過大ではないのかなど、それ自体が検証されなければならないですが)の中で、「誰もがより幅広い選択肢を持てる社会になること」を提唱しているという報道に触れました。彼女には、そして彼女の弟は、「幅広い選択肢」を奪われているわけです。「誰もが幅広い選択肢を持つ社会」は、まさしく、「個人として尊重される」(日本国憲法13条)社会なはずですが、彼女らを含めて天皇制を維持するために存在している人々は「個人として尊重される」ことから原理的に遠ざけられているのです。天皇制とは、この人たちに「個人として尊重される」ことを否定することで維持されています。

では、少数ではあれ、一定の人数の人たちが、原理的に「個人として尊重される」ことを否定されていることを放置しておいていいのか。これを解消するのは、天皇制を支える人々にも基本的人権を及ぼしたり、平等原理を取り入れたり(例えば、皇位継承を「男系男子」に限定するのではなく、女性・女系天皇を可能にすること)することによるべきではないと思います。それでは根本的解決にならず、かえって維持し続けることで天皇制という、憲法原理のなかの「異物」との緊張関係を孕みつづけるのです。そして、この制度を維持していくために、皇室典範(この法律の名称自体も変えて、大日本帝国憲法的なるものから切断されることが望ましいでしょう。いや、いかにも大日本帝国的な「遺物」であることを示すために、残しておくべきかもしれません)の改正によって女性・女系天皇を可能にするとしても、もはや天皇をこの国の象徴とする必要はないと判断するとしても、それは主権者である国民が決めることなのです。

以上。

 

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