天皇の戸締まり (1) 儀礼の所作と統治権力——国会と天皇

今月から「天皇制問題のいま:天皇制/王制論」に不定期連載「天皇の戸締まり」がスタートします。どうぞお楽しみに!

儀礼の所作と統治権力——国会と天皇

野毛一起

10月20日の臨時国会開会式で面白い出来事がありました。額賀福志郎衆院議長が式辞を述べた後、「玉座」にいる天皇の所まで近づいていき、自分の式辞を手渡そうとしたのです。本来の式の手順には存在しないものですから、その所作に天皇は困惑した。そして近くに控えている事務方をちらりと見たうえで、結局は何事もなかったように、そのまま受け取ったのです。そして天皇はやや困惑を含んだ笑顔で降段する議長を見送ったという出来事です。

国会開会式は天皇の隣席のもと参議院の本会議場で行われます。三権の長をはじめ衆参の国会議員が一堂に会します。そしてまず衆議院議長の式辞があり、続いて格別に高い「玉座」の天皇が「お言葉」を宣べる。それから衆議院議長は玉座まで上っていき、その「お言葉」が書かれた紙を恭しく受け取り、後ろ向きに階段を降りる(これが「蟹の横這い」と呼ばれるもので、天皇に尻を向けないための所作です。体力の衰えで「蟹の横這い」ができないため衆議院議長を辞退した福永健司議長(1983年)のような例もあります)。そういうのが本来の手順だったのです。ですから額賀議長は天皇の「お言葉」を受け取るよりも先に、国会の長の「言葉」を天皇に手渡すという「逆の動作」をしたのです。つまり天皇に「国会の意思」を「授与」してしまった。「儀式本来の意図」からは大きく逸脱した行為です。

*参考資料:『FNNプライムオンライン』、『朝日新聞デジタル』
https://www.youtube.com/watch?v=GTdcVJLjrA8 (動画)
https://digital.asahi.com/articles/ASRBS5G3KRBSUTIL029.html

この「失態」はANNや日テレなどのネットニュースでも報道されました。前者は「誤って紙を渡す」という表現、後者では「所作誤り」、その他多くのメディアでは「所作ミス」という表現が目立ちました。そして額賀議長本人も「(初めての行事で緊張して)若干ミスがありましたけれども、しっかりと反省をして、今後議事進行とか様々な行事についてしっかりと対応できるよう努力して参りたい」としどろもどろに語りました。

「若干のミス」という当人の認識について、ANNニュースの聴取者のレスポンスでは「若干ではないだろう。以前なら切腹ものだぞ」とか「議長はすぐさま辞任せよ」とか「どうして廃棄処分直前のような人物しか議長になれないんだ」「自民党も終わりだな」とか、額賀議長側に対する非難が目立ちました。他方、日テレニュースのレスポンスでは「あの(天皇の)笑顔は限りなく優しい」「度量の大きな方」「とことん人を思いやる方」などと、天皇徳仁へのシンパシーを示すものが目立ちました。

翌日、額賀衆院議長は慣習として皇居を訪ね、国会開会式への天皇の隣席のお礼を伝えるのですが、その折、西村宮内庁長官を通して国会開会式での所作の誤りを謝罪したとのこと。それに対して天皇からは「お気になさらずに」との伝言があったことも報道されました。
さらに国会事務総長や政府高官からもとりなしの動きがあったということです。こうしたなか「女性週刊誌」のいくつかには「天皇の思いやりとやさしさ」や「何事にも動じない心の大きさ」を賛美する記事が載せられました。他方で、今なお議場に天皇の「玉座」があり、その高みから天皇が「お言葉」を宣べるという、あたかも君主制国家のごとき儀式の不自然さを疑うものもあるのではと思いましたが、ネット上の記事には発見できませんでした。国会は天皇の議会である——その意匠をまとった儀礼をいまさら問題化するのは徒労なのでしょうか。

イギリスの議会では、議会の長は国王(あるいは女王)であるから、開会式には国王夫妻が臨席し「玉座(2座)」に就き「キングススピーチ」をします。かつては国王の勅旨の意味をもっていたのでしょうが、現在では時の政府が作成した文章を読み上げることになっています。それは政府が用意した施政方針演説です。とはいえ主語は国王になっていて「我が政府(my government will …)」ではじまります。「我が政府は・・・を行う意向である」というような言い方です。ですが、これは政府の施政方針演説の代読です。議会ではその「演説」をめぐって議論が交わされ、採決が必要な議案とはなっていますが、それを否定する議員もなく、型通りに採決される「ダミー法案」の扱いです。「国王は君臨すれども統治せず」を1714年から慣習法で引き継いでいるイギリスですから、国王は政府の方針には口出しができません。イギリスのことも知らず英語を話すこともできない王を外国から連れてきた歴史もありますから、当然と言えば当然なのかもしれない。イギリス王家は元来イギリス人ではないと言う人もいます。国王は賛成も反対も言えずに労働党だろうと保守党だろうと、それが作成したものを淡々と読み上げる。それこそ君主を玉座に据えながらのねじれた議会制民主主義の情景なのです。国王に即位したばかりのチャールズがそれを抑揚のない調子で読み上げる映像を見ましたが、あれはまるっきり「猿芝居」ですね。儀礼というよりも「見世物」化したイベントです。

ただし、イベントといっても大がかりな国家イベントです。なにしろ、王冠を付け正装した国王夫妻が宮殿から議会に向かう場面から儀式がはじまります。近衛兵に先導された金色に輝く六頭立ての馬車に乗り、沿道にいる観衆(観光客も)に手を振りながらパレードします。そして議会近くの首相官邸裏の広場に到着すると、そこでも着飾った近衛兵や貴族たちが出迎えます。国王の閲兵があり馬術などの披露もあります。これには選ばれた7000人が招待されるというもので、まさに時代まつりのような大掛かりな「王の登院儀式」が前段にあるのです。続いて議会に入る折にも儀仗兵や着飾った係官による昔ながらの儀式(国王は上院にしか訪れないので下院の扉を叩いて到着を知らせる儀式など、他にも上院(貴族)と下院(庶民)の階級的格差を強調する儀式)があります。上院の玉座(国王夫妻用の2座)の前の階段には赤い絨毯が敷かれ、王の入場を待つ。その後にキングススピーチです。

天皇の国会臨席は帝国議会貴族院に明治天皇の玉座を設けたことからはじまります。現在の国会議事堂は1919年に着工1936年竣工です。明治から続く帝国議会ですから貴族院には玉座がありました。そして1947年日本国憲法のもと貴族院は廃止され参議院に改組されるのですが、玉座は取り払われることはありませんでした。ですから新憲法下でも昭和天皇の帝国議会と同じように天皇が玉座についたのです。イギリス君主制の儀礼を取り入れた天皇制ですが、「我が議会は」と玉座から言い放つイギリス君主の「猿芝居」の「猿真似」をかたくなに続けているのでしょうか。新憲法になっても天皇は議会の上に座っている。イギリスのように国王夫妻が派手なパフォーマンスとともに登場するでもなく、なぜだか天皇の場合は「ひとり」で静かにやってきて玉座に座り「お言葉」を宣べる。これはいったい何なのでしょう。

イギリスの場合だと国王が登場する国家儀礼は「見世物」として演出されていますから、その意図は明確です。内外に連合王国(the United Kingdom)が何であるかを示し、その儀式やイベントに人々を巻き込んでゆく。そのために大英帝国時代の君主のイメージを用いて華麗に演出する。そして英国の威信を国内だけではなく海外にも発信しているのです。これはイギリス君主制が植民地支配を固める際にも用いられました。すなわち、ここでの国家儀礼は、君主を戴く国家の強大さを誇示すると同時に、その統治空間をより拡大するためのイベントであることが分かります。これは世界という「劇場」を意識して演じられる儀礼であり、それを演ずるものはもちろん観る者たちをも「大英帝国の世界」という仮想空間に囲い込んでゆくのです。そして同時にそれが統治空間となるのです。このように統治空間を拡大する力を持っているのがイギリス型の君主儀礼です。

天皇制の場合もそれをまねた部分があるにはあります。しかし明治期の天皇制には大英帝国のような先行モデルがなかったため、古代天皇制から持ち込んだ日本神話と神道で表現せざるをえなかった。そしてそれをそのまま植民地支配にも適用(皇民化)しようとするのですが、その適用は血塗られた非道な権力支配と略奪以外の何物でもなかった。もちろん大英帝国も同様ですが、権力の現れ方が異なっているのでしょう。キリスト教の権力ネットワークと神道のそれの異なりもあります。それはともかく、このような国家的儀礼によって非道な「統治空間」を形成してきたこと(植民地侵略や戦争)の反省も謝罪もすることなく、イギリスも日本もいまなお「統治空間」の中心と上座に国王や天皇を戴く国家であることは否定できません。イギリスでは「そんな王などいらない」という人々が一定程度いますし、スコットランドの議会は国王に「我が議会」とは呼ばせません。イギリスのように国王の名前で法令を発布することもしない(「イギリス国王の裁可」の手続きは必要なようですが)。統治空間の誇示とその拡大のメッセージを持つ国家儀礼や君主制に対する批判はあたりまえなことであって、問題はその批判をどこに繋げるかです。

最後に、天皇制の儀礼の特徴についてまとめたいと思います。「見世物」や「イベント」のなかに「観客」を引き込み囲い込んでゆくイギリスの国家儀礼と比較してみると、天皇制の儀礼はひどく秘密めいています。「見世物」として明確なメッセージを放ちながら統治空間を拡大するというよりも、閉じた空間を作り上げることに重点を置くものです。国会の開会式じたいも「見世物」ではなく、閉じられた空間の中での儀礼です。

だからといって、それが何の役にも立たないと言うのではありません。どのような儀式もそこでは「閉じた空間」が形成され、その内(ウチ・家)にある者たちを統制する働きを持っています。世俗化した儀礼も同様に人々をコントロールする力を持っています。それが天皇のもとでの儀礼や国家の儀礼となるとより強い統治の力を発揮する。それは論理的な言語やイデオロギーそのものではなく、宗教的な儀式や慣習化した儀礼あるいは伝統文化の装いをしていますから、人々はほぼ無意識のうちにその「閉じた空間」を受け入れるのです。そしてこの空間に自分の生きる場所を見出そうとする。こうした儀礼的な「閉じた空間」による統治のありかたこそ天皇制支配の特徴といえるのです。

つまり天皇制とは「閉じた空間」を作りだしてゆくことで統治権力の発現と伝播を謀るシステムであり、その儀礼空間における「所作」を通して発動するものです。天皇制儀礼の閉じた空間の中で、固唾を吞んで衆議院議長の「所作」が見守られる。実はこのときの「所作」にこそ決定的なメッセージが込められているのです。つまり、天皇は我々の上にある玉座的存在であり、しかも我々との間に覆し難い関係性が存する、そういうメッセージの込められた「所作」なのです。天皇を戴く国会開会式に参加した人々はもちろんその中継を好意的に見る人たちも同様です。この「所作」を通して天皇が何であるのかを身体(感覚)に刻み込むことになるのです。儀礼の「所作」は単に慣習的なしぐさではないのです。それは身体(感覚)を媒介にした「規律訓練」に他ならないのです。そしてそれは「地縁血縁」や「上下関係」などによって社会関係を基礎づける「生政治」ともいえる。このような統治権力による規律訓練でミスったのが額賀衆院議長なのですが、しかしながら、それを大きな問題とはせず、生じた儀礼空間の「破れ」を難なく閉じることができるのもまた天皇の力である。皮肉なことにあの「所作ミス」は、そのことを示す儀礼へとさらに変容していったわけです。

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