反靖国~その過去・現在・未来~(14)

土方美雄

靖国神社の「過去」~戦後、その公的復権への動き~ その4

まず、訂正です。前回、靖国神社の境内で、「全国戦没者追悼式」が開催されたのは、1965年と記しましたが、前年1964年のことでした。ちなみに、拙著『靖国神社 国家神道は甦るか!』では、ちゃんと、1964年になっていましたので、単なる写し間違えですが、大変、失礼致しました。この本を書いた1985年には、私はすでに、ワープロで原稿を書いてはいたのですが、当時の、フロッピーデスク等は、もう残ってはいないので、文章をコピー&ペーストして、引用することは、出来ないのですねと、これは言い訳(笑)。*編集部:上記の執筆者訂正に基づき、「その3」本文も訂正しました。

ということで、ここからが、前回からの続きです。

前回の私の文章と、多少、重複しますが、『検証国家儀礼』において、戸村政博さんは、法案成立までの経過について、以下のように、記しています。

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法案準備の経過を具体的に述べると、まず、1963年、日本遺族会の中に改めて「靖国神社国家護持に関する委員会」が設けられ、自民党の遺家族議員協議会も「靖国国家護持に関する小委員会」を設置し、日本遺族会、靖国神社、および神社本庁が自民党の遺家族議員協議会と手を結び、やがて衆議院法制局の指導を受けながら、靖国神社法案が形を整えていくのである。こうして67年5、6月頃、自民党遺家族議員協議会の中の「靖国神社国家護持に関する小委員会」の小委員長村上勇議員の名で呼ばれる「村上私案」が作成された。それは何回か修正され、69年6月30日、初めて国会に提出された。その年はあたかも靖国神社創立百年祭に当たっていたが、その年の1月、日本遺族会と靖国神社との第一回連絡会の席上、池田権宮司は「なるべき早い時期に神社本来の姿にかえり、すっきりした姿で百年祭を迎えたいと考えている」と述べた(『英霊とともに三十年』日本遺族会、1976)。靖国神社問題が20年以上も長引くことは、全く予想外のことであった。

さて、こうして村上私案は成ったが、その動きがはじめて新聞紙上に伝えられたとき、『神社でなくなる靖国神社』という見出しが、多くの人々にショックを与えた(『毎日』1967・6・22)。村上氏は、インタビューでこう語った。

わたしは春秋の例大祭は、自衛隊の軍楽隊が総動員して、にぎやかに軍楽を奏で、その中を陛下、総理大臣以下がおまいりするといった光景を実現したい。

これは靖国神社国家護持とは何かを、もっとも簡明に伝えるものであった。

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村上私案の第三次修正案である「山崎私案」を受けて、68年4月、憲法調査会会長であった稲葉治が、「靖国法に関する私見」なるものを、発表した。私見は、「靖国神社は宗教団体ではない。同神社の宗教的儀式は善良なる国民的習俗であり、憲法にいう宗教活動ではない。したがって、自衛隊の儀杖参拝も違憲ではない」という、実に、驚くものであったが、憲法調査会は、この私見に基づく「憲法調査会案」を、作成した。

困った、自民党の総務会は、法案の扱いを党四役に一任する決定を、行った。当時の福田幹事長が、「山崎私案の線で、国会に上程したい」と発言したため、靖国神社国家護持推進派内部は、大混乱に陥った。

遺族会の賀屋会長が右翼に襲撃されたのをはじめ、「日本民族の伝統と精神の破壊を企画する革命勢力の心ひそかに喜び望む処で、我々の最も憂慮する処である」云々という抗議声明が、佐藤首相に、届けられたりもした。

当時の自民党主流派の、靖国法案に対する考え方は、おおむね、憲法の枠内での、靖国国営化であった。

たとえば、村上私案の作成者、村上勇は、「靖国神社の宗教性を抜くために、今回の法案をつくった。『宗教上の儀式を行ってはならない』という個所には、強い反対があったが、我々はあくまでも、憲法の条文は尊重しなければならないと考えている」と、公言して、はばからなかった。

しかし、そのような、自民党主流の考え方は、靖国神社の創建以来の伝統を尊重する推進派の多くに、当然、受け入れられるハズもなかった。

69年に入り、党四役が協議して、根本政調会長を中心に、推進派議員との意見調整を試み、その結果、①「英霊を尊崇する」をうたう、②宗教性の排除を盛り込む、③儀式・行事の形式に関しては、靖国神社審議会を設置して、そこで検討する…という、両者の完全な折衷案が、つくられた。①と②の明らかな矛盾を覆い隠すため、「靖国神社審議会」などという、正体不明な機関がつくられ、一切を、そこに下駄を預ける格好となっているのが、その落としどころであろう。かくして、この「根本私案」が、自民党の靖国法案の、最終骨格となった。

靖国神社は、この「根本私案」を受けて、「法案成立の暁には、直ちに宗教法人を離脱し、特殊法人に移行する手続きを取る」との意思を、表明した。

かくして、靖国国家護持法案は、1969年6月30日、第61回国会に、自民党単独の議員立法として、提出されることになった。

以下、続きます。

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