国民が天皇権威下の使い捨て奴隷にされる恐怖は、矮小な損害ではない【即位・大嘗祭違憲訴訟 陳述書】

*この文章は、即位・大嘗祭違憲訴訟において、原告・岡田良子さんが裁判所に提出した「陳述書」に加筆されたものです。この陳述書をもとに法廷で本人尋問もなされました(2023年6月21日)。訴訟の会と筆者の承諾を得て掲載します。

陳述書
2022年1月16日
東京地方裁判所民事第10部合議C係御中
原告 岡田良子

●天皇別格扱いは当然の「社会儀礼」か
大嘗祭は政府も認めている通り宗教儀式である。神話に基づく宗教儀式を利用して、天皇権威の別格神聖性・絶対性を示すために政府が計画・演出・可視化した。憲法の根本原則である主権在民とは真逆の、天皇・皇族など「門地・身分・性別による差別区別は当然」という思想を人々に植え付けることを政府は目指したのではないか。

結果、政治家はもちろん、マスコミも一般国民も特別敬語を使い特別お辞儀をするのが当然のようになっており、そうしないことは非常識、無礼だと右翼の攻撃対象になりかねないのが現状。

アジア太平洋戦争では政府・軍は、国民は勿論、朝鮮・台湾植民地からの徴用員も天皇の赤子(せきし)と呼び、天皇国体を守護発展させるための使い捨て兵隊、使い捨て労力とした。結果300万以上の国民(赤子)が死に、2000万以上の外国人を殺させた。政府・軍いわく、全て「天皇のため」だった。その残虐無謀を繰り返えさせないために、主権在民の現憲法が制定された。だのに戦後すぐから天皇絶対制は維持されてしまった。

1952年、貞明皇太后の葬儀列車が我家の前を通るというので、一週間以上前から交番巡査が来て、当日は線路から見える側に洗濯物を干すな、早朝から門に半旗を掲げよ、と指示した。私の親は「家には日の丸がない」と拒否したら、荻窪署の警官もやってきて必ず半旗を出せときつく言うので、とうとう、物干し竿先端に父の黒い靴下を丸めたものをつけ、赤丸を書いた白布を縛り付けて門に立てたのを覚えている。両親は、今は皇室を特別扱いしないように決めたはずなのに、と言っていた。

親戚が住む千葉の仁右衛門島には、頼朝を匿った建物と日蓮がこもった岩屋などがある。そこを1970年、皇太子夫妻(現上皇夫妻)が訪れた。その数か月前から役人が来て、当日は観光客を断つこと、服装に気を付けること、あちこち指図通りに片づけること、母屋のトイレ(汲み取り式)は完全に清掃して空にしておくこと、夫妻が去った後にトイレの中を役人が検査し終わるまで、家人も誰も使用しないこと、などなど難しい指示を受け大変だったと言っていた。皇族が来たことで観光アピールができるからと不自由不便を我慢したけれど、皇太子妃の排泄物まで検査するのか、と皇族扱いの別格さに親戚はあきれていた。

●政府による天皇別格扱いは、全人平等・主権在民に完全に反している
国民の税金を過大に使って、一般国民を立ち入らせない意味不明の仰々しい秘儀で天皇権威を際立たせる代替わり儀式は、全人平等・主権在民に完全に違反している。

そもそも憲法1~8条は、天皇皇族を基本的人権の外に置き、国政への関与を許していない。別格の経済的優遇を付与するが、皇族自身が自分の人生を自己決定することも許さないとなっている。したがって、政府が政策の正当化・権威付けに天皇を利用する現状は、憲法前文と9~103条とに完全に矛盾している。自由と平等の基本的人権を完遂するためには、天皇別格扱いの身分を認める1~8条は削除すべきである。天皇制がある限り、私ら人々の人権が真に確立することはありえない。

裁判所が「原告個人に直接の具体的損害はないから訴えの利益はない」と棄却判決を出すのはとんでもないこと。民主主義国家のはずが、天皇皇族の前では勝手に行動してはならない、対面するときは最高の礼儀を示さなければいけない、許可された人しか近づけないアンタッチャブルの一族を存続させる現状は異常。個人が我慢すれば済む問題ではない。近代民主主義国家とはとても認められない。主権者のはずの国民の心を縛る危うい体制である。裁判官も当たり前の主権者の一人として考えれば気づくはず。

例えば皇族だけに使用する言葉がある異常さ。彼らに関してだけ使われる言葉、行幸・行啓・巡行・おことば・お出まし・お成り・お会釈・下賜・奉呈・拝謁・献上・ご成婚・ご公務・お列・お下血・崩御・御陵、などなど。一般人に対しては絶対使わない別格の言葉を、政府はもちろん、NHK・新聞・マスコミ・学校現場などでは当然のように使わせるので、一般大衆も使うのが当然と思いこまされ、この「作られた当然」に従わない人は、非常識、非礼、あげくに反社会的、非国民的と異端視され、危険分子とされ社会から排除され、生きづらくされていく。最悪は、文書や発言、デモや集会参加を公安にチェックされ、嫌がらせの逮捕・長期勾留、家宅捜索でPCや携帯電話、仲間の住所電話資料などを違法に押収されてしまう。“公共の秩序に反する”と権力が決めれば公務執行妨害で有罪とされ社会生活から排除されてしまう。秘密保護法、共謀罪、盗聴法、集団的自衛権行使法、安保関連戦争法、など国民主権・非戦憲法に反する法律が次々強引に制定されていく今日、80年前の帝国憲法下恐怖の治安維持法の強権政治に逆戻りしつつあると恐れる。そうなってからでは、私の身の安全は守れない。

●天皇権威下の使い捨て奴隷とされる恐怖は、矮小な損害ではない
この訴訟は、大嘗祭等挙行が、主権者の誇りを断たれ国民を隷従させる恐怖政治につながるという恐怖で胸が締め付けられ息苦しい現状に対する損害賠償請求訴訟である。裁判所が言う「個人的直接損害」よりずーっと巨大な、国民の思想信条行動・表現の自由、財産、命まで全てが国家権力によって奪われる恐怖政治再現を、大嘗祭など天皇制による巨大な差別構造が用意している恐怖への損害賠償請求である。恐怖政治が実現して暮らしを、命を、奪われてからでないと「損害」を認めない、というのが裁判所の考えなのか。裁判所は人々の平安を護るために存在すべきで、国家権力を護るために存在するのではない。

一連の大嘗祭儀式は、国民と天皇とは絶対的に身分階級が違うのだ、ということを最も明白に人々に思い込ませるものであった。国民主権・人々の平等とは真逆の「絶対天皇と、下々の民」という超えられない格差を見せつけた。

つい80年前まで行われていた天皇国体を裁判官は学ばないといけない。国民は天皇の赤子とされ、何百万人の男が一銭五厘(当時のハガキ代)の赤紙で召集され使い捨ての兵隊とされた。抵抗する人は軍事裁判にかけられ天皇の権威の下に死刑にもなった。銃後の人々、年寄りも子どもも使い捨て労働力で、戦闘機部品や戦闘用具製作・ガソリン代わりのイワシの油絞り・松根油集め・糧食つくりなどに狩り出され、建物疎開(防火帯作りのために今住んでいる家を有無を言わせず引き倒し破壊して広い道路にする)作業を子どもにも命じた。天皇国体の下では一般人の命など「鴻毛(鳥の羽毛)より軽い」と言われ、天皇国体を護るためには命を惜しむなと脅され、実際、数百万人が死んでいった。

憲法をないがしろにし、大嘗祭などを国民が近寄りがたい別格秘儀として仰々しく行って天皇の絶対性を国民に信じ込ませることは、僅か80年前まで国家が天皇の権威の下に実際にやってきたことの再現であり、結果、国民が天皇権威下の使い捨て奴隷にされる恐怖は、裁判所が言う「個人的損害」のような矮小な損害ではない。

 

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