反天皇制運動と共和主義

*ここに紹介する伊藤晃さんの論考は、反天皇制運動連絡会第V期のニュース「PUNCH!」第1号(2000年11月14日刊、通巻196号)に掲載されたものです。本WEBでは、「世界の王制情報」にて主にヨーロッパの反王制運動を紹介していますが、紹介している多くの反王制(anti-monarchy)運動は、共和制(republic)を求める運動です。ヨーロッパでのこうした反王制の運動と、日本における反天皇制運動とは、どのような共通性があるのか。また。どのような違いをふまえなければいけないのか。反天皇制運動と共和制(共和主義)をどのように考えたらいいのか。こうした問題を考える際に、この伊藤晃さんの論考は20年以上前のものですが、大いに参考になると考え再掲します(編集部)

伊藤晃

共和主義について本紙(反天皇制運動連絡会のニュース:編集部注)で少し討論したいからいま考えていることを書け、ということである。本紙通巻194号のテッサ・モリス=鈴木・天野恵一対談で問題が出されたのを受けてらしいが、私もこの問題の討論には賛成である。

本紙には以前、柴谷篤弘氏も共和主義について問題を提出したことがあった。柴谷氏は、日本では反天皇制運動が象徴天皇制への対案として共和制をかかげることがないのを疑問としたのである(本紙通巻159号)。これに対して「私たちの象徴天皇制批判は、近代日本の国民国家の具体的な存在様式としての象徴天皇制批判なのであり、共和制国家であれ何であれ、国家制度を要求する運動ではない」(天野恵一同164号)という答があり、柴谷氏はさらに「反天連は共和制の問題をバイパスして、むしろ現状から国家廃絶に直接に移る方針をえらぶ」のかと問うた(同165号)が、答がないまま論議は中断した。

■天皇主義と現代国家主義
柴谷氏の問題提出がはぐらかされた感もあったのを、私は残念に思っていた。だが、いまふり返って思うのだが、共和主義の議論に国家そのものへの態度如何を持ち出すのは、一見的はずれにみえるが、実はある正しい面をもふくんでいたのである。

共和制をめざすとは、つまり現行憲法第一条の廃止を主張することである(私は憲法の規定する国民主権をもって実質上の共和制だとする考えをとらない)。けれどもそれだけにとどまっていることはできない。近代天皇制は民衆の内面を規制する種々の意識形態を不可分に伴っており、その多くがこんにちも国家主義の諸相として生き延びている。たとえば、かつての大日本帝国憲法は天皇の神聖不可侵、つまり無答責を定めていた。法体系における国家無答責主義がそこから導かれた。現在でも国家がその行動についての責任を問われることを極度にきらうのは、国家無答責主義が内面に生き残っているからであろう。
また、一君万民ということばがあった。いまは使われないが、しかし数年前、例の「アジア女性基金」なるものが、国家の責任を国民の責任のなかに溶かしこみ、運動側にいたはずの人が国家に責任が及ばない範囲を権力に代わって模索してやるのを見たとき、私たちはそこに明らかな国家・国民一体の思想を感じとった。反体制運動と国家とをつなぐひそかな思想的通路が、国家的な場で何らかの一致を見出すことへの期待感のなかにみえかくれしていた。

そして考えてみれば、戦後の民衆運動は、ともすれば、あれこれの政党や大きな大衆組織をつうじて自己の要求を実現する道に流れたのであるが、このときこれらの諸組織は、民衆運動を国家的な政治につなげていく役割を果たしてもいたのであった。民衆運動には国家を通じて自己を実現していく傾向がなかったとはいえないのである。

民衆運動は、1945年の敗戦時に、天皇の責任と国家の責任の追及を満足に行わなかったし、日本の植民地支配の処理に密接に関連して生じた朝鮮と台湾の血みどろの状況をよそに、一国的な範囲で解放と民主化の日々を過ごしていた。天皇制国家はその間に急いで衣替えをし、民主化の過程を自ら主導した。民主主義は本来、社会的政治的対立がその上で戦い抜かれる場なのであるが、国家は民主主義を、対立を含むはずのない、全国民が一致するに違いない規範価値として国民に与えることに専念した。戦後社会には、自生的な運動のなかから多様な価値意識、共同意識が発生していたのだが、国家は自分が設定する法規範にこれらを吸収することを、民衆運動に対する系統的闘争として、遠慮ない実力を行使しながら遂行したのである。天皇の超越性のイデオロギーは、こうした敗戦後の状況のなかで引きつがれ、国家の超越性のイデオロギーとして生き残ったのである。

■「国民的主権意識」の現実
つまり、新しく主権者になった国民は、外から作られた国民共同性を疑わず、自分たちの社会的共同性の構築をなにか大なるものに、究極的には国家に預ける国民であった。たとえば相互扶助、共済ということは、どの国でも(日本でも)自主的労働運動が生まれるときの重要な動機の一つであったが、こんにち日本にある大小の共済組合はいったいだれがどのように運営しているのであろうか。これに関心をもつ組合員は少ない。また、かつて民衆の大多数が高等教育に無縁だったころ、労働組合というものは労働者の自己教育の場としての働きをもっていたのである。現在までに教育の機会均等は格段に進んだが、その過程は同時に、民衆が自己の教育を学校に預け、学校のなかでは受動的な存在に化していく過程でもあった。

この主権者たちにとって、自分の頭の上に頼みもしないのに天皇が存在していることもまた不思議ではないのである。テッサ・モリス=鈴木氏は、国家体制を自分たちで決める権利という意識の欠如を現在の日本に見ているが、これはそのとおりであろう。共和主義の社会的基礎は、自分たちのことを自分たちの共同で決定し執行する権利の意識である。この点で民衆意識に欠落があるということである。戦後、国民が天皇から説明されるのでなく、逆に天皇が国民から説明されるのが憲法上のたてまえになった。これに国民は満足した。この点、社会主義諸派も同様であって、どの党派も自分たちが戦後天皇制と共存できるかを根本的に疑ったことはないのであろう。

■共和主義の政治的社会的内容
さて、共和制を打ち立てるとは天皇という国家制度上の地位を廃止することである。しかし、国家が「天皇制国家」であってそれ以外の国家でなかった近代日本(現代日本もその一部である)では、天皇制批判に国民国家のあれこれの側面への批判がついて来なければならない。天皇制反対には広い政治的社会的内容がある。

ヨーロッパ国家では、ごく単純化していえば、国から国王を消去すればあとに国民だけからなる国家、共和制が残ったのであろう。国王は貴族・豪族の最大なるもの、人民の外から来て人民を支配するものという、多分に「私(わたくし)」性を帯びた起源をもつのだからである。ところが近代日本の天皇は、もともとはやはり民衆の外の存在であった天皇が、「公」なるものを国民に対して独占する機能をはじめから帯びさせられて、国家の機構のなかに一個の機関として据えられたものである。その国家の「公」、国家に独占された規範価値によって、民衆は国民に「向上」させられた。

この国家から天皇を引きはがすとしよう。天皇は単なるかさぶたではなくて生身に食い込んでいるのだから、これをはがせば国家が傷だらけになるだろう。だから共和主義運動は単なる「別の国民国家」を求める運動ではない。共和制は、こんにち私たちを規制している国家の多くの働きと民衆内面の国家主義の崩壊を伴わずには実現しないであろう。逆に日本国民国家批判は共和主義を内面に欠くばあい不完全なものになろう。共和主義はただちに国家の否定ではないが、国家の廃絶を現在の社会生活のなかで提起したいと思う人がいるなら、その人はかならず共和主義を経由しなければならないであろう。

だから私は、私たちの人権と主権(政治的社会的決定権)を現実に侵害するもの(たとえば昨年来の有事立法体制模索への多くの企て、国民総背番号やら盗聴法やら日の丸君が代やら数知れぬ企ての一つ一つ、私たちの社会的共同をそこなう差別政策の一つ一つ)への鋭い反撃が、反天皇制運動の政治的社会的内容として含まれなければならないと思う。それらの運動は、いま国家体制が自分たちの頭ごしに決められることを当然と思う民衆の内面への批判と結びついたとき、共和主義運動の構成部分になる。この民衆内面の批判については、かつて中野重治がつぎのように述べたことがある。「自分で自分を処理すること、そこへ踏みこむことにためらいを感じること。無法な権威を『いただく』ことにかえって安心を覚えること。その権威が絶対的であるほどいっそう安心が大きいこと。自分で自分を処理する自由に逆に枷を感じること。一人の人間となること、完全な自己となること、一般に慣性と惰性とから自己を解放することを極度に恐れること。この日本人の日本人らしさにおける最大のかなしさ……」(「文学者の国民としての立場」1946年)。中野が見たものはいまも残っている。

共和主義運動は国家と国民意識の全局面にわたって課題をもつ重層的なものであらざるをえないのである。

*初出:「状況批評:反天皇制運動と共和主義」「PUNCH!」(反天皇制運動連絡会第V期ニュース)no.1(通巻196号), 2000.11.14

 

カテゴリー: 天皇制/王制論, 天皇制問題のいま パーマリンク