なぜ憲法は天皇の行為を縛ることにこだわるのか――「生前退位」問題を素材として

 

岡田健一郎(高知大学教員)

はじめに

日本国憲法では、天皇は国政に関する権能(政治権力)を一切持たず(憲法4条)、内閣の助言と承認に基づき、憲法で列挙された国事行為を実施できる(3条、7条)とされています。

大学の授業でこのことを説明すると、学生から「なぜここまで天皇の行為を限定する必要があるのか?」という質問がときどき出ます。そこで、やや時間は経ちましたが、天皇の生前退位問題を素材としてこの問題を考えてみたいと思います。

1,事実経過

2016年7月13日、NHKニュースが、天皇(当時)が生前退位を希望しているという「スクープ」を放送しました。

その後、8月8日には、宮内庁から天皇のビデオメッセージが正式に公開され、天皇自身が生前退位を望んでいるということが表明されました。

この点につき、憲法2条は「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」としています。それを受けて、皇室典範4条は「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」と定められています。したがって天皇が生前に退位することは、法律上は認められていなかったわけです。

しかしNHKニュースやビデオメッセージを受けて世論が動き、政治も動き、皇室典範特例法が制定され、その2条で「天皇は、この法律の施行の日限り、退位し、皇嗣が、直ちに即位するものとする」と定められ、今回限りの特例として生前退位が認められるに至りました。天皇のメッセージが政治を動かしたのです。

2,識者の評価

今回の一連の流れ、とりわけNHKニュースやビデオメッセージが結果的に生前退位をもたらしたことをどう考えればよいのでしょうか。

この問題について、原武史氏(日本政治思想史)は次のように述べています。

「天皇は国政に関する権能を有しないと定めた憲法との関係を問題にする学者の声を、天皇に同情や共感を寄せる国民の声が完全にかき消してしまう状況を十分に予想した上で、NHKはあえて報道したのでしょう。そうだとすれば、究極の天皇の政治利用ということにな」る(「象徴天皇制の“次の代”」『世界』2016年9月号、45頁)

つまり、NHKの「スクープ」などが政治を動かし、生前退位が実現してしまったことは問題だというわけです。

他方、田中優子氏(日本近世文化・アジア比較文化)は以下のように述べています。

「政治介入とする論理は、天皇を生身の人間としない論理だ」(「〔識者座談会〕天皇お言葉 その真意は」2016年8月11日『高知新聞』朝刊)

こちらは、天皇が高齢で体力的な不安などを考えると、今回のプロセスはやむを得なかったと評価しているようです。

3,憲法の視点からの評価

それでは、憲法学の観点からこの問題を考えてみましょう。先に述べたように、現在の象徴天皇は一切の政治権力を持たないという建前ゆえ、政治責任を負うこともありません。また、天皇は世襲制です。したがって、政府に不満があれば選挙で交代させることができますが、天皇に関してはそれができません。

しかし天皇は「国事行為」にも「私的行為」にも分類が難しい、いわゆる「公的行為」(「おことば」や「皇室外交」、被災地の訪問など)などを通じて、現実には社会に広い影響を与えていることが指摘されてきました。そして「生前退位」問題において、私たちは改めてその影響力の大きさを目撃したわけです。このことからも、国家が天皇という存在を〈使いこなす〉ことの難しさを痛感せざるを得ません。

樋口陽一氏(憲法学)は、象徴天皇制について次のように述べています。

「日本国憲法下の天皇は、質的(国政からの隔離)、量的(国事行為の限定列挙)な憲法上の制約のもとにありながら、列挙事項のひとつである『儀式』の非限定性を通風口として、また、天皇という人間を『象徴』の地位においたこと自体のゆえに、まさしく社交的・儀礼的な存在であること自体を通じ政治的効果を生み出す、という緊張関係のなかにある。そしてそれは、憲法自身が選択している緊張なのである」(『憲法〔第3版〕』創文社、117頁)

普段、私たちが天皇や皇室を意識する機会は多くないかもしれません。しかし、最近の言葉を使うならば、まさしく天皇は「超インフルエンサー」です。そして、その影響力が濫用された場合の危険性は、戦前の日本の歴史がよく教えてくれるのではないでしょうか。このことを踏まえると、現行憲法が天皇の行為を神経質なほどに縛ろうとしている理由が理解できるように思われます。

 

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