「天皇制」は私たちにとって本当に必要な制度なのでしょうか

 

西村由美子

戦後は「象徴天皇」として天皇制は維持されてきています

4月2日にノンフィクション作家の川田文子さんが亡くなりました。

たまたま、戦後になっても故郷に帰ることができずに沖縄で亡くなられた日本軍「慰安婦」被害者であるペ・ポンギさんの半生をまとめた「赤瓦の家」を読み直していたところでした。ペ・ポンギさんは、昭和天皇が亡くなった時「謝りもしないで死におって…」と言ったそうです。ペ・ポンギさんも天皇の謝罪を求めていたのです。日本軍「慰安婦」被害者は、戦争責任と植民地支配責任に対して長いこと謝罪を求めてきました。しかし、謝罪を受けることなく、ほとんどの方が亡くなってしまっているのです。

昭和天皇は1975年10月「戦争責任というような言葉のあやについては、私は文学方面についてはきちんと研究していないので、答えかねます」と公式の記者会見で言っています。戦争責任は明らかなはずなのに。

2004年、イラクで日本人人質事件がありました。イラクの武装グループが自衛隊の撤退を要求している時に明仁天皇(当時)は「自衛隊がイラクの幸せに貢献することを願っております」と述べたのです。建前としての非戦闘地区に復興支援として自衛隊を派遣しているわけですが、イラクの人々にとってはアメリカに盲従しているとしか映らない日本の対応だったと思います。そして、当時の日本では自衛隊の撤退を求めてデモが多くありました。民主的に考えたら当然の反応だったと思います。

政権の行うことには追従し、建前だけはカッコ付きの「平和」を願うポーズをする天皇。これが「象徴天皇」ということなのでしょうか?

改めて「象徴天皇」とはなんなのでしょうか、私には解りません。

「象徴天皇」としての天皇制をどのように捉えているのでしょうか

この人なら、と思い「天皇制」に対して反対する私の考えを話してみても、天皇制反対に意を共にする考えを持つ人は本当に少ないです。でも、元号をあまり身近に感じている人は多くないように思えるし、皇室に対してはゴシップ的なことには興味があるけど、国事行為には全くと言っていいほど感心は持っていない。大概の人は、「どっちでもいい」と思っているように思います。ということは「天皇制」は私たちに有意義な制度であるというのではなく、今までそうだったから無理に変えなくても…的な、「わたし一人が選挙に行かなくても政治は変わらないし」と同じ感覚。「わたしには特別に被害があるわけでもないし」と受け止めて疑問を感じない感覚に落胆を感じます。

災害地に行って、跪きながら被災者の話を優しく聞く「平和を愛する天皇」を演ずることで共感を受ける行為。それを大きく報道するメディア。同時に、なぜメディアでは皇室の人たちを〇〇様と表記するのでしょうか? 民主主義の中で、皇室だけは一段上に祭り上げるのはとても気持ち悪いです。

2019年に退位を表明した明仁天皇、その次の徳仁天皇もこのまま「象徴天皇」を維持しようとしています。皇室は血統主義によって継承され続けていくわけです。そして、皇室の女性は男を産む機械としての機能を全うしなければならない、世襲を生むためだけに存在する家父長主義の権化のように私には思えます。それが民主主義の望むことなのでしょうか? そういうことが「象徴天皇」を必要とすることなのでしょうか?

私には、多くの税金を費やして「天皇制」を維持していく意味を全く感じることはできません。天皇に政治的権能はなくとも民主主義を謳う日本で天皇は必要な存在なのでしょうか? 疑問を持っているのであれば「天皇制反対」の声をあげて行かなければならないと思います。

少しずつでも、同じように考えてくれる人が増えていくように、なにかにつけ「天皇制」に対しての疑問について話しかけていきたいと思っています。

簡単な「解決」など無いと思いますが、考え続けることが大切だと思います。

 

 

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