反靖国~その過去・現在・未来~(8)

土方美雄

靖国神社の「過去」~まずは、創建から第二次世界大戦まで~ その4

1879年、陸・海軍の要望もあって、東京招魂社は、別格官幣社の待遇で、靖国神社へ改称した。そして、この靖国神社への改称を境に、同神社は、日本の侵略戦争の拡大に伴い、急速な「発展」を遂げていくことになる。

ちなみに、1879年の、改称の時点での靖国神社の祭神数は、1万880柱。それが、その後の、日清・日露戦争から、太平洋戦争に至る過程で、祭神数は、246万柱を、超えるものとなる。もちろん、私たちは、その246万余という、皇軍=日本軍の戦死者の背後には、2000万人を、はるかに超える、アジア・太平洋諸国の戦争犠牲者が存在したことを、決して、忘れることが出来ないのだ。靖国神社の「発展」とは、つまり、そういう、ことなのである。血塗られた、侵略神社、それが靖国神社の、正真正銘の正体だ。

改称の2年前の1877年、明治天皇制政府にとって、その国策ともいえる、神道の国教化政策に、大きな転換があったことも、ここでは、記しておかねばならない。

1870年1月3日、「治教を明らかにして、以って惟神の大道を宣揚」するという、神道国教化を明確にした、大教の詔が発布されると、政府は神仏判然令によって、仏教への打撃策を、矢継ぎ早に推進し、それは、地方官吏や神職等に先導された、民衆による、廃仏毀釈の運動へとつながり、全国各地での、過激な寺院や仏像・仏具への破壊行為へと、瞬く間に、発展した。政府は、一方で、仏教に弾圧を加えつつ、他方、神社をそれに代わる、中央集権的な政治支配の道具にしようと、企んだのである。

同時に、政府は、江戸幕府によるキリスト教禁止政策を受け継ぎ、キリスト教を国禁扱いにしたが、これは、当然のことながら、欧米各国の激しい抗議を受けることになった。しかしながら、政府は、キリスト教を、なおも、「異教」と呼んで、その影響力の増大を、極力、防ごうとした。天皇崇拝を核とする、神道による国民教化の妨げになると、そう考えたからである。

村上重良は、その著書『慰霊と招魂』(岩波新書)の中で、「明治初年の神道国教化政策は、仏教、キリスト教へのきびしい弾圧をはじめ、陰陽道系の天社神道、六十六部、普化宗、修験道等の禁止、廃止等の措置を背景に強行された。政治上の支配者である天皇を、そのまま現人神、すなわち普遍的価値を体現する生き神とし、全国民に天皇崇拝を強調する神道国教化政策は、その出発点から、人間の基本的権利に根ざす信教の自由とは無縁であった」と、記している。

ところが、1877年になると、神道国教化の推進本部であった、教部省が廃止されるなど、政府の神道国教化政策は、事実上、頓挫を余儀なくされた。それは、何故か?

その直接の引き金になったのは、幽冥界の支配者であるオオクニヌシノミコトを、神宮遙拝所(のちの東京大神宮)の祭神に加えよと主張する「出雲派」と、それを認めない「伊勢派」との間の論争が、神社界を二分する内ゲバにまで発展し、業を煮やした政府は、勅命によって、神道大会議を招集し、事態の沈静化を図るが、双方の意見は、最後まで対立したままで、結局のところ、明治天皇が、直接乗り出すことで、ようやく、決着をみた。

村上重良は、その著書『国家神道』(岩波新書)の中で、「この祭神論争をつうじて、神道には基準として寄るべき教義が完成しておらず、各派それぞれの神道教義も、理論的には矛盾をはらみ、弱点の多いことがあらためて明らかになり、神道の宗教としての未成熟ぶりが、神道界内外に一挙に露呈される結果になった」等と、記している。

もちろん、その背景には、神社神道の、あまりにもアナクロなイデオロギーが、国民の間に、なかなか、浸透せず、その一方で、廃仏毀釈運動による大打撃から、よくやく立ち直った仏教が、宗教界におけるヘゲモニーを、着実に、回復させつつあったことも、もちろん、あるだろう。

政府は、以降、神社から宗教的機能を切り捨て、祭祀と宗教を分離することで、神社=非宗教のタテマエの上に、国家の祭祀としての神道、すなわち、「国家神道」を確立するという、新政策を推進していくことになるのである。

これは、宗教としての神社神道は死滅し、国家神道という「超宗教的な存在」が、天皇の名の下に、国民を支配する道の、始まりであった。「宗教ではないというたてまえの国家神道が、教派神道、仏教、キリスト教の神仏基三教のうえに君臨するという国家神道体制への道が開かれ、世界の資本主義国では類例のない、特異な国家宗教が誕生した。この国教は、いわば宗教としての中身を欠いた、形式的な国家宗教であり、国民は、国家によってこの国教を新たに与えられ、その信仰を強制されることになった。」「こうして神社神道は、天皇制の正統神話と天皇を現人神として崇拝する古代的信仰に立って完全に固定化され、近代社会の宗教として自己展開する道をみずから閉ざすことによって、国家にとってもっとも効果的な政治的思想的機能を発揮することになったのである。」等と、村上は、前掲著の中で、そう、論じている。

以下、続きます。

 

カテゴリー: 天皇制問題のいま, 靖国神社問題 パーマリンク