何のために天皇ナルヒトはインドネシアに訪問するのか

 

池田五律(戦争に協力しない!させない!練馬アクション)

Ⅰ 何のために皇太子アキヒトは1961年にインドネシアを訪問したのか

天皇ナルヒトが、即位後初めての外国訪問として、6月後半にインドネシアを訪問すると報じられている。天皇のインドネシア訪問は1991年のアキヒトの訪問以来のことである。アキヒトは、1961年にもヒロヒトの名代としてインドネシアを訪れている。この1961年アキヒト訪問は、1958年の賠償締結を受けてのものだった。

日本は、現在のインドネシア、オランダ領東インド(蘭印)を、「大東亜共栄圏構想」の下での「蘭印の石油確保」を目的に侵略し、軍政支配した。オランダ人や「抗日的」と見なした華人を収容所に抑留した。「解放」は大嘘。軍政の下で、「皇民化」を徹底した。米穀の強制供出、労務者の徴発は、インドネシアの人々に塗炭の苦しみを与えた。華人系、オランダ系、インドネシア系を問わず、多くの女性を慰安婦にした。

独立戦争の担い手に郷土防衛軍出身者がなったとかを理由に、「大東亜戦争が植民地独立をもたらした」といった言説が未だに流布されている。だが、日本軍は補助兵力として郷土防衛軍を組織したに過ぎない。ごく一部の日本兵が「現地逃亡脱走兵」として独立戦争に参加したといったことを過大に顕彰するのも誤りである。敗戦後、現地軍は「現状維持」即ち植民地支配体制への平穏な返還を基本方針としていた。連合軍命令に従い、植民地支配者の回帰に抗するための戦いに向けて武器引き渡しを求めるインドネシアの民族主義者らの要求を拒否した。連合国の命令に従わないことが「国体護持」を危うくするのを恐れたのだ。

これに抗したのは、日本軍と無関係に、むしろ排除して独立したいと考えていた青年指導者たちだ。スカルノとハッタは彼らの突きあげに応じ、1945年8月17日、インドネシア民族の名において独立を宣言した。独立宣言文の起草の場が海軍武官府の前田精武邸であり、前田らが立ち会っていたといっても、日本が独立問題から手を引くことを「祝福」ととらえていた青年指導者たちが主導したのであるから、日本は無関係だ。

スカルノは、1920年代から「アジアの抑圧された諸民族の旗手日本」という言説への批判を強めていた。

蘭印は、明治初頭の「からゆきさん」から始り、雑貨商人ら「商業移民」が続く「棄民」の場であった。だが、日清戦争を経て1899年には「名誉白人」という支配者側の地位を獲得。現地住民にも留学生にも、「怠け者」とか「原始的」といった眼差しを向けた。日露戦争後には、琉球を経て台湾を拠点とした南進論の矛先が蘭印に向けられた。第一次世界大戦、さらには大恐慌を経て、日本は輸出攻勢を強め、商品市場・蘭印への大企業の進出も増大した。こうした日本の「被抑圧民族の旗手」気取りは、早くからその欺瞞性を顕わしていたのだ。
なお、1930年代末、「紀元二千六百年」の「建国記念祭」を総仕上げとする「祖国回帰」運動に邦人を組織した挙句、戦後、彼らが築いた生活を失わせたことも、忘れてはならない。

独立宣言はしたものの、進駐してきた英印軍、その撤退に代わって増強されたオランダ軍との戦いは、停戦も挟んで1949年まで続いた。なお、インドネシア独立戦争は、旧来の伝統的領主層・貴族層の特権を奪う社会革命の性格も併せ持っていた。ただし、西イリアンがインドナシアの主権下に移行するのは1962年のオランダとの紛争停戦協定—国連の信託統治—1969年の国民投票を経てのことだった。この西イリアン問題に対して、日本は国連加盟支持を念頭に、インドナシア支持の立場を取った。とはいえ、アメリカに同調してのことでもあった。

1940年代から、占領下日本からの商品輸出は再開された。独立国家インドネシアと戦後日本国家との政治関係は、サンフランシスコ対日講和条約後以降となった。当初、甚大な戦争被害を受けたインドネシアは、講和条約に調印したが批准せず、平和条約の締結は1958年のことだった。平和条約締結が遅れたのは、日本が戦後補償要求に応じなかったからだ。他のアジア諸国に対するのと同様、日本は、戦争責任のあいまい化、請求額の減額、「賠償」の実質「投資」化を目論んだ。そして、これも他のアジア諸国に対すると同様、相手の弱り目につけ込んで日本優位の賠償協定を締結した。当時のスカルノ政権は、資源輸出依存型の植民地経済構造から脱却できず、しかも輸出も低迷し、外貨獲得に窮し、資源産出地である地方の反乱に苦しんでいたのだ。この弱り目につけ込んで締結した協定に基づく賠償は、日本の商品輸出の呼び水となり、1965年以降の資本輸出の本格化につながった。この役割をODAが引き継いでいくことになる。なお、岸首相の「賠償汚職」が問題化する中、後にスカルノ大統領第三夫人デヴィとなる日本人女性の存在が明るみに出るなどし、両国関係は「不幸な出発」となった。

アキヒトは、戦争責任を免れないヒロヒトの名代として、その戦争責任の将来の継承者であることを後景に退け、「平和国家・日本」の象徴面をし、戦争責任の「清算」のためにインドネシアを訪問したのだ。

Ⅱ 何のために天皇アキヒトは1991年にインドネシアを訪問したのか

1965年、地方反乱の鎮圧などで統治能力を身に着けたインドナシア国軍は、カウンター・クーデターで権力を掌握した。その過程で、中国共産党に次ぐ規模を誇った共産党は弾圧され、多数の共産党員らが殺害された。ベトナム戦争の本格化と期を一にしたこのカウンター・クーデターには、アメリカの影もつきまとう。以来、1997年まで、スハルト反共軍事独裁・開発独裁が、インドネシアを支配した。
日本はスハルト政権をODAで支え、商品市場・資源供給地・投資対象地として、インドネシアを「経済侵略」していく。それへの不満が爆発したのが、1974年の田中首相訪問に際した反日運動であった。

1980年代に入ると、インドネシアは、シンガポール、香港、台湾、韓国の「アジア四小龍」に続き、外資導入輸出工業化政策により経済成長軌道に乗る。それを理由として、スハルトは強権政治を正当化した。その下で、日本企業は低賃金労働力を狙って進出を加速した。日本向けの木材輸出のために森林が乱伐された。マングローブ林が伐採され、日本向けに輸出するエビの養殖場が広がった。バブル期飽食社会となった日本の消費は、インドナシアの環境破壊に支えられていたのだ。日本で働くインドネシア人も増え出した。その多くは他の外国人労働者同様、底辺労働力を担った。インドネシアを、物的のみならず、人的資源の供給地にもしていったのだ。なお、現在日本で働くインドネシア人は5万人程度。ベトナムに次ぐ二位で、急増中だ。その多くは、愛知県など工業地帯であり農業も盛んな地域だ。

1991年に話を戻そう。アキヒト訪問は、日本のバブルの絶頂期、スハルト独裁の絶頂期に、日本とインドネシアの「友好親善」を謳いあげるためのものだったのである。加えて、その背景には、カンボジアPKO派兵など、派兵国家化の容認を受け容れさせる意図もあったことも忘れてはならない。なお、1975年以来、インドネシアの東チモールへの軍事介入・支配・弾圧が国際問題化していた。欧米もインドネシアを非難するようになっても、日本はインドネシアを支持し続けた。ようやく2002年、東チモールは独立した。その際のPKOに自衛隊が派兵された。2005年のスマトラ沖地震に際しては、国際緊急援助の名で、海上自衛隊護衛艦、航空自衛隊輸送機、陸上自衛隊6013名などを送り込んだ。アキヒトは、自衛隊派兵の露払いの役割を果たしたのだ。

Ⅲ 何のためにナルヒト天皇はインドネシアを訪問するのか

冷戦の終焉、グローバリゼーションに伴う「自由化」圧力の増大は、スハルト政権の基盤をゆさぶった。そして1997年、アジア通貨危機によってルピアが下落し、IMFの構造調整プログラムを受け入れさせられ、スハルトは「経済開発の父」としての権威を失い、ついにその独裁に終止符が打たれ、民主化が実現した。

だが、2000年代に入ると、2002年のバリ爆弾テロ事件など、グローバリゼーションがもたらした格差の拡大やアイデンティティ不安を背景に、「イスラム系原理主義組織」による「テロ」が、頻出した。その契機になったのは、アメリカのアフガニスタン侵攻だった。インドネシアも「テロとの戦い」の「戦場」の一つになったのだ。

アチェなどの「分離主義」の動きやマルク諸島での宗教紛争などもあり、政治は安定せず、ハビビ政権(1998年)、ワヒド政権(1999年)、メガワディ政権(2001年)と短命政権が続く。「安定」したのは、「権威主義の王」とも批判されたユドヨノ政権(2004年~14年)以降である。彼は2013年に当時の自衛隊統合幕僚長・岩﨑茂と会談し、合同演習開催で合意し、安倍首相との会談でも経済のみならず、安全保障面での協力に合意した。続くジョコ政権(2014年~)も、権威主義化を強めていると言われている。2018年の来日時、安倍首相との会談では、外務・防衛閣僚協議(2+2)での協力強化、インフラ整備に関する協力などで合意した。

だが、今や最大の輸出入相手国は中国だ(2021年)。対内直接投資もシンガポールが首位で、香港、中国、日本と続く(2022年第1四半期)。インドネシアのGDPは世界第17位。世界銀行は、2020年に「上位中所得国」に格付けを引き上げた。人口は2億7千万人で、今後も増加する。平均年齢32歳で、実質GDP成長率は5%前後。2032年には購買力平価ベースのGDPで日本を抜く「経済大国」となるという予測もある。インバウンド需要含め、巨大マーケットとしての存在感も増している。日本としては、中国の存在感増大に対する巻き返しを図りたい。インドネシアが日本への海上輸送路であることからも、ガス田開発をめぐる中国とインドネシアの対立などを煽って、対中包囲網に加えたいところだ。だが、加工貿易強化を図るものの資源輸出依存度も高いインドネシアにとって、欧米日と中ロの対立に巻き込まれることは絶対に避けたい。2022年のジョコ訪中では、習近平国家主席との会談で「二国間貿易の規模拡大、農業や食料安全保障などの分野での協力深化」で合意した。ウクライナに侵攻したロシアへの制裁についても、慎重だ。議長国となった2022年のG20でも、「大半のメンバーがウクライナ戦争を強く非難し、戦争が甚大な人的苦痛をもたらし、世界経済の既存の脆弱性を増幅していると強調した」と明記しつつも「情勢・制裁について異論や異なる評価」があったとも指摘する「共同声明」をまとめた。

だからこそ岸田政権は、G7広島サミットにジョコ大統領を招き、ナルヒト天皇を送り込み、「将来の経済大国インドネシア」を「対中包囲現代版大東亜協栄圏」に組み込むことに躍起になっているのだ。一方ジョコ政権は、所得格差、地域格差、環境破壊、宗教的不寛容の増大など、課題山積だ。「テロ」、「分離主義」、宗教紛争の再燃のおそれ。それらを権威主義国家化で封じること自体が、不安定化の種になるというジレンマ。岸田は気づいていない。何時何がキッカケとなって、戦争戦後責任と向き合わず、開発独裁と癒着して経済的搾取と利権拡大を行い、現地の日本企業労働者や日本で働くインドネシア人を差別し続けてきた日本への反発が噴出するかもしれないことを・・・。

 

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