なぜ天皇制廃止なのか、どうやって実現するのか…

桜井大子

天皇制の問題を自分の課題として認識し始めてから随分時間が経った。その間に何度か「なぜ反天皇制なのか」という質問を、雑談の場などで受けたことがある。その時々の自分なりの答えはあったが、最初のころは天皇の侵略戦争・植民地支配責任と差別問題を理由に挙げていたと思う。天皇制国家が侵略と占領、植民地支配を通して展開した「世界大国」への野望は、アジア全域において取り返しがつかないほどの破壊と略奪、殺戮と暴力を繰り返し、多くの人々に死と苦しい生(痛みと哀しみ、絶望等々)を強いた。その「苦しい生」から解放されない人たちは現在においても少なくない。その責任は天皇制国家がとるべきであったというまっとうな意見に100パーセント賛同していた。そして敗戦後も「象徴」という冠をつけて残った天皇制。どんな形であれ天皇制を存続させていいはずがない。そう考えていた人は裕仁Xデーの頃、少なくとも世論調査等で一割を占めていたし、私もそのひとりだった。その考えはもちろん今も変わることはないし、むしろ、日本が戦争加害当事国であったという歴史そのものが有耶無耶に葬り去らされそうな現在、この課題の大きさは増してきていると思う。差別の問題もそうだ。すでに指摘されいた天皇制が理不尽な民族差別、部落差別、身分差別、女性差別等々の元凶であると言ったことも反天皇制の大きな理由だった。

同時に私にとっての天皇制問題は、運動のなかでさまざまな課題との接点を知ることによって大きくなり、日本社会がかかえる現在進行形の大きな社会問題であることに気づいていった。近代史の延長としてある現在の象徴天皇制の問題でもあると。また、その延長にあって大きく膨れ上がっている天皇の社会的な影響力を認識する人は、いま圧倒的に少数派だし、歴史と断絶して現在に生きていると考える人たちが圧倒的に多いようにも思う。だから歴史から問題を立てると同時に、現在の天皇制の問題にこだわらなくては、との思いは強くなった。

現在の天皇制が関係してくる問題は少なくない。たとえば沖縄の米軍基地の問題と天皇の歴史的な役割や現地の人々に「心を寄せていく」現在の天皇の統合作用。自然災害や人的災害に対する行政の無作為・無責任と天皇の慰問。学術や芸術、スポーツにまつわるさまざまなイベントとそこに参加し言葉を述べ権威を与え権威者として振る舞う天皇・皇族。政治的外交のよこで行われる「皇室外交」。貧困・格差社会と世襲で地位をつなぎ税金で生きる天皇一族との大きな格差。女性の地位の低さ(たとえば2022年のジェンダーギャップ指数は156カ国中116位、前年は120位)と男子主義思想を伝統とみなす天皇制の問題等々。

■天皇制と「常識」

私はこれまでに何度か「天皇制社会の価値観を覆していこう」といった趣旨のことを述べてきた。これは、現在機能している天皇制への、もう一つの課題である「どうやって天皇制廃止を実現していくのか」に関する、漠然としているが、いまの私には唯一と言っていいかもしれない答えでもある。天皇制を正当化し擁護するための価値観はこの社会に蔓延しているし、その多くは「常識」などという言葉でこの社会の日常に転がっていて、それがとても大きな力となっているように思うからだ。

私にこの社会の価値観・「常識」あるいは「良識」というものに疑問を持たせてくれた最初の経験は、たぶん70年代の「女性解放(女解)」を訴える人たちによる一文章との出会いだったように思う(当時はまだ私の周りにはフェミニズムという言葉はなかった)。「なぜご飯を最初によそうってあげるのは父親なのか」という(正確な文言は覚えていない)の一文に出会った時、理屈ではなく「そうあるべき」という事柄があることに気付かされ、どこの家もそうなのかと、あらためて思ったことでもあった。よく周りを見るとそういった「常識」がいたるところにあることに驚きもした。

家の中、企業の中、社会全体にそれぞれが関連しながら形を変えてはびこっている「良識」と呼ばれたりもする「常識」。縦の関係(親と子、兄弟姉妹、上司と部下、教師と児童・生徒等)や横の関係(性別間、民族間、家と家、企業間、組織間等)における、つくられた格差を前提に、当たり前のように厳格に言動の縛りを強要したりする。職場や街なか、さまざまな場面での会話やビヘイビアにそれらはあらわれ、学校や企業などの社会生活においては、それらは強い力を持つ縛りとなっていることも多い。

また「常識」という言葉にはなかば強制的に「正当」であるとの意味が付与され、「みんなが正しいことと考えること」だからそうするべき、といった漠然とした強制力をもっている。その社会の文化・伝統・道徳観念から引き出され、家族や会社組織、国全体における一部の上層部の者が「よし」とする、人々を拘束する考え方だ。多くの人々が共に生きていくために最低限守らなくてはならないルールとは別物である。だけど、それらは一体となって「常識」「良識」と呼ばれ私たちを取りまいているように思える。

私は自分が女性性に属しているので、ジェンダーにまつわる「常識」が目につくし、とりわけそこにこだわるが、世の「常識」には「身分」だとか「格」だとか「道徳」に関するもの、ほか諸々あると思う。ただ、根拠があいまいなまま「そうあるべきこと」として人を縛る観念ということでは同じであろう。

随分昔の話だが、埃やカビにまみれた索引を引っ張り出してはページをめくる、埃まみれで体力を要する仕事が多かった職場で、「化粧は女の身だしなみ」「ブルージーンズはダメ、常識的な服装を」などと上司や同僚からも言われた。仕事の内容を考えると不合理な要求だが、要求の内実は「常識」なのだ。そういった「常識」はその社会に生きる人々に無根拠に「こうあれ」と命じ、天皇制はそれに抵抗しない人々をつくり、そういう人々が天皇制を守る。恐ろしく循環しているとしか思えない。

■理屈抜きの「そうあるべき」ということ

いたるところにはびこっている天皇制を支える価値観は、「常識」や「しかたのないこと」として受け入れられ、この社会はその「常識」から外れることに優しくない。たとえば多くの場合、女性には結婚・出産を期待され、仕事よりも子育てを優先させられ、いまだに家事の多くは女性に期待され、職場では家事に類するような仕事を押し付けられ、女性の地位向上は煙たがられる。そのすべてが女性を「家のために存在させる」という意志で貫かれていて、そこには正当な理由もない。「そうあるべき」的な観念だけだ。男系男子の世襲を伝統とする天皇制には好都合な「常識」であり、天皇制にそった「常識」と言い換えることもできる。今は非婚、少子化、母子家庭や就職難の増加、経済の低迷等々の社会的な要因で、その「常識」を押し通せない状況にもある。しかし、このような状況下で人々が生きていくための政策を実行できる政治家は少なく、家族のありようの変化を「家族の崩壊」と嘆き、「あるべき」家族像を取り戻そうとする権力者たちが、政治の中心に居座っているのだ。

最小単位の社会である家族内で親たちは、男性社会でうまく生きていくために子どもたちにさまざまな示唆を与えるだろうし、母親は自分の行いで子どもたちに教えていくかもしれない。たとえば私の子供時代であれば最初に父親にご飯をよそってあげることだったりする。義務教育の現場では、髪は黒くなくてはならない、スカートは膝下あるいは膝上何センチと決まっていたり、どんなに理不尽なルールであっても子どもたちは守ることを強要される。反すると人格までも貶めるような叱咤や見せしめ的な罰もある。「日の丸・君が代」はいまでは常識となっていて、それに抵抗する大人は懲戒処分で減給、ひどい場合は解雇におびえなくてはならない。一般的には職場では上司には従順であるべきだし、多くの場合男女格差は「あたりまえ」で、女性には家庭内における女性の役割をそのまま期待され、それが「常識」と呼ばれたりする。それら理不尽さをも常識とするような感性が、天皇制を支えるエネルギーに変わる。

このような理屈抜きの「そうあるべき」「あたりまえ」意識の最高峰が、お上には逆らわない、という「常識」であろう。そして天皇と天皇制にまつわる理屈抜きの「そうあるべき」意識は、さらにその上にあり、それに抵抗する者はそうとうに「疎ましくやばい者たち」というラベルが貼られる。実際、警察の監視対象にもなるし、警察からは犯罪者予備軍的な扱いを受ける。だから、多くの人が「反天皇制」という文言に感じる「疎ましさ」や「やばさ」に根拠がないわけではないのだ。抵抗の結果与えられるだろう制裁という漠然とした恐怖は、デモ参加者の逮捕などが一番わかりやすいが、実際に制裁的な仕打ちが社会的に認められているという現実に裏打ちされているのだ。反天皇制のデモに対する通行人の無関心、冷たい視線、邪魔だと言葉を荒げ、聞き捨てならない暴言を吐く人たちのこういった言動(妨害目的の右翼によるものではない)には、天皇は批判されるべき人ではないというような無根拠な「常識」と同時に、常態化している警察権力や右翼による暴力に対する恐怖といった複雑な感情が混ざっているはずだ。ただ、その暴力が発動されることへの無根拠な「天皇制に反対する人たちだからしかたない」という常識も渦巻いているのだろうから、やれやれ、とため息が出るのだった。

■天皇制社会の価値観をくつがえすこと

天皇・皇族の存在と、この国が天皇制であることの根拠は憲法であり、「皇室典範」と「皇室経済法」に基づいて運営されている。しかし、多くの人々は憲法や法律とは無関係に天皇・皇族の存在を当然のもの、「あるべき」ものと考えているのではないか。メディアを通して見えるのは、天皇という身分に何の疑問もなく、むしろ天皇の不自由さや被拘束性に疑問をもち同情を寄せる声が多い。天皇は「日本文化と伝統の正統な継承者」であり、神話から始まるこの国の在り方を信じなくとも、そういう「国柄」に価値を見出すという人たちは多い。TVから流れてくる天皇に関するメッセージは、「天皇あっての日本と日本国民」というイデオロギーを抱き抱えている。

「常識」にも「良識」にも多かれ少なかれイデオロギーが詰まっている。イデオロギーが「常識」なるものを作り出しているといってもいい。理屈抜きで「常識」だの「あたりまえ」などの一言で押し付けてくる行為の多くは、力を持つ者たちの価値観=主義・主張をもっともらしく詰め込んだ行為であり、それを「正当」なものとして配下の人たちを縛り付けるものとなっているのだ。

そういった天皇制を支えている「常識」や「あたりまえ」、天皇制社会に染み付いた価値観をくつがえしていくとは、実際のところどうすればいいのか。これといった正解をもっているわけではない。

戦争反対を訴える人々・私たちは、日本国憲法が九条で「戦争放棄」をうたっているからではなく、戦争は嫌だ、ダメだと思っているから反対しているのだ。他国の人たちと「殺し殺される関係」を強制されるのは嫌なのだ。そして、憲法9条はその主張を掲げるときの味方であり強力な「道具」なのだ。憲法で憲法遵守を規定されている者たち「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」に、私たち主権者が「憲法を守れ」と言っているのだ。もし仮に憲法が改悪されても、少なくとも私たちの「反戦・非戦」の主張が変わることはない。天皇制に反対するのも同じことで、たとえ憲法に明記された制度であっても、わたしたちには反対し廃止を求める根拠を示すことができる。

では、世論調査で九割以上を占める天皇制支持者はどうなのだろう。憲法で規定されているから支持しているのだろうか。それともやはり、憲法とは無関係に天皇制を支持するのだろうか。私には、残念ながら憲法の規定とは無関係に、漠然と、しかし疑いもなく天皇(制)を支持しているのだろうと思える。天皇制を廃止しようという主張に対して、この九割の人たちがどのように反応するのか、おおよその見当はつく。天皇制社会の価値観をくつがえすということは、この九割の人たちの価値観を変えていくということなのだろう。デモを歩いている時、街頭を歩く人々を見ながら、そのことを思って気が遠くなるのだった。

■天皇制廃止の豊かな土壌づくり

憲法の一条から八条を削除すれば天皇制はなくなるという主張は正しいし、それを望むところだけど、どうやって削除するのだと腹が立ってくる。憲法を変えるためには少なくとも半数以上の人たちが一章削除を求めて行動を起こさなければならないだろう。そんな人たちは、いま一割未満でしかないのだ、と。だから私の場合は、天皇制を支えるさまざまな価値観やそれに基づく「常識」を覆していくことが重要なのだとの思いに立ちかえる。天皇制は長い時間をかけて、そういった仕組みをつくってきた。だからそれを覆すためには、私たちも、長い時間がかかっても、その仕組みを解いていかなくてはならない。反天皇制の運動は、言論による闘いであり、反対する私たちの存在を可視化していく行動でもある。

そのためには、「当たり前」と思われていることや「常識」と言われることが、実は当たり前でもなんでもないこと、おかしいことには「おかしい」と言うことが当たり前であることなど、どうやったら伝えていけるのかを考えるべきなのだ。

たとえば女性の身体を政治の道具とし、男子を産まなくてはならないとする、天皇制の「伝統」といわれている世襲制度はひどくないか。男子の結婚については国の三権の長や宮内庁長官、皇族らで構成される皇室会議を経なくてはならないといった一族の存在はおかしくないか。憲法で定められている天皇の国事行為と呼ばれる仕事=最高名誉職を世襲で引き継いでいく制度はどうなのか。「上皇・上皇后」「天皇・皇后」「皇太子・皇太子妃」「皇嗣・皇嗣妃」「親王・内親王」「女王・王」と呼ばれ、「陛下」「殿下」という敬称を持つことが法律で定められている一族と私たちの関係はどうあるのか。天皇家の結婚・出産・代替わりを「こぞって」祝し、死を悼み、いずれも国家の一大事として知らしめられる事態をどう考えるのか。皇室に対して敬語が連発される事態は? たった17人の皇室に73億円以上(2022年度)が支払われ、皇族への支出について「皇族としての品位保持の資に充てるため」と「皇室経済法」は規定しているが、「品位保持」という名目に税金が使われることをどう考えたらいいのか? 17人の皇室の活動を支える宮内庁の予算が120億円以上、皇室を守るための皇宮警察予算83億円以上(いずれも2022年度)。一方で止められた電気やガス、今日の食事を心配しなくてはならない人々が大勢いる、あるいは人知れず死んでいく人がいる、そんな社会にあって、どこかまちがっていやしないか?

書き始めるととめどなく出てくる「あたりまえ」であってはおかしいと思える法律や天皇制の「常識」。それら「常識」と自分たちの身近なところにある「常識」と言われる行為との関係などについて、丁寧に考え伝えていくことは小さくない反天皇制の力になるはずだ。遠回りで遅々として進まないように思えるが「天皇制はいらない」という人たちを増やすことでしか天皇制は廃止できないと、やはり思ってしまう。長い時間もかかるだろう。でも、まずは天皇制に反対する一割を切る人たちが動かなくては始まらない。天皇制廃止の豊かな土壌を作り出すために考え、書き、語り、街頭に出る。「天皇制はおかしい」「いらない」と言う人を増やしていくしかないのだ。やれることはまだまだあるし、沖縄の反基地闘争が教えてくれた〈諦めないこと〉が希望なのだ。

2022年の春、ウェブ版『反天ジャーナル』を友人たちとスタートし、なんとか続けている。このサイトには、毎日二桁の、どこの誰かわからない人たちがアクセスしてくれている。記事追加の更新をしたときなど3桁にもなる。公安の訪問者も多いだろうと思いつつ、見知らぬ人たちとの出会いがあるようで少し嬉しかったりする。諦めず模索を続けたい。

*初出:「天皇制について考える考えるタブーなき議論に向けて その4」(『反天皇制市民1700』no.53, 2023.02 )

 

 

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