教育勅語の跋扈

北村小夜(元教員)

*2017年、「教育勅語」を教材として用いても問題なしといった答弁書が閣議決定された。これはそのような状況下で、反天皇制運動連絡会のニュースに掲載された北村小夜さんの原稿である。

■日本人はまだ教育勅語から脱却できていないのか

森友学園問題が首相を直撃しても、影響は限定的、不届きにも却ってケガの功名で教育勅語(資料1)が注目されるようになったと喜んでいるのは許せない。

政府は教育勅語について2017年3月31日、「憲法や教育基本法に反しない形で教材として用いることまでは否定されない」と言う答弁書を閣議決定した。義家文科副大臣は幼稚園などで教育勅語を朗読することについて「教育基本法に反しない限りは問題のない行為であろうと思う」という。いずれも違憲、違法であることは明らかであるが、残念ながら教育基本法は2006年に改悪されている。日本教育再生機構の八木秀次らは教育勅語の精神は教育基本法第二条に盛り込まれているという。油断はできない。

教育勅語の誤りは、1948年5月参議院における羽仁五郎の「たとえ完全なる真理を述べていようともそれが君主の命令によって強制されたというところに大きな間違いがあった」と言う一語に尽きると思うが、今年3月8日予算委員会で稲田防衛相は「親孝行だとか友達を大切にするとか、そういう核の部分は今も大切なものとして維持しているところだ」と発言している。今、巷に同様な発言をする人は少なくない。その多くは浅読みか無知ゆえであろうが、下賜の段階での解釈では「夫婦相和し」は夫唱婦随であり、「兄弟に友に」は長幼序あり……である。稲田らの魂胆は馴染みやすい徳目を取り上げて妥当性を示すことによって教育勅語を導入させ、ひいては教育勅語を復活させようという狙いであろうが、第三期国定教科書修身巻六の解説によればそんなつまみ食いはできない。

まず「……教育の淵源亦実に此に存す」までを第一段として「皇室の御祖先が広大な規模でいつまでも動かない国を始め、臣民は忠孝の美を全うしてきた。これが我が国体の生粋な所で教育の基づくところでもある」という。

次に復活派によく利用される徳目のある「爾臣民……顕彰するに足らん」を第二段として、臣民の務めるべきことをのべ「皇室典範・大日本帝国憲法を重んじ……もし国に事変が起こったら、勇気を奮い一身をささげて、君国のために尽くさなければなりません。かようにして天地と共に窮まりない皇位の御盛運をお助け申し上げるのが、我らの務めであります」とすべての徳目は「一身をささげて」も包括して神勅にいう「窮まりない皇運」とつながっているのであって、個別な徳目として取り出すことはできない。さらに最後の第三段の「斯の道は……其徳を一にせんことを庶幾う」では「皇祖皇宗のご教訓であって、皇祖皇宗のご子孫も臣民も共に守るべき……」と天皇と臣民であればこそ守るべくというのであるから、「父母に孝に」などの徳目を天壌無窮の皇運と別次元でつまみ出すわけにはいかない。このことは1930年、文部省図書局「教育に関する勅語の全文通訳(資料2)でよくわかる。すなわち天壌無窮の皇運を扶翼するのでなければ勅語を全否定するしかない。

■教育勅語復活の企み

1947年3月31日には教育基本法が公布され、教育勅語体制は終わったように見える。3月20日に、文部省が国定教科書制度を廃止して出した学習指導要領一般編(試案)の序論には次のようにいう。

1 なぜこの書はつくられたか
いまわが国の教育はこれまでとちがった方向にむかって進んでいる。この方向がどんな方向をとり、どんなふうのあらわれを見せているかということは、もはやだれの胸にもそれと感じられていることと思う。このようなあらわれのうちでいちばんたいせつだと思われることは、これまでとかく上の方からきめて与えられたことを、どこまでもそのとおりに実行するといった画一的な傾きのあったのが、こんどはむしろ下の方からみんなの力で、いろいろと、作りあげて行くようになって来たということである。(以下略)

にもかかわらずまだ教育勅語と教育基本法は共存できると思う人が少なくなかった。冒頭の羽仁五郎の発言はそのような状況に対する警告であり、教育勅語の排除・失効を明確にする必要があった。

1948年6月19日、上掲のように衆参両院はそれぞれ「教育勅語の排除に関する決議-衆議院」「教育勅語の失効確認に関する決議-参議院」を可決した(資料3)。これらの決議文は誠に明快でわかりやすく解説の必要はない。文章の長さも趣旨もほぼ同じで、「わが国家及びわが民族」を中心とした教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和を希求する人間を育てる民主主義的教育理念を厳かに宣言したものである。これによって教育勅語は国民の代表である衆・参両院の議員によって排除・失効を決議され、その意義を称賛するものが再び現れないよう法的にとどめが刺されたのである。

ところがそれを一応の形式的なものと考え本心では教育勅語を尊重すべきと考える人がいた。当時の文部大臣天野貞祐である。1950年10月17日、学校の祝日行事に国旗を掲げ、君が代斉唱を勧める談話を発表。続いて11月17日には全国教育長会議で修身科の復活、道徳的基準の必要を表明。天野は教育勅語失効以降、単に道徳的基準がないことを憂いていたのではなく、勅語の「爾臣民」から「顕彰するに足らん」までを引いて「現在も我々の道徳的基準であります」と書いた。「私はこう考える〜教育勅語に代わるもの」(『朝日新聞』)と発案した。これは「天野勅語」として日教組をはじめ各方面からの批判を浴び、文相としての公表は取り下げられた。

教育勅語論議は、これで終わるかに見えたが、修身復活論は1958年の学習指導要領の全面改定で(それまで試案であったものが官報に告示され、法的拘束力を持つとされる)「道徳」が特設されることによって実現し、国民道徳の規準が必要だ、教育勅語の内容は悪くない、などと言う提案がくり返し蒸し返されるようになっていった。

1960年、荒木万寿夫文相は中央教育審議会(以下中教審)に対して「後期中等教育の拡充整備について」を諮問し、その中で「期待される人間像」を第一の検討課題にした。中教審が1966年10月、発表した「期待される人間像」は、経済界の要求を入れて帰属社会への忠誠心と労働意欲を強調するとともに「日本人としての自覚」の必要を指摘し、天皇への敬愛が日本国への敬愛に通じると述べた。この発表に際して森戸辰夫中教審会長は「戦後における平和国家と平和教育の考え方は根本的に反省され改革される必要があると信じている」と述べ、「期待される人間像」とは反する憲法・教育基本法改正の必要を示した。この「期待される人間像」はあまり効力を発揮するには至らなかったものの、森戸の考えは1971年6月中教審答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」で、具体化に至ることになる。戦後教育改革の総合的「再改革」構想提起である。この答申を発表するに当たって森戸は「明治中期の教育再改革を思い起こすことが望ましい」と発言している。彼の云う再改革とは、学制以来の開明路線を改革した教育令・教育勅語体制の確立を指す。

■執拗な教育勅語復活の試みは続く

教育勅語が多くの人に読まれることを期待する動きは絶え間なく続いているが、歴代首相の中で発言が目立ったのは田中角栄と福田赳夫である。一九七四年参議院選挙直前には各政党から教育論・教師論が盛んに出された。そのなかで田中は「今の教育は知識偏重で徳育が伴っていない。いわば知恵太りの徳痩せしている」と現状をとらえた上で教育勅語を持ち出した(『自由新報』1974・4・23)。

「父母に孝に」から「進んで公益を広め」までを引用して「教育勅語であろうとなかろうと今日に通じる命題である」という。特定の目的を持って作られた文章から都合のよい所を取り出して普遍的原理に持ち上げるのは多くの復活論者に共通する論旨である。福田も同様で「人の道を明確に示したものとして他に例を見ない。今後も生かしていく必要がある」(1977・2・5、参議院本会議)といっている。以降も続く復活論は

●今日の日本は道徳が乱れている
●現状の教育が知識偏重である
●徳育を強化する必要がある
●そのための基準が必要である
●教育勅語はよかったし現在にも通用する
●勅語的なものを求めている

といった展開になっている。

これは教育勅語の起草の契機となった1890年2月の地方長官会議の論旨とも一致し、今日の復活論者の論旨とも一致するものである。

第三次小泉内閣の小坂憲次文相は2006年6月、「教育勅語の道義的な精神はいつの世にも必要。憲法で否定されるものでない限り生き続ける」と答弁し、安倍晋三官房長官も「大変すばらしい理念が書いてある。しかし、戦後の諸改革の中で我が国教育の唯一の根本とする考え方を改めた」と答弁している。

第一次安倍内閣では2006年12月伊吹文明文相が「家族愛とかのいい規範が述べられている。しかし天皇陛下のお言葉を基本に教育を作ることは戦後の政治体制にそぐわない」と答弁しているが、第2次安倍政権以降、改憲の動きや「教育再生」政策の暴走と相俟って教育勅語復活の動きが急速に強まってきた。

2014年4月、参議院文教委員会、下村博文文科相が「中身には今日でも通用する普遍的なものがある。この点に着目して学校で教材として使うことは差し支えない」と踏み込んだ答弁をしたのに合わせて、前川文科省初中教育局長は「教育勅語を我が国の教育の唯一の根本理念であるとするような指導を行うことは不適切であると考えますが、今日でも通用するような内容も含まれており、これらの点に着目して学校で活用することは考えられる」などと答弁している。そして第3次政権にいたり、教育勅語の擁護、濫用、復活の動きはさらに強まってきた。2017年2月衆議院予算委員会で参考人として文科省大臣官房審議官藤江陽子は、「戦前のような形で学校教育に取り入れるのは適当でないが今でも通用する普遍的な内容について適切な配慮のもとに活用していくことは差し支えないと考える」と述べ、稲田朋美防衛相は、2017年3月の参議院予算委員会で「教育勅語の精神である親孝行などの核の部分を取り戻し道義国家を目指すべき」と答弁した。

■教科書では教育勅語についてどう記述しているか

教育勅語といえば学校行事(一九三二年に小学校入学の私の体験による)。

当時、新年・紀元節・天長節・明治節と四回の祝日と、元始祭(1月3日)・春季皇霊祭(春分の日)・神武天皇祭(4月3日)・秋季皇霊祭(秋分の日)・神嘗祭(10月17日)・新嘗祭(11月23日)・大正天皇祭(12月25日)と7回の大祭日があった。何れも学校はお休みであったが、紀元節・天長節・明治節は式が行われ、登校して参加しなければならなかった。

式の当日は玄関に日の丸を立てて学校に向かう。途中の家々にも日の丸がはためいている。校門には大きな日の丸が交差して掲揚されている。教師の誘導で紅白の幕に囲まれた講堂に入る。いつもと違って厳粛な気分になる。壇上にも日の丸が立てられ、正面の一段高いところに「御真影」が奉られているが幕がかかっている。「気を付け!」続いて「最敬礼!」の号令がかかる。両手を膝の下まで伸ばして下げた頭を上げると「御真影」の幕が開いていて「君が代」斉唱。要は式は天皇の前で行われるという仕組みである。シーンとしたなか足音が聞こえ、白い手袋をはめ桐の箱に入った教育勅語を載せたお盆を目の高さに捧持した教頭があらわれ、校長が恭しく受け取る。校長は箱を開け勅語を取り出し、巻物の勅語を両手で捧げ持つ、「勅語奉読」「低頭」という号令がかかる。おもむろに「朕惟うに……」と読み始める。勅語の奉読時間は約二分と言われているが、なんと長いことか、私たちはひたすら「御名御璽」をまった(子どもにとって「御名御璽」は終わりの言葉であった)。校長の式辞が続き、それぞれの式歌を歌ってお終いであるが、学校によってはそのまえに「勅語をありがとうございます」という意の勝海舟作詞「勅語奉答の歌」を歌った。

※1791年、文部省令として小学校祝日・大祭日式規定がだされ、その後若干の手直しを経て、1900年の小学校令施行規則には次のようにある。

第二八条
紀元節、天長節及び一月一日に於いては、職員及児童、参
集して、左の式典を行うべし
一、職員及児童は「君が代」を合唱す
二、職員及児童は、天皇陛下、皇后陛下の御影に対し奉り最敬礼を行う
三、学校長は教育に関する勅語を奉読する
四、学校長は教育に関する勅語に基づき、聖旨の在る所を誨告す
五、職員及児童は、その式日に相当する唱歌を合唱する

いま、東京都教育委員会などが強要している入学式・卒業式は御真影を日の丸で示してこのスタイルを模している。君が代斉唱時の不起立者への処分が続いている。

■勅語復活の企みは改憲を目指してしたたかに続く

ちなみに2018年度から使用される小学校道徳教科書の検定結果を見ると、提示された徳目をこなすことに懸命で、自主規制の効いたものが揃ったようである。愛国心を土台にした徳目は皇国臣民が守るべき教育勅語を彷彿させられる。現在使用中の中学校の社会科歴史教科書は七社とも教育勅語について簡単に触れている。内容は現代訳の一部を載せ、国民道徳に基本とされたが教育基本法が制定され失効したというような記述がほとんどであるが、育鵬社(自由社も)は「親への孝行や友人どうしの信義、法を重んじることの大切さなどを説きました。また、国民の務めとして、それぞれの立場で国や社会のためにつくすべきことなどを示し、その後の国民道徳の基盤となりました」と、あたかも今日に及んでいるような書き方で要注意。

最近、明治神宮や靖国神社に限らない、近所の神社に七五三のお参りに行ったら教育勅語を貰ったという話をよく聞く。

神社本庁などの指導であろうか、広く行われているようである。それらの多くに国定小学校修身教科書のコピーであるが、裏面に表示のような「教育勅語の口語文訳」(資料4)なるものが載っている。これは復活派がこぞって使っている「国民道徳協会」による訳文である。訳文と言うが勝手な解釈でとても訳文とはいえない。まず天皇が「臣民」に言う言葉であることを明らかにせず都合のよい徳目を並べ、肝心の「臣民」に要求するのが神勅(資料5)に基づく国体の維持であることに関わる「又以って」以降に全く触れていない。文面をきちんと読めば疑問がわいてくるはずであるが、巷にはこの期に及んでも教育勅語体制から脱却できていない人が少なからずいる。

富国強兵に向けて国民を一つの方向に向かわせる上で、教育勅語はある期間有効であったが、それは多くの国民から知的探求の自由を奪った上で進められてきた。そのため国民は去勢され、勅語に疑問を持ちながらも自分の生き方を糺すことなく、勅語に代わるものを自ら作り上げる力を獲得できないようになっていた。名残は現存している。理に背いても法に反することもいとわず復活を目指す輩の活動に比べて、疑問を持つ仲間の足並みの弱さの原因の一つであろう。

教育勅語の崩壊は敗戦によって自然に来るわけではない。教育基本法が公布されたからでもない。だから衆・参院の排除・失効決議が必要であった。確実な崩壊は、国民の学びと実践のなかで日本国憲法が定着し、教育基本法(1947年版)が守られていくことでしかあり得なかったはずである。

油断が過ぎた。でもまだ間に合う。しっかり読んで、教育勅語の息の根を止めようではないか。

*初出:「状況批評:教育勅語の跋扈」”Alert”(反天連ニュース)no.11, 2017.5

 

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