反靖国~その過去・現在・未来~(6-2)

土方美雄

靖国神社の「過去」~まずは、創建から第二次世界大戦まで~ その2

私が、今から40年以上も前、靖国問題に取り組む際に、まず、最初に読んだ本は、宗教学者である村上重良さんの、『国家神道』『慰霊と招魂 靖国の思想』『天皇の祭祀』(いずれも、岩波新書)という、3冊の本だった。この内、重版されて、今も書店で入手出来るのは、前述の通り、『慰霊と招魂』のみだが、残りの2冊も、古本としてであれば、入手可能だ(ちなみに、たった今、アマゾンで、検索してみたところ、2冊とも、在庫があった)。

何故、これらの本をまず読んだのかというと、まことに恥ずかしい話だが、当時、まだ私が、完全には関わりを断っていなかった、某党派の季刊誌で、紹介されていたからだ。その党派は、それまでは、靖国問題など、まったく、眼中にはなかったのであろう。そのため、つけ焼き刃で、猛勉強をした中で、おそらく、村上さんの本に、行き当たったのだ。
私も、それで知って、読み始めたのだから、『鬼滅の刃』の煉獄杏寿郎ではないが、今となっては、それこそ、穴があったら入りたい、くらいである。ただ、村上さんの本は、私にとっても、まさに、目から鱗で、靖国神社問題を通して、天皇制支配の闇の深さを、私(たち)に、教えてくれた。だから、靖国問題研究会結成のきっかけになる、1981年の「4.29反天皇制・反靖国集会」には、その講師として、村上重良さんを、お招きしたのである。

村上さんは、靖国の思想は、幕末から維新にかけての、幕府側・討幕派の熾烈な権力抗争の中で生まれた、「国事殉難者」の招魂の思想に、端を発すると、そう主張される。
簡潔に要約するならば、以下の通りである。

平安中期、疫病や自然災害の度重なる発生に伴い、これをこの世に怨みを残して死んだ人間の怨霊のしわざと考えた当時の人々の間に、祟りを鎮めるため、怨霊を神として祀るという信仰が、広まっていった。古代中期から中世にかけて、戦死者が出ると、敵・味方の区別なく供養するという習慣が定着していくが、これは、直接的には、祟りを恐れるという、切実な動機から発するものではあっても、日本人の心に、人間の生命を尊び、他者の死を哀惜するという、ヒューマニズムを育むこととなった。

しかし、凄惨な流血がくり返され、報復と憎悪の念がみなぎっていた幕末・維新期に形成された招魂の思想は、どこまでも、敵と味方を峻別し、味方側の戦死者のみを、「国事殉難者」として祀るというもので、それは日本人の人間性を歪め、人類愛を敵視して、他民族との間に、人間としての共感を育てることを阻害するという、恐るべき役割を果たすことになった。

1862年8月、当時の斉明天皇は、幕府に対し、幕府の手で処刑されたり、獄死したりした、尊王攘夷派の志士たちの招魂を命じる、勅文を下した。これは自派の死者のみを選別し、「国事殉難者」扱いすることで、全国の尊王攘夷派の志士たちを、鼓舞激励するという、文字通り、政治的な意図をこめたものであったが、幕府側はこれに屈して、同11月、安政の大獄以来の、尊王攘夷派の囚人を赦免すると共に、死者の名誉回復を認めた。
このことに勢いを得た、全国の志士たちの間で、以降、自派の戦死者の招魂祭が、各地で盛んに行われるようになっていくのである。その中でも、もっとも、規模の大きな招魂祭は、同12月、京都の東山霊山にある霊明舎で行われたもので、これは全国的規模での、初の招魂祭であった。

大々的な招魂祭の挙行は、尊王攘夷派の力を内外に鼓舞すると共に、参列者が「自分も、先達の後に続くぞ」という、決意をうち固める、場にもなった。

1862年の勅文以前から、熱心に戦死した志士たちの招魂祭を行ってきた、藩があった。それが長州藩であることは、すでに、記した。靖国神社の前身である、東京招魂社を創建した、大村益次郎が、同藩出身者であった。高杉晋作と並ぶ、奇兵隊のリーダーであり、明治維新政府の軍事的指導者となった大村は、軍隊の士気高揚にとって、招魂祭・招魂社の果たす役割を実感していたため、戊辰戦争鎮圧後、直ちに、東京招魂社の建設を急ぐことになった。

「明治元年」となった、1868年、同3月に江戸城の開城を勝ち取ると、明治維新政府は、直ちに、古代の官制である神祗官を復興し、祭政一致の布告を出した。同時に、キリスト教の禁止と、神仏判然の命令を出して、露骨な神道国教化政策を、新政府は推進していくことになる。

その手始めが、招魂社の創建と、楠社の創建だった。楠社は、南北朝時代の(南朝側の)忠臣、楠正成を祀る神社のことで、その造営のための資金を、国民から集めるというキャンペーンを展開し、1872年に、湊川神社(兵庫県)として、創建された。同神社は、神を祀る神社ではなく、人間を「神」として祀る神社であるため、「別格官幣社」と呼ばれることになる(東京招魂社、のちの靖国神社も、別格官幣社)。

神社の社格もまた、天皇への忠誠度によって、その上下が、決められることになる。民衆に対し、天皇への尊崇の念を植えつけようとする、露骨な政策だった。

そして、もうひとつの、東京招魂社の創建は、1869年、維新からたった1年後の、ことであった。

以下、続く。

 

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