憲法と「天皇制民主主義」 即位・大嘗祭違憲訴訟陳述書

*この文章は、即位・大嘗祭違憲訴訟の原告である天野恵一さんが裁判所に提出した「陳述書」です。法廷ではこの陳述書をもとに本人尋問もなされました。即位・大嘗祭違憲訴訟の会と筆者の承諾を得て掲載します。

 

平成30年(ワ)第38165号 即位の礼・大嘗祭等違憲差止等請求事件
原告 佐 野 通 夫 外240名
被告 国

平成31年(ワ)第8155号 即位の礼・大嘗祭等違憲差止等請求事件
原告 天 野 恵 一 外76名
被告 国

陳 述 書(2)

2022年12月3日
東京地方裁判所民事第6部乙合C係 御中
天野恵一

第1 私のプロフィール 〈略〉

第2 憲法と「天皇制民主主義」~二つの「代替わり」の類比から

1 〈名目的統合〉のゆくえ

2016年7月13日、NHKのスクープ、翌日からの全マスコミ大騒ぎ、8月8日の、天皇自身による生前退位希望のメッセージの公表によるさらなるマスコミの大騒ぎ。今回のこのプロセスに、私は「不意打ち」という言葉をよく使った。「不意打ち」された驚きという点では、30年前の前回も強く実感させられた。ただ、長い病状報道の大騒ぎの期間があり、一度の体調回復報道をもはさんでの前回は、死(「代替わり」のスタート)を不意打ちと実感したわけでは、もちろんない。

不意打ちの驚きはまず、「ご病気」「ご疾患」の状態を日々具体的にあふれかえる敬語をあたりまえに使いながら、まきちらす全マスコミの画一的な病状報道であった。ここまで、特別神聖視報道をやるのかという〈驚き〉。まずそれである。そして、全国民心配の「身振り」が全国につくられた記帳所への人々の結集と、アッという間に拡大した「自粛」が政府・自治体・マスコミの煽動をテコに、人々の生活を大混乱させながらさらに全国に拡大したことへの〈驚き〉。

天皇という国家の政治的シンボルを使えば、ここまで過同調が組織できる社会に生きている事実への驚きである。あって当然の反対意見はほぼなく、大勢にみな同調し、各地のお祭りが六大学野球などが中止。一時的にはデパートの食料品売り場から祝事用の「お赤飯」が姿を消した。ジングルベルが聞こえず、イルミネーションが光らず、サンタクロース(ファッション)も登場しないクリスマス。テレビからお笑い番組が消え、「祝い」の歌も消え、パーティや結婚式(特に人気芸能人などの)がドンドン中止。

私は1990年4月にまとめられた『マスコミじかけの天皇制」(インパクト出版会)で、朝日新聞に連載された「自粛の街を歩く」を中心にまとめた『ルポ自粛――東京の一五〇日』で紹介されたレポートを具体的素材に「マスコミじかけの天皇制――『自粛』とメディアの政治学」という、この状況を総括する文章をトップに書いている。そこで以下のごとくこのルポで紹介されている「読者の声」についてふれている。

ここに納められている読者の投書を二つほど紹介しよう。/「お祭りの自粛は当然だ。憲法第一条で天皇陛下が『日本国の象徴』であることは漠然と知っていても『日本国民統合の象徴』であることは案外しられていない。父母が重体に陥ったとき、社用出張はやむをえないとしても、観光旅行やお祭り騒ぎを自粛するのは日本人の一般常識であり、あえて強行すればほかのものからまゆをひそめられるのは当たり前でしょう。『国民統合の象徴』を再認識すべきだ」。/政府・マスコミの「自粛」を正当化し、推し進めた論理そのものである。しかし、読者の声は次に紹介するしかたなくというトーンやはっきりと批判的な方が多い。/「キーポイントは『周りに合わせて』なのです。丸の内の会社に勤めてますが、社内ではいつも保守的なおじさんたちが、けっこう、この件についてはびっくりするほど批判的で冷ややか。『へんな国だねえ、日本は』『外国にああいわれても仕方がないよ(英国の報道のこと)』うんぬん。でも悲しいかな、しばらくすると『みんな記帳に行くなら、行かんとならんねえ』。一人だけ、一社だけ違うことはできない社会なのですね」。/自殺者までうみだし、「自粛不況」という言葉が浮上するところまで拡大し続けた「自粛」。アキヒトが「過剰な自粛は陛下の心にそわない」と発言し、それをマスコミがクローズアップし、マッチポンプよろしく自分たち(政府――マスコミ)が煽りに煽った「自粛」にブレーキをかけようとしたりすることにまでなった、この騒ぎ。これだけの引用でも、それがどんな大混乱であったかが、あらためて具体的に想起できよう。フルスピードで拡大した「自粛シンドローム」現象で明確になったのは、ファナチックな天皇主義者は、ほとんどいないという事実である。「自粛」という名の「他粛」は、本当に天皇の病気を心配したり、その死を本気で悲しんだ人によって引きおこされたわけではなかったのだ。/大勢に従わずに孤立することへの不安、横並びになっていないと危険という心理が支配的であったことは、自分自身の身の辺りの出来事からも確認できるし、今までの引用からもそれは明らかである。/多くの人々は「自粛」という政府・企業・マスコミが一体化して演出した「天皇儀礼」に、名目的に参加してみせたのである。

当時、私はヒロヒトXデープロセスに露呈した象徴天皇制による国家統合を、〈名目的統合〉とネーミングした。それは自分の「父母が重体に陥ったとき自粛は当然」という天皇と自分の両親をストレートに一体化させる「家族国家観」が人々を支配していたわけではないし、天皇の病気や死を、本気で心配していた人間は、本当にまったく少ない事実を前提に、同調の身ぶり(儀礼的同一行動への参加)のスピーディな社会的拡大を前にして頭に浮かんだ言葉である。

象徴天皇は「国民統合の象徴」なのだから天皇儀礼に統合させることは憲法上アタリマエという憲法理解(かつての「国体」天皇観に引きよせた理解)を支配者たちは強制したが、多くの人々はそれにまるごと自発的に同調したわけではなかった(もちろん、それは自発性がゼロであることをいみするわけではないが)。

そうした内実はともかく、「不意打ち」された驚きは、この過同調文化が強力に生きている事実のグロテスクな露呈を前に、私にもたらされたのである。

当時「驚き」を正直に表明した有力な憲法学者の声を一つだけ紹介しよう。

一九八八年九月二〇日以降、日本を襲った天皇「ご容体」報道の洪水およびそれに呼応して広範に国民のあいだに展開した「自粛」騒ぎ、総じて「天皇フィーバー」と称しうる状況は、そのはげしさにおいて、まず私を驚かせた。私は天皇「ご容体」情報が、そんなに強い需要価値を持つとはじつは思ってもみなかったし、その情報がバネになって、こんなにも全国津々浦々の人々が同一歩調をとることになるとも考えていなかったからである。/この点において私は「見込み」違いをしていたのであるが、なぜ、こういった「見込み」違いを私はおかしたのだろうか。このことの解明が私自身に要請されている。

「日本国憲法『内なる天皇制』」(『世界』1989年1月号)、『昭和の終焉』(岩波新書)に納められた奥平康弘の論文からの引用である。

ひどく率直な意思表明である。こうした〈驚き〉は、多くの憲法学者が実は当時共有していたはずのものであり、インテリ文化だけでなく、広く少なからぬ人々が感じたものでもあったはずだ。

奥平は、ここで、野牛の大群の一点に向かって大殺到、立ち止まったり反対方向へ向かうことをまったく許さない群の走りである「スタンピード」という言葉を使っている。

戦前・戦中のマスコミは、こういうスタンピードを繰り返しながら、戦争へのみちに殺到するのにあずかって力があったのは、周知のとおりである。/「また始まったか」という想いであった。幸にして戦前・戦中と違って、いまは新聞紙法の規制がない。したがって「このスタンピードはおかしい。間違っているぞ」という立場を表明する自由はあるわけである。そしてこの自由を行使したのは、日刊新聞紙と称しうる出版物では――私の認識するかぎりでは――わずかに「赤旗」があるにとどまった。「赤旗」だけが、新聞紙法(および治安維持法)の廃止がもたらした効果=少数意見表明の自由およびそういう意見を読む自由を現実に享受した、といいたいぐらいである。

ここまで、天皇制にすさまじい国家(政治)的統合力があるのか、という「驚き」。私たちは、象徴天皇制は「非政治的存在」であるという、戦後憲法を軸につくりだされた政治神話(イデオロギー)と対決し、実は天皇制は「神権天皇」から「象徴天皇に」変わることで、政治性を消滅させるわけもなく、国家の神聖さを日々、実感させる絶対権威という独自の国家的統合力を保持し続けているのであり、国の象徴が「非政治」と強弁していること自体が独自の政治(イデオロギー)支配である。こう主張し、「非政治」という政治を具体的に批判し抜く反天皇制運動を持続してきた。より具体的には「国体」「植樹祭」などの全国めぐりの天皇儀礼であり「皇室外交」の政治への批判である。その私たちですら、この局面に露呈したマスコミじかけの象徴天皇制の国民統合の政治力には驚かされたのである。それは裏をかえせば、私(たち)ですら、まだ象徴天皇は「非政治」とする「民主主義と象徴天皇は調和的に共存している」という戦後民主主義体制のイデオロギーの呪縛から自由ではなかった。いいかえれば天皇制の外観は変わりながら持続的に保持し続けている政治力を十分に批判的に対象化することがすることができていなかった、という事である。私たちが「見込み違い」をしていたのは、この〈象徴天皇制デモクラシー〉感覚の制度的定着が持つ強力な政治力についての評価である。驚くべきパワーがそこにはあったのだ。

もちろん、強制される「自粛」の波の問答無用の瞬時の一挙的拡大にまきこまれた私たちは、はじめて象徴天皇制が持つ、庶民の日常生活の内側まで徹底的に国家管理し抜く政治力(抑圧力)を強烈に実感した。

当時全国に、少数派の闘いではあれ生まれた反天皇制運動のスローガンで広く共有されたのは、「天皇制打倒」という古典左翼のスローガンを押しのけた「天皇制はいらない!」であった。これは象徴天皇は「無力」(非政治)などではまったくなく、徹底的に庶民生活に抑圧的であり〈あんなものはイラナイ!〉という人々の実感をテコに生まれたものであた。

とうとう侵略戦争と植民地支配の最高責任者が、なんにも責任もとらずに、平和主義者として大々的に賛美に囲まれて死んでしまうという許されざる欺瞞的歴史への事実をふまえた〈怒り〉と、生活へのすさまじい抑圧へのストレートな反発と〈怒り〉が重ねられて〈天皇制はいらない!〉のスローガン(呼びかけ)が全国各地を駆けめぐったのである。

この失敗を天皇側は総括して、天皇自身による生前退位という方法が準備されたのだ。その点は明仁メッセージの以下の部分に明らかである。

天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当っては、重い殯の行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

戦後最大の「天皇制いらない!」の大衆行動の全国的噴出に、天皇側の恐怖と驚きの体験もこの「おことば」なるものの裏にはりついている事実を見落としてはなるまい。「生前退位」なら、退位と新天皇即位の祝賀一色でのりきれる。この間の「代替わり」政治プロセスで、こうして天皇賛美づけのマスコミ・支配者たちが隠し、私たちに忘却を強いている重要な歴史体験、それが前回の政治プロセスに噴出した反天皇制の運動である。ゆえにその歴史体験を今の状況に置きなおして運動的に考えてみることこそが大切だ。

2 〈民主主義〉と憲法をめぐって
もう一つの忘れてはいけない重大問題は、象徴天皇制の強く実感された抑圧への反発をバネに前回のXデープロセスでも、「護憲平和・民主主義」天皇として、マスコミにしきりとプロパガンダされたアキヒト天皇をめぐって、反天皇制運動の中で〈民主主義〉をめぐる論議が、まきおこった事実である。1989年6月14日の日付のある「象徴天皇制と〈民主主義〉――時間と空間を取りもどす闘い」(『マスコミじかけの天皇制』所収)で私は、こう書いている。

権力の支配、管理は、空前の警察官による戒厳体制子供がナイフを持っていたからひっぱっていくようなことまでする――、自分たちの行為を正当化づける根拠であるはずの法律をまったく無視して平然と持続された弾圧体制の日常化という事態により端的に表現されていた。/神聖な「天皇陛下」を名目とすれば、どんな「人権侵害」やりほうだいであったのだ。日常的には交通警備といわれているものだが、治安のためでもありうることも多くの人々があらためて実感させられた。権力が必要であれば「交通」などメチャクチャに混乱しようがおかまいなしに、検問がくりかえされるのである。私たちがそれに抗議し反抗して、力で拒否すれば、逮捕が待っているだけなのである。「民主警察」という名の天皇(国家)の警察。/「天皇Xデー状況」がいたるところ露出させた(右翼の協力にも支えられた)権力・マスコミの民衆の日常生活の強力な管理・統制操作・支配という〈異常性〉。それは日常のなかに見えにくくされている〈異常性〉である。私たちは「自由」の空間と時間を持ち、自分で様々なことを決定する権利を保持しているということにタテマエ的にはなっている。
それが、まるで幻想でしかないことが、あらためて強烈に意識されたのである。決定権を独占しているのは権力・マスコミであり、私たちではないのだ。私たちがとりくんだ「大喪」、四・二九(みどりの日)までをターゲットにした「天皇制の賛美・強化に反対する共同声明運動」の中心に『「民主主義」に天皇制はいらない』というスローガンが浮上した。/私たちの天皇制に対置された〈民主主義〉は、当然にも戦後憲法に根拠を持つ、象徴天皇制をいただく秩序としてのではありえない。権力によって、そしてマスコミによって奪われた、自分たちの「時間」と「空間」を奪いかえし、民衆相互が自由に決定していく領域を全面的に拡大していく運動としての〈民主主義〉である。

ここでは、象徴天皇条項から始まる戦後憲法批判の意識を前提にした憲法の〈外から〉の意思が前提の〈民主主義〉が力説されている。しかし、この時につくりだされた論議は、他方で、憲法の内側から〈民主主義〉を論ずる視座の必要性をも実感させるものでもあったのだ。それは天皇制による抑圧的日常の露出は、憲法上の規定の大きな変化(神聖な主権者天皇から国民主権下の単なる象徴へ)にもかかわらず、戦前の国家を神聖化する絶対的権威としての天皇は連続しているのはないかという実感を多くの人に持たせ(象徴天皇制の独自の政治力の存在を可視化させ)、「反戦・平和主義」の立場から「護憲」と主張してきた人々の中にも、象徴天皇制(1章)のとんでもないうさんくささ(抑圧性)、民主主義とはまったくあい入れないものであると実感、差別を正当化する根源的存在にすぎないという認識が拡大してきた。

それは、私たちの「共同行動」の中で、くりかえされる討論の中で私たちに強く実感させられた。その時、私たちも戦後憲法の内側(主権在民のデモクラシー・人権尊重・絶対平和主義の三原則)に依拠し論理をくみたてなおす必要もあることにあらためて気づいたのである。この三原理を象徴天皇制とすこぶる調和的なものと解釈し、そのための既成事実もつみあげていく手法が戦後一貫する保守権力者の政治であった(それが「国民主権」下で帝国憲法に郷愁を感じながら天皇制を継承しようとした支配者の方法なのである)。それは天皇制を強化し民主主義をひたすら議会政治の多数決主義にとどめ、弱体化する政治であった。

30年前のXデー状況に全面的に露出したのは、そのグロロテスクな政治の実態であった。これに対して〈主権在民〉非武装国家の〈絶対平和〉・個々人の平等と尊重の〈人権〉の三原理を実態的に貫徹させれば象徴であれ天皇制とは敵対し、〈象徴天皇制〉原理を内側から突き崩していくことが可能なはずである。

憲法の「外から」という「思想運動」的視座は不可欠であるが、憲法自身の「デモクラシー・人権・絶対平和主義」原理によって「内側から」象徴天皇制国家秩序を突破する論理も、必要であること。この「内側」の三原理を「外から」の原理と合流する方向で強化する必要。この事に、私(たち)は、その局面で気づかされたのである。それは多様な戦後に蓄積され続けてきた国家・資本と対峙した〈民主主義運動〉のプラスの遺産を反天皇制運動が継承していくためには、不可欠な通路でもあったのだ。

そして、平成「代替わり」の局面は、憲法の「内側」からの論理の決定的な必要性をあらためて実感させるスタートであった。
「生前退位」希望のアキヒト・メッセージにはこうある。

私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年。この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごしてきました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍に立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味においで、日本の各地、とりわけ遠隔地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として大切なものと感じて来ました。

これは国民統合のための「象徴的行為」こそ実行し続けるのが天皇の政治的任務であると天皇自身が明言してみせたのであるが、トンデモない主張である。

統合のための積極的活動など許されない。名目的(儀礼的)「国事行為」(憲法に明記されたそれ)以外は「禁ずる」と憲法は明記している(第4条)。当然「象徴的行為」とは何で、どうあるべきかなどと天皇自身が「象徴天皇制」を自己規定することなど論外である。アキヒト天皇は公然と憲法破壊の政治的メッセージを発したのである。

そして、そのメッセージは自分たちのつみあげてきた「象徴的行為」(それ自体が違憲行為である)をさらにつみあげるには私は高齢になりすぎた、この活動を担う「皇位」を「安定的に譲位」するために、自分はいきたままの退位をしたい。
こういうメッセージである。内容が憲法上の象徴天皇規定からも大きくはみ出した主張であるそれは、私が退位可能になるように皇室典範を変えよという含意があることも、あまりにも明らかであった。天皇が公然と法律のつくり変えを要求するという、ウルトラな政治行為。

この事態を眼前にして「驚いた」事に、あらかたの憲法学者は沈黙し正面からの批判の声はほとんど不在であった。「国民主権」下の象徴天皇は、積極的に政治的に動くことは憲法上禁じられている、ましてや法律づくりを呼びかけることなど許されるわけはないというのは戦後憲法学の常識であったはずなのに、である。

戦後民主主義憲法学の全面的自己崩壊。それは、この天皇メッセージの意向をくみあげた安倍政権がつくりだした「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」(2017年6月16日公布)に、共産党までが、結果的に賛成に回って成立してしまった事実(全会一致!)、安倍政権の改憲や戦争国家づくりに反対の声をあげていた「護憲」派、リベラル知識人の中から大量に「明仁」発言賛美の声が飛び出した事にも、よく示されていた。

「特例法」の第1条はこうである。

この法律は、天皇陛下が、昭和六十四年一月七日の御即位以来二十八年を超える長期にわたり、国事行為のほか、全国各地への御訪問、被災地へのお見舞いをはじめとする象徴としての公的御活動に精励してこられた中、八十三歳という御高齢になられ、今後これらの御活動を天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は、ご高齢に至るまでこれらの後活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感していること、さらに…

天皇への敬語を乱発しながら、天皇自身のメッセージを全面的になぞった天皇の意思の法律化が、ここで果たされている。信じられない「違憲立法」だ(「皇室典範」の改正発議権は、かつては天皇にのみあった。今度のこの法の成立は、それの戦後憲法下での復活である)。

それでも憲法学者などの正面からの批判の声はほぼ不在。

このプロセスでおきたのは、「国民主権デモクラシー」を「象徴天皇」の方が飲み込んでしまう事態である。マスコミは高齢老人の退職希望はかなえて当然という、同情ムード(天皇と自分たちの家族の一体化)が強いという「世論調査」のデータ公表をテコに、批判など「人間的」に許されないとでもいったムードを組織化した。これが象徴天皇の政治力である。昭和の「代替わり」に生まれた反発をおさえこみ、天皇への共感をうまく拡大してのりきるといったアキヒト天皇のマスコミじかけの政治は巧妙に貫徹されてしまったのである。

即位儀式は憲法20条あるいは89条の政教分離規定を踏みにじる宗教儀礼のオンパレードであったことは前回と、まったく同じである。
今回も国家まるがかえの〈天皇教〉の宗教儀礼がさしたる批判もあびずに、国家行事化され続けた。
「特例法」にすら公然と反対の声が上げられない憲法学者が、この状況に、ほぼ屈服してしまったのは必然であろう。

象徴天皇制と民主主義(人権・絶対平和主義)は矛盾する、というのは戦後憲法学者たちにとっても自明の前提であったはずだ。問題は、その矛盾はまったく調和的ではありえず決定的に敵対的な矛盾でしかありえない(憲法自体が敵対的自己矛盾をかかえこんでいる)事実をキチンと踏まえ、憲法の解釈を象徴天皇制と対決するベクトルから、つみあげようという問題意識が、あまりにも微弱であった結果の自己崩壊である。

象徴天皇の「公的公務」を拡大し抜こうという「違憲」の政治意思に追従した人々の意識は、「神がかり天皇」の復活(史実を無視した「神の国」神話への一体化)ではありえない。神話的な天皇儀礼に「名目的に統合」されるという意識であるという性格は、前回の時と同一である(「現人神」が復活するわけではない)。ただ、同情と共感の心情のレベルでの象徴天皇への一体化は、裕仁時代よりは強まっていることは明らかである。

マスコミの天皇報道がつくりだす神話のムードの中に史実を曖昧に包み込んで成立している政治的(国家の)物語のイデオロギーを、史実と神話を峻別しつつ正面から批判し続ける(名目的統合を内部から解体する)作業があいかわらず反天皇制運動の課題である。
戦後憲法の「主権在民デモクラシー・人権尊重・絶対平和主義」原理を象徴天皇制と対峙させ、内側から突き崩す〈思想/運動〉的作業。戦後民主主義憲法学者が突き詰めることを途中で放棄し、自己崩壊したプロセスを批判的にふまえながら、この作業を追求し続けることも、象徴天皇の2回の代替わりの政治プロセスが30年前の1回目の時、気づきながらまったく十分に果たせなかった)、反天皇制運動に与えられた大きな課題である。

特に今回の「代替わり」は安倍政権の明文改憲へ向かうナショナリズムづけの政治として演出されたのであるから(天皇の公的行為の拡大と正当化ではアキヒトと安倍は一致している)。権力者の明文改憲に反対する反象徴天皇制運動は、今後もさらに追求されるべき重要課題であることは、間違いあるまい。

以上

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