ナショナリズム研究 11・12

日本ナショナリズム研究会
「万邦に対峙する」の国家目標 11・12
——1920年代の社会主義思想・運動

伊藤晃

1910年—1920年代社会運動諸集団

19世紀後半のヨーロッパに、一方で自由主義のデモクラシーへの前進を要求し、他方で社会主義にもデモクラシーとの融合を促す社会的変化があった、と前回お話ししましたが、同じ変化は20世紀に移っていく時期の日本にも存在していました。

明治維新期、「万邦に対峙」するという国家目標のもとで、人民諸層は「国民」化されました。国家目標を内面化し、それに合わせての自己形成を促される。国民であるにふさわしいもの、すなわち民族にとってのなんらかの価値をもつものとして人民諸層のそれぞれの価値づける天皇が働いていました。

もちろん現実の人民は、国家の富国強兵策における、また形成されてくる資本主義社会の諸負担を負わせられ、その生活の現実と彼らが与えられた民族にとっての価値との間には大きなギャップがあります。それを感じとって抗議の声を発したのが明治社会主義思想でしたが、そかしこのころは、その抗議に社会的実体を与えるべき人民運動がまだ未熟だったのです。

そういう人民運動が、1910—20年代に入って次第に姿をととのえてきます。第1次世界大戦時の好景気がそれを助長する。まず労働運動。1911年に鈴木文治らが作った友愛会が少しずつ成長していましたが、社会一般に労働争議の時代、労働組合の時代が印象づけられるのが16—17年ころ。20年前後に高揚期を迎えます。賃金値上げ・生活改善に止まらず、そうした運動の権利、団結権要求、治安警察法第17条撤廃要求、これらを通して労働者集団は、自分たちがおかれた「下等社会」の脱出を希求したのです。このころ友愛会は日本労働総同盟に発展しています。なお全国に拡がった米騒動は1918年。

農民運動。1922年に日本農民組合が作られますが、初期におけるその主力は、貧農というより農業経営としての上向きをめざすために高額小作料の低減を強く要求する、小作の上・中層でした。

被差別部落民。関西地方が先導して22年に全国水平社を作る。その身分差別反対運動は、自分たちの権利は自分たちで自ら立って取る、というデモクラシー運動への先導的意味を秘めている。

女性解放運動。女性の法的・社会的権利(1920年新婦人協会。治安警察法第5条撤廃要求など)、家族制度への反逆・批判、女性・子どもの権利擁護、女性の能力の自由な発展。男性を基準として二流扱いされることへの批判が根底にあります。

在日朝鮮人。1920年代末に30万人ほどになる。26年在日朝鮮労働総同盟結成。民族解放運動・独立運動と階級運動との重なりを表現した組織だったと言ってよいと思う。

朝鮮人は別ですが、これら諸社会集団の価値は、もともと国民すべてを「赤子」として「一視同仁」する天皇が引きうけ、実現するもので、そのことの上に「国民」があったはずなのです。しかしそんなことは一向に起きなかった。だがそれでは、天皇制国家批判を内にもつ自由主義運動には、そうした問題解決が可能だったか。

諸集団の主張には、彼ら自体が言い出さなければ社会一般が気づかない、ということがたくさんあります。それらは社会の常識からすればそんなことは当たり前だと思われていた、そういうことがらです。当事者が、自分たちの欲するところは自分たちで立って取らなければ自分たちのものにならない、と考えて立ち上がるとき、社会一般がやっとこれに気づく。まかこのなかで、自由主義がかかげている諸価値、たとえば「平等」が、諸集団の運動によって具体的な意味、新しい意味を付与される。「平等」なる価値がたとえ思想家たちによって抽象的理念として説かれたのであったとしても、さまざまな運動をくぐることで、さまざまな具体的・現実的不平等に気づかされる。あれこれの価値は人民生活の現実のなかでなにをどうすることなのか。その価値の社会的実現形態はどういうものか。こうしてさまざまな価値の思想水準が押し上げられる。

このとき自由主義が実現すべき政治形態は、議会政治にせよ政党政治にせよ、エリート政治から、社会の現実問題の解決と結びついて高度化・視野の拡大に向かうでしょう。これは別に空想ではなく、日本でも普通選挙はすでに展望されているのであるし、いま述べてきた諸集団の主張のあれこれが自由主義勢力の綱領体系に組みこまれていく見通しもあったと思います(20年代にこれらは混迷しますが)。

さきに、19世紀ヨーロッパで自由主義をデモクラシーに前進するよう促した事情が20世紀に入った日本にもあった、と申しましたのは、以上のようなことです。そして日本の特殊な問題として、これは、近代天皇制を批判する立場が大衆的にはじめて現れてきたということでもあります。

くり返しになりますが、明治維新において天皇制国家は、人民を江戸身分制社会から解放し、人民諸集団をそれぞれ民族にとって価値あるものとして認め、こうして人民の希望とエネルギーを引き出すことで、近代日本を国民国家たらしめたのでした(もちろん一般的に言えば、ということですが)。人民は、受動的にではあるが、国民に高まったその立場から、日清・日露戦争をも支えたのでした。

しかし、これもくり返しですが、人民各層の天皇による高い位置づけは、彼らが現実社会でおかれた位置とはあきらかにズレていた。日露戦後、経済社会の発展の中で、諸集団に新たな自己主張が生れ、自らの運命について自立的な立場に立ち始める。それは天皇とその国家が担うとされていたことに、自主的な解決を試みはじめるということです。もしこれらが首尾一貫されるなら、天皇とその国家への依存心・従属、崇拝と重圧感が薄まり、人びとの内面で天皇は「軽く」なっていくでしょう。これらの運動の連鎖が広く社会に作られるなら、それは人民自身による共同社会として、天皇制国民社会動揺につながるかもしれません。

天皇制国家は強大な権力機構ですが、その権力は、国民の内面に国家への屈従心、「天皇・国民一体」があってこそ有効に働くものでしょう。

もちろん、人民は天皇尊崇から一時に脱却できるはずはない。その変化の断片があちこちに現れる、見えたり消えたするこれらをたんねんに拾い集め、人びとにその感じたことが何であるかを説明し、それらを首尾一貫させ、つなぎあわせる、こういう政治的・思想的運動が必要でした。

1920年代の日本社会主義運動

自由主義をデモクラシーにまで前進させる条件が日本社会のなかにも生れていたことを話してきました。20世紀に入るころ活発化してきた人民諸集団の自己主張と自主的運動、これらを認識し、自らこれらの主張を体現しようとし、これらを政治主体化させるために関与する、ここに自由主義自体の全身があるのでした。ところが自由主義にとっての全身の条件は、19世紀ヨーロッパにおいて、社会主義運動に対しても働いていたのでした。この点も、日本において同じことが言えると思います。具体的には、明治社会主義運動の高潔さを引きつぎながらもながらも、その観念性・非大衆性をどう克服するのか。人民諸集団の運動の現実的体現者となる途を求めること。当然そこには、天皇制への一貫した対抗力になるという問題も出てきます。しばらく、1920年代の、日本共産党を中心とした社会主義運動を追ってみます。

大逆事件後屏息状態にあった社会主義運動は、1910年代、自由主義的空気の中で復活してきました。しかし受動的にであって、大衆的諸運動のなかから、その表現として出てきたのではない。だから既存のものを批判することで間接的に自己主張することも多く(前に見た山川均の吉野作造批判など)、自前の運動でこの時代にかかわっていくことが欠けています。旧国家改革運動の統一テーマというべき普通選挙に対してさえ、冷淡な態度を1922年ころまで続けている。自分たちの任務は社会主義のために戦うこと、古い国家と戦うのは本来自由主義の任務、それが果たされて本当の近代がやってきてからがわれわれの出番、というのがその「理論的根拠」。だから古い社会に対抗する人民諸集団の運動が現れても、これらに共感・同情はするが自ら主体的に関わる姿勢は弱い。つまりこの社会主義はデモクラシーの水準に自己を高めるという思想がないのです。

ちょうどこの頃、世界的には、1917年ロシア革命に発して、「世界革命」の波が押しよせてくるかのようであった。これは日本の社会主義者たちにも大きな勇気を与えます。彼らからすればこの革命は、世界社会主義革命の必然性、つまり彼らの理論の現実化にほかならないのです。「赤化」の波は日本にも及び、日本を社会主義革命にまきこむだろう。そうなれば日本の未熟な資本主義は、それが克服しきれないでいた封建制もろとも、押し流されよう。ケチな自由主義的改革など、飛びこえられてしまうわけだ。こうして、それまで大衆的運動の現実から離れ、社会主義者の観念のなかにあった革命思想が、やはり観念のなかで激しい急進主義に発展・転化する。当時「革命3年説」、3年以内に革命が起きる、などということがよく言われた、というのです。

こうした思考においては、発展してくる大衆的諸運動と結びつき、社会のデモクラシーへの前進において自らその主体となること、天皇制的国民一体を批判して人民の自立的な社会的共同を作ること、そんなことにこだわりがもたれるはずはないのです。

明治社会主義の、社会主義を労・資直接の階級対立として考えてきた経済決定論的思想は、こうした状況の中で、サンディカリズム、社会主義革命の主体を単純に、労働組合に組織された労働者階級に見る思想に結晶し、これが社会主義運動左派をなすことになります。サンディカリズムは南ヨーロッパで有力な思想でしたが、ここでは現実に大衆的労働組合があってのもの、日本のばあい労働組合がまだ少数集団である状況下で、観念だけが急進化するのです。

そして重大なことは、他の社会諸集団の解放要求、その運動を、この日本サンディカリズム、左派社会主義運動が、プロレタリア階級運動に対して二流の運動視し、それらの主体性を軽視する思想を自らに固着させたことです。のちに私たちは、こうした諸集団の運動課題は社会主義革命ですべて解決できる、また社会主義革命によらなければ本当には解決できない、という頑固な「信仰」的思想を見ることになるでしょう。

ところで、世界革命がせまったかにみえる情勢は、世界的にも社会主義者集団の急進主義を増幅します。ロシア革命を世界に拡大したいロシア共産党(ボリシェヴィキ)のレーニンたちは、この増幅した急進主義を世界革命の政治力に転化させるため、各国の左派グループを結集させ、あるいは社会党から分離させ、これらの「共産党」を「コミュニスト・インタナショナル(第3インタナショナル、略称コミンテルン)」に結集させます(1919年)。

その働きかけは日本にも及ぶ。明治以来の社会主義者グループ(堺利彦・山川均・荒畑寒村ら)、サンディカリストのうち、ロシア革命で目覚め、革命をもたらす政治権力(権力性)と運動の集中性について触発された部分(鍋山貞親や渡辺政之輔ら。彼らはここでサンディカリストや、またこれと親近性のあった大杉栄らのアナキストとも分離する。ただしこれらの運動の「気分」はその後も共産主義運動の思想の底流に見えかくれする)、新進知識人の一部(佐野学ら)がこれに応じ、彼らは21、2年ころに日本共産党を組織しました(中心的な思想的指導者は山川均)。

しかしさしあたり彼らは、日本の社会主義運動の伝統として、労働運動をはじめ大衆的運動の指導力として実体をもたない、少数の観念的集団である、という性格を脱しておりません。多くの国の左派がそうであったように、「ロシアのようにやろう」と意気さかんだが、それがこの社会で何をどうすることかはよくわかっていない。しかしロシア革命の精神を日本で代表し、他に対して思想的優位に立っているつもりではある。そういうものとして、大衆的運動への指導権を要求する。共産党は伝統的セクト主義に党派的対立の輪郭を与えたともいえるのです。

急進主義左派が旗色を鮮明にするころ、他方に現実主義を標榜する右派が、労働総同盟などの大衆的労働運動の中に結晶してきます。労働総同盟の前身、友愛界を作った鈴木文治、キリスト教界の名士である賀川豊彦、知識人出の麻生久・赤松克麿(彼らは一時はロシア革命に心酔する急進派であった)。労働者から出てきた西尾末広・松岡駒吉らの名を挙げておきましょう。彼らは国民社会が労働者集団の生活向上や権利実現に冷淡な現実に立って労働運動に志し、理想として社会主義を求めながら、労働者の利益実現の道を、むしろ自由主義的流れに近いところで探ろうとしました。そして、実際、デモクラシーに前進しきれない日本の自由主義ではあるが、その中に労働運動を助けようという一群もいたのです。ほかならぬ吉野作造がその一人でした。労・資の対等性が社会の「正常な」姿だという彼の主張は一貫しています。もう一人、末廣厳太郎いずたろう(第2次大戦後、中労委の初代会長)。民法学者で労働法に進出し、労働者団結権の法理を説きつづけた。この人びとのの思想の枠組みとして労働組合方が主張され、また総同盟は資本との労働協約締結を運動目標の一つとするようになりました。これらによって労働力売買の「正常な構造」をめざすのです。吉野らは、開明的自由主義的な資本と高度な労働者との結合こそ、日本資本主義の西洋資本主義への等質化の条件であると考えていたでしょう。これにこたえて、右派現実主義の労働総同盟の運動姿勢は、労働運動を認めようとしない資本勢力に対しては、あくまで戦闘的な自主的労働運動ででありました。

しかしここにはあきらかに限界がありました。資本の側がいっこうに開明的になってくれず、自主的労働運動である限り基本的には左派も右派も区別せず、認めようとしない。労働協約に応ずるケースもほとんどない。産業別組合であった海員組合が船主団体とと労働協約を結んだ、などは例外的なものです。つまり自由主義は資本の壁を破る力を持てなかったのです。

左派ー共産党に話を戻します。この派が観念的少数集団に止まっていたことを前に言いましたが、この状況を脱する機会はあったのです。

山川均、協同戦線党

まず世界的な状況にふれますと、1920年代初頭、期待されたドイツなどの革命が成功せず、世界革命の大波はひとまずおさまったようでした。急進的見通しで結成された前述のコミンテルンも、1921年の大会で方針転換し、「統一戦線方針」を採用します。右派として排斥していたヨーロッパ社会民主主義勢力と関係を調整してやり直そうということです。このときレーニンは、そういう仲直りだけでなく、自分たちの急進主義革命のよりどころと考えていたヨーロッパ・プロレタリアートの「革命性」を再検討しよう、階級形成過程を考え直してみよう、プロレタリアートが本当に国民的指導階級になる道、プロレタリア革命が国民社会変革を牽引する道を考え直そう、という意図があったらしくもあります。つまり社会主義革命におけるデモクラシーの意味ということですが、すぐに病に倒れ、コミンテルンはそこまで至らずに、むしろもとの急進主義(19世紀のマルクス主義)に後退する気配でした。24年の5回大会は、トロツキー派とルクセンブルクの流れ、ルカーチやコルシュらを攻撃する大会になったのです。

この揺れは、日本の運動がよく理解しうるところではありませんでした。しかし山川均(ロシア革命およびレーニンについての、不十分ながら最初の思想紹介者だった)は、急進主義から統一戦線方針への転換を知っていくらかの示唆を得たようです。彼らの運動の観念的少数者集団というあり方の批判、残存するサンディカリズム批判の必要についてです。22年に彼は左派の運動の「方向転換」を提唱し、「大衆へ」、「政治闘争へ」と呼びかけました。

ついで山川は、政治闘争の形態として、被圧迫社会諸集団(全無産階級)の合法的大衆政党、「協同戦線党」を提案します。労働者集団をはじめさまざまな社会集団、それらがそれぞれに権利と政治的自由のために行っている諸運動、それらすべてを結集しうる党です。それは、近代日本の社会的発展、資本主義の成長のなかでの諸集団の自己主張と運動。こういうものが作る政治的・社会的対向の、その流れの幅いっぱいの結集によって、国民的規模の多数派結成が展望されるものでした。

そして考えてみると、ここに集まるべき諸運動は、前に述べたように、天皇制が設定した価値の枠組みを越えて、諸集団が自立的に追求しはじめた自己形成の姿です。そうすると「協同戦線党」は、天皇制的国民一体に対抗する新しい自立的な社会的共同の意味を持つのであって、つまり迂回的な反天皇制闘争であり得たのです

ところが山川均自身は、この運動構想が、国民社会の変革においても反天皇制においても、持つかもしれない意味を、よく自覚していなかった、と思われます。彼の持ち合わせる19世紀の古い「マルクス主義」からすれば、プロレタリアート以外の社会集団が、社会主義に至る過程の本質的主体であることはありえない。協同戦線党にそれらを結集するのは、プロレタリアートがその階級意識をもって「内面指導」するため、ということになるでしょう。また、天皇制をなくせばそこには純粋資本主義社会が生まれるはずなのです。本来ブルジョアジーの任務である反天皇制をプロレタリアートがやるとすれば、それは社会的内容をもたない、たんなる天皇制権力への突撃ということになろう。そんな無駄で危険なことはできない。

山川均には、一面で現実的感覚があって、それが彼に協同戦線党という形を選ばせたのですが、それは組織形態としては自由主義的統一戦線にならざるをえず、彼の内面の「階級意識」と矛盾しあっていたわけです。また「大逆事件」を経験してきた山川に、天皇制への敵意と憎悪がなかったはずはない。しかし彼の「理論」では、それとの闘いをプロレタリアートの課題として説明できませんでした。

20年代半ばになると、左派活動家と山川との間には溝ができてくるのですが、その一因はこのことにあったでしょう。左派活動家たちにも、われわれの革命にとって天皇制は敵だ、という直感は当然あったでしょう。しかしなぜそうなのか、天皇制に対してどうすればよいのか、これはわからない。山川とこの点同じですが、しかし彼らは師匠格の山川のところに聞きに行きます。満足な答えは得られなかったはずですが、このとき多分山川は、自分もわからないんだ、と率直に告げることをしていません。はぐらかされた人びとに不満が残ったでしょう。

しかもより大きな溝が別のこと、協同戦線党問題で生じました。この党についてのさきに述べた矛盾が現実化するのです。この党は、諸運動を結集するために自由主義的(妥協的)統一戦線の形をとるが、左派はここで自分たちの「階級精神」を通したがる。

25年、労働総同盟で左右対立が激化し、左派が分裂して日本労働組合評議会を作る。これは共産党系の「自前」の組織、大いに息昂揚して、大衆運動への「階級精神」の発信元にんります。協同戦線党(労働農民党と命名されている)にも抗争は波及し、結局これも左派の攻勢によって分裂する。この過程で山川は苦悩します。もともと党の産みの親であり、他方ではもともと左派活動家に「階級精神」を教え込んだ先生である。しかし左派活動家はこの板ばさみに同情しない。山川への不満は深まります。「どうも山川さん、態度が曖昧だ……」

こうして山川均は、共産党系左派においては「没落」するのですが、私には、山川をこれだけで片づけてよいという気にはどうもなれない。何度も言うように、彼の思想には矛盾があるのですが、そのはざまで、本来プロレタリアートに対して二流とされる社会集団について重要なかかわりをもつことがあった。その一例、朝鮮人問題に関することをここでつけ加えさせて下さい。

協同戦線党結成過程でのことですが、その綱領を作る相談中、山川は、朝鮮人労働者が非圧迫民族に属するゆえにもつ独自な要求を綱領に入れるよう提案しました。ところが、山川自身がある文章のなかで証言しているのですが、左派ー共産党系がこれに対して否定的だったようなのです。その論拠。朝鮮人の教育・職業上の権利というスローガンに反対。朝鮮が植民地である現状のもとでの権利要求は、その現状を承認したことになるから。また資本家の方がすでに低賃金の彼らを雇って「内地」労働者を駆逐しつつあるのだから、これ以上彼らの職業上の権利を要求しなくてもよい。朝鮮人の低賃金は一般に彼らが無能力だからだ。民族・性を問わぬ賃金平等のスローガンは、プロレタリアートのあいだでは不平等は撤廃されているのだから必要なし。

左派の、一知半解の公式主義を「素朴な」ナショナリズムで色あげしたようなこの思想に対して、ともかくもコミンテルンの公式を採用させるために山川が苦労した、というわけです。

本来、社会主議運動の課題の一つは、一般社会の差別構造を自分たちの運動で克服することにありますが、この例は、遂に一般社会のあり方が運動内に移転してこれを支配している状況、活動家が自分たちのなかの差別構造に無感覚な状況を示しています。ここでの公式主義は、プロレタリアートはもともと、ナショナリズムの社会で被支配であるがゆえにそのナショナリズムからきよめられている、責任がない、と考えるところにあるます。一方山川は、公式ではそうかもしれないが、現実のプロレタリアートはやはり自分が染まっている「国民性」を克服しなければならないと知っている。彼の現実感覚とはこのことです。現代の私たちも、自らの運動のなかの差別意識批判を通じて社会一般の差別構造との闘いに前進できる、ということがよくあります。山川の思想は案外現代的なのです。

天皇制問題、福本和夫、コミンテルン

話を戻しますが、山川の教えに左派活動家が満足できないとすると、彼らはコミンテルンに指針を求めるかもしれません。そしてコミンテルンの方も指導者意識を持っているし、世界的な運動経験を集積して、それなりに権威もある「公式」も持っている。しかしそれをすぐに日本に応用できるか。日本側の理解力がそれに届くか。またコミンテルンが日本の事情をどの程度わかっているか。そこにズレが生ずる可能性は大きいし、実際そうなりました。最大の問題、天皇制に例をとってみましょう。

東アジアにおける戦争と反革命が日本から発し、その原動力が天皇制国家にあることを、コミンテルンはよく認識しています。また日本の政治・社会構造からして、革命戦略の眼目を天皇制廃止におくべきだと考えます。ところがその天皇制がどのようなものなのか、それがよくわからないのです。判断の材料はロシアの経験に求められました。そこでの専制権力、ツァーリズムから類推で、やはり先制権力と見える天皇制を理解しようとしたのです。ここにすでにズレがあります。古い絶対主義的専制権力で国民との融合の微弱なツァーリズムに対して、天皇制は、いでたちは古く、専制的国家権力の頭に坐っているが、ともかく近代国民国家の君主、国民の内面に食い込むことができています。

もう一つ、ロシアの場合、19世紀を通して国民的課題として反ツァーリズムが存在し、プロレタリアートが国民的指導力として立とうとするとき、この伝統を継ぐことは自然だったでしょう。ところが日本にはそういう運動はなく、歴史からなんらかの反天皇制のイメージを引き出すことはできません。敵であることははっきりしていても、では何をどうすれば反天皇制になるのか、そこで迷っているのです。

このズレについて、共産党発足時ロシアに派遣された際、ブハーリンと長時間話し合った荒畑寒村が回顧しています。ブハーリンは荒畑のためらいに、はじめて運動に立つものの気おくれを感じて、勇気を出してやれと励ましたでしょう。荒畑の方は、自分たちのためらいが何であるかを表現し、伝えることばを見出せないでいるのです。このすれちがいを、何年かのち、やはりロシアに行った鍋山貞親がくり返したようです。

左派勢力が、いろいろな問題について山川からもコミンテルンからも納得のいく説明を得られず、不満がつのっているとき、問題への解答になりそうな発言をもって現れてきたのが福本和夫でした。

福本和夫は、ヨーロッパ留学から帰ったばかりの学者で、運動の世界が知らない名前、突然現れたのですが、彼の提出した考えはすぐに、マルクス主義、ことに左派の界隈に異常な関心をまきおこしたのです。当時「これがマルクス主義だ」と日本で考えられていた思想、弁証法的方法を欠く公式的唯物史観と剰余価値論を主要内容とする山川仁や河上肇の思想とはかなり異質な、新鮮な香りが感じられるものだったからです。

福本の言うところでは、プロレタリアートの階級意識は、労・資の対抗関係から出発するが、しかし経済に止まらぬ政治やイデオロギーに至る全社会関係、全社会・政治にわたる対抗関係の認識の上に構築される、社会の全体性の意識であること、この社会構成の全体的認識は、全社会変革の諸契機を必然的に含むわけで、だから、この社会の構成と変革とは単純な反映関係に立つものではなく、変革的行動を通じて社会構成の全体的認識は達せられる。この一貫した認識に立つプロレタリアートが現社会変革の主体となるのだ。

つまりこれは、前に見た19世紀の経済決定論的・反映論的「マルクス主義」を批判する、20世紀マルクス主義にたつものです。実際福本は、ドイツでこの新傾向の担い手に数えられるG・ルカーチやC・コルシュと交流し、学んできたのでした。だからそれは、当時の日本マルクス主義の常識から見て、異常な新しさを感じさせたのです。そして、この社会の全体的構成のなかにとらえられる専制権力と、それを認識・変革する主体としてのプロレタリアートを福本が言うとき、人びとはそこに天皇制と反天皇制闘争の含意を感じたし、また社会変革過程を一貫して担う組織について言われると、協同戦線党で山川に感じた不満も解消するようであった。「階級精神」を大衆政党に求めるのがまちがいだったのだ。一貫した精神で大衆の全運動過程を「指導」する党(つまり共産党)をまず固く結晶させるのだ。

だから福本和夫という人は、20世紀マルクス主義と日本の運動とをつなぐ位置にあったのであり、彼の発言がまきおこした「福本旋風」は、新しい思想に対して日本に生じた小さな反応の姿だったことになります。

ところが福本和夫の発言は、日本の労働運動・人民運動を大きく変革・発展させる力にはなりませんでした。それは、彼の理論が具体的・現実的にどう言う政治・運動に表現されるべきなのか、福本本人と運動勢力とがなにか共通の理解に達することがなかったからです。福本和夫は運動経験皆無の人、しかもマルクス主義思想界で権威になりたいという思考も働いてか、文章が難解、人にわかるように書く気持ちが薄い人です。それにそもそも、自分が新しい思想と日本をつなぐ重大な位置にあるという自覚が欠けていた。一方運動の側は、以前からの運動の形・感覚で福本の論を受け止めるほかなく、しかもこちらも構成主義的で、福本の、多くは抽象的な言々句々を昔からのセクト的・観念的運動にそのまま結びつけるから、両々相まって奇妙な現象が続出し(当時「福本主義」などと呼ばれた)、運動は混乱しました。福本の理論の影響が深かったのは26年から27年、日本の中国政策が転機を迎える(27年、山東出兵)ということでも、経済の不安定のなかで労働・農民運動が激化することでも、重要な時期でしたが、左派勢力の対抗力はむしろ弱まったのです。

この状況を見てコミンテルンが収拾に乗り出します。山川・福本の指導を退け、「正しい」党建設方針を示し、日本軍国主義・天皇制との系統的闘争を指示しました(27年テーゼ)。福本を退けることは、彼の思想がコミンテルンにとっての異端、ルカーチ・コルシュに連なっていることからも重要だったのです。

新しい方針が適切であったかどうかはしばらくおくとして、そもかくそれで再出発した共産党でしたが、権力側が直ちにその出端を叩きます。28年3・15、29年4・16両検挙事件。共産主義運動の骨格が砕かれ、以降1945年まで回復できませんでした。運動形成にいくらか希望が見えたとき、機を逸せずに行うこうした予防反革命は権力側のお手のもので、かつての大逆事件がそうでした。いずれ、1930年代、「人民戦線事件」についてお話しすることになります。

「日本ナショナリズム研究会」第11回および12回(2026.05.15, 2026.06.19 於文京区民センター)の、伊藤さんによる書き起こしです。今後も連載でお届けしていく予定です。どうぞお楽しみに。

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