日本ナショナリズム研究会
「万邦に対峙する」の国家目標 10
伊藤晃
19世紀—20世紀の「世界の大勢」
「大正デモクラシー」と呼ばれる時代、そこでの自由主義の思想分岐について見てきました。これは日本だけのことではなく、世界の状況に背景があったと私は思うのです。吉野作造は自分の立場が「世界の大勢」(英・米的自由主義の勝利ということですが)を表現していると考えていました。しかし現実に存在した「世界の大勢」は吉野の見るように単純なものだったか。吉野の見る「大勢」のウラにもう一つの「大勢」があったことをのちに見ますが、その前に、自由主義そのものが世界的に大きな変化を要求されていたのではないか。このことについてここで考えておきたいのです。そこでしばらく日本から話が離れますが、ご辛抱ください。
ヨーロッパの19世紀前半は、フランス革命への受動的対応の時代、国民国家の形成、また人民闘争と君主権力との対抗・妥協の構造としての立憲主義の時代ですが、その場合、人民という立場を自由主義が表現していた、といえると思います。自由・平等・人権など普遍的価値とされるものが必ずしも人民一般に普遍的に実現されていたのではない。人民の参政権にしても、現実の代議政治は、その主体が私有財産に裏付けをもつ理性の保持者とされるエリートであった。人民一般はむしろ愚民、激情に走り、ときに暴民化する非理性的存在として扱われています。参政権の拡大、普通選挙への推移のなかでさえも、まずは自分たちの代表を選ぶに足る「良識」があればよいとされる。これは吉野作造にも見られた考えであることを前にふれました。自由主義とは標準的にはこういうもので、つまりデモクラシー(demos の kratia 人民が統治主体である政治)ではないのです。
19世紀ヨーロッパ自由主義とその変化
集団的主体形成と自己主張の増大
19世後半に、この状況に変化が生じます。1848年革命を境に君主権力はヨーロッパ史の後景に退いていく感がありますが、同時に自由主義が大きな変化を余儀なくされることになります。その背景として、資本主義の支配のなかで進行した社会の大変化、人民諸集団、ことに労働者集団の動きの活発化があります。
19世紀前半、資本主義経済は若々しい成長期ですが、労働者はそこでは、なんらかの主体性を持つというよりは単なる資本主義の生産要素、労働力として市場で商品取引される対象にすぎない。無権利で、賃金は彼らの労働力としての再生産に必要な最低限、失業・傷病・老齢を何の保障もなく運命として迎えざるを得ない使い捨ての存在でありました。しかしその苦しさのなかで労働者は無数の反抗と相互扶助の経験を自らの組織に結実させはじめ(労働組合、協同組合)、その権利を主張し、資本主義の強制する法則性に対抗します。1930年代ころイギリスに広がったチャーティスト運動は、労働者が政治的権利を持つ国民社会の資格ある構成員であることの自己主張、やがて労働者の政党も現れる。こうなると労働者集団は、自由主義にとっても、ただの愚民として自己に従属的な者共とみなすわけにはいかなくなるのです。
もう一つの問題。資本主義は、世界的にも各国内でも強い旧社会変革力をもつ体制です。旧社会にどんどん侵入し、そこで長い間、ある意味で安定していた従属社会集団の動揺・分解をうながす。しかしそれは半面、これら従属諸集団を停滞から呼び覚まし、脱皮・向上への意欲を刺激することでもあり得ました。封建小農にとって、広い商品経済に投げ込まれることは、没落の危機である半面、新しい条件を生かした上向への機会でもある。下層女性は、家族結合のゆるみ、自身の賃労働者化のなかで、苦痛も増えるけれども、女性全般にかつての小世界への束縛は弱まり、その法的・社会的権利、自由な個としての解放、つまり歴史的な男・女の支配・従属構造への批判の条件は増すでしょう。また世界的には多くの地域が資本主義大国の植民地・従属国化しますが、これらの解放・独立への願望は、諸民族の歴史的生命力の再生を国民国家に向けて結実させてく方向へ進むでしょう。
これらの諸運動は、労働者集団の運動より時期はおくれるし、古い構造からの解放ということで自由主義が運動理念を与えるように見えることはありましたが、結局は自由主義の懐の中でそれぞれの問題を解決することに限界が感じられることになるでしょう。
さらにこの時期には、自由主義が旧社会・旧思想に対して、新思想としての自己主張する場と考えてきた市民社会の諸装置、たとえば家族・学校・宗教・道徳などが、かえって自由主義に対して新思想が批判・対抗するイデオロギー対立の場になります。自由主義家族はやはりそれなりに父権的家族、家族員束縛と女の無権利の場であることも多いのです。資本主義社会は大衆教育を要求しますが、そこでの人間とその能力形成の基準は何だろうか。自由主義社会における教会は本当に万人の神の前での平等を実現しているか。19世紀イギリス、ヴィクトリア時代の道徳は、支配と差別を内面にもって、いまでも欺瞞的道徳の例として引かれることがあります。
つまり19世紀半ばには完成されたとみえたヨーロッパ市民社会、自由主義を柱とする市民社会、吉野作造らがそこに自国改革のモデルを見ようとしたものが、この世紀の後半には組みかえを要求されはじめた、ということです。いま見たように、それを促進したのは、主体化しはじめた人民諸集団、これらは支配集団・支配体制への、たんなる受動的で激情的な反発行動のくり返しに止まらない、持続的・集団的な意志と行動、意識性と組織性を育てていきます。もしこれらの諸集団の運動が相互交渉、相互批判を経てある社会的連鎖を作るなら、これはかつて自由主義が君主権力に対して主張したものより一段高い共和主義に向かうかもしれません。つまり demos の自己統治、デモクラシーです。
この人民が切り開いた新しい社会的事実、これらを旧国家はもちろん抱擁できませんが、自由主義もまた、その生まれながらの形においては包容できないでしょう。もしそれを望むなら、自分がかつて普遍的なものとして社会に示した諸価値、たとえば平等が、新しい時代においてはそれまでの意味では普遍的でありえず、人民諸集団の現実・運動をくぐることで新しい具体性を増し、意味変化を起こしている状況を自ら認めなければならないでしょう。たとえば、かつて「平等」は、女性の個としての解放の問題に気づかないでも普遍的価値でありえた。いまはそれでは通らないだろうと。
自由主義は、人民的現実を根拠とする新しい政治、人民を愚民ならざる政治主体として承認する政治、つまりデモクラシーへの接近・融合に向かわなければならないでしょう。自由主義の政治形態、議会主義も大きく変わらなければならない。普通選挙が一般化してくるのはその第一歩なのです。そして政党は、名望家政党から大衆政党の方向へ向かい、また人民諸集団の主張・要求を取り入れて政治綱領を組みかえるだろう。実際イギリス自由党は19世紀末—20世紀初頭にそういう動きを見せました。
そしてドイツでビスマルクが社会立法のいくつか(健康保険、老齢年金など)を実現したのは、自由主義政治によりも、自分の手中の国家に、人民的現実問題の解決過程を抱擁させようとする考えだったでしょう(日本での福田徳三の発言はこのことを頭においていたはずです)。ドイツ国家も、また自由主義のイギリス国家も、それぞれの形で階級国家だったのが、いまやそれぞれの形で人民的現実との妥協、主導権争奪の場たる「社会国家」を展望する如き一歩を踏み出した、ということだと思います。
そういうわけですから、ここでは日本の吉野作造に戻りますと、彼の自由主義は、新しい時代の人民的現実への見識をかなり含んでいたとはいえ、根本に「選良」主体の議会主義があった点など、デモクラシーへのためらいがある。彼が拠りどころとした「世界の大勢」は現実の世界と相当のズレがあったということでしょう。彼は時代認識をさらに一新して批判者たちと向き合うことで、彼らを克服する方向をみつけられたのだと思います。それはその後1920年代に変わらず思想的リーダーであるためにも必要なことでした。この時期、前にもちょっと言いましたが、吉野の見た「世界の大勢」のウラにもう一つの「世界の大勢」があり、日本の現実政治はこれに即応して動くことで、吉野らの政治思想を追い越そうとするからです。そしてもう少し深く見れば、表・裏、二つの「世界の大勢」の傍らに実はさらにもう一つの「大勢」、民族解放運動の前進がもたらす、将来に開けた「大勢」があり、これらのものの作り出す渦の中で、日本の国家批判思想は混迷することになるからです。この段階のことを私は、次々回くらいからお話しすることになるはずです。
19世紀マルクス主義 vs 20世紀マルクス主義
自由主義は19世紀後半、新時代の社会的変化によってデモクラシーへの接近・融合を要求されるのですが、同じ時代、同じ社会変化が、自由主義への批判思想、社会主義思想にも大きな変化を要求することになるのです。しかもこれも、デモクラシーとの関係にかかわるのです。これは次回あたりお話しする日本の社会主義思想、その天皇制国家批判の失敗を考察する上で重要です。そこでこのことについてもここでお話ししておきます。引きつづきヨーロッパの話です。
社会主義は資本主義の私有財産制、その人間搾取を否定して生産を社会化しようというのだから、その政治形態としてはもちろん人民による政治、デモクラシーを予想することになるでしょう。しかし19世紀半ばまでの資本主義の成長時代、社会主義運動が資本主義変革の思想を人民、ことに労働者に結合することは困難でした。私はこれからマルクス主義に起きたことを中心にお話しするのですが、まずそのマルクス、彼にしても、資本主義を構造的矛盾関係として捉える彼の方法からして、労働者集団がその矛盾によって主体的な形成に進む根拠を示し得たにしても、その根拠を実際の変革に実現する運動過程を予言できたわけではありません。マルクスの後継者たちが、「マルクス主義」をもっぱら社会構成に関する説明の理論として扱い、社会変革過程を社会構成の必然的な反映としてとらえる経済決定論的思考に傾いたのはやむを得ないことだったでしょう。
この状況を変化させたのは、19世紀後半に至る人民諸集団の動き、自由主義にデモクラシーへの接近を要求した、その同じ動きだと思います。1890年ころ、マルクス派の有力理論家であったE・ベルンシュタインが自陣営に向けて重大な問題提起をしました。マルクス理論が提出した重要命題が時代の変化の中ですでに有効性を失ったのではないかと。これに対してマルクス主義主流をもって任ずるK・カウンツキーらが、右派修正主義の理論だと正面から反撃します。
この論争、ベルンシュタインの方が少数劣性と見えましたが、時代状況からすればこちらの方が分が良かったのではないかと私には思われます。
ベルンシュタインの主張は多面にわたっていて、私には賛成できないこともありますが、最重要点は次の2点です。
⑴資本主義が発展すればその矛盾も増大し、それがプロレタリアートの意識性・組織性をも成長させ、つまり革命階級として高めるはずではなかったか。ところが資本主義は発展したけれども、その中でプロレタリアートは革命階級へと収束するよりは自由に分散した意識へ発散しつつあるのではないか。
⑵資本主義は旧社会に浸透し、これを自己の姿に合わせて変革する。旧社会の諸身分、諸集団も分解されて、やがて社会全体が労・資対立の構造へ単純化されるはずではなかったか。しかし現実はそうなっているか。小農民、小営業など、依然として生命力を保って再生産されつづけているではないか。
この2点は、事実として反論しにくかったのではないでしょうか。そして私が重要だと思うのは、主観的にはベルンシュタインに反対しながら、実際上これらの認識を同じくするところから、左派のなかに新しい思考が生じたことです。それは、上記の2点を裏返せばつぎのような問題認識になるところから来るのす。
⑴プロレタリアートの階級的主体形成過程を、経済過程(直接の労・資対抗の場)の反映として考え尽くせないとして、それなら政治過程・イデオロギー過程を含む社会の全生活過程で考えよ、ということにならないか。
⑵資本主義の成長のなかでも旧社会の諸集団が必ずしも急速に解体しないとすれば、プロレタリアートは自己の進める社会主義革命の過程において、なお生命力をもつこれら諸集団となんらかの関係をもつことになる。この関係をどのように作るべきなのか。
左派マルクス主義の試み
これはマルクスの思考を積極的に前へ進めよ、ということなのですが、実際、このように考えた左派リーダーがいるのです。たとえばレーニンですが、この人の広く読まれた著書に『何をなすべきか』というのがあります。このなかで彼は「組合主義的政治意識」に「社会主義的政治意識」を対置しています。前者は労・資の直接的対立のなかで作られる意識、後者は政治・イデオロギー過程を含む社会の全生活過程に起きる諸事象、そこでのプロレタリアートの運動経験、他の社会諸集団との関係、これらのなかから構築されてくる社会の全体的認識です。プロレタリアートの階級意識とはこの後者のことである、とレーニンは考えているのです。またレーニンは来るべきロシア革命が、「労働者農民の革命的民主主義的独裁」を通じて進行するだろうとしました。小農が自身の向上の希望に立ちながら、ツァーリズムはもちろん資本主義にも対抗して労働者と協力する革命の一時期を考えているわけです。これは農民国ロシアの特殊性があろうけれども、もう少し広い世界的意味もある、と私は思います。
ローザ・ルクセンブルクが現代プロレタリアートの新しい行動形態として「大衆ストライキ」を重視し、これは社会主義的課題と民主主義的課題がプロレタリアートの意識においておのずから融合するときに生ずる、としたのにも、アントニオ・グラムシが、プロレタリアートの緒部分やさまざまな社会集団間の相互交渉・相互批判関係をプロレタリアートの階級意識化過程の本質的契機として重視したらしく思えるのにも、G・ルカーチがプロレタリアートの階級意識を、社会の全生活過程において構築される全体性的社会認識と考えているのにも、それぞれが生きた国の事情による違いはありながらも、みな共通の思考が感じられます。
ことにグラムシには、主流マルクス主義(これを19世紀マルクス主義と呼んでおきます)の経済決定論的思考への批判が明確だったと思います。マルクス『経済学批判』によく知られた次の一節があります。「一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないうちは崩壊することは決してなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることは決してない」(訳文は岩波文庫版による)。これを決定論的にとらえる主流の解釈に対して、多分グラムシはこれを再解釈しようとしたのです。資本主義勢力は自体制のなかで生産力発展の余地を現実に拡げてみせることに全力を挙げるだろう。批判勢力はこれと戦う運動を首尾一貫させ、普遍化して新しい社会創設の方向を示すことで、そのための条件が客観的にも存在していると証明しようとするだろう。この対抗が実際に20世紀を通じて展開されたことを私たちは知っています(結果としていまのところ体制側が優勢ですが)。
つまりこの人びとは、19世紀マルクス主義が、資本の搾取と抑圧、その直接の支えと目される国家権力、これらと労働者集団との直接の対向過程から労働者階級意識を説明したのに対して、この過程に意識形成の根拠は求めながらも、その根拠が実際に人びとの意識、社会主義革命運動に実現されてくる場を、労働者集団など人民諸集団が生き、相互に関係しあい、またいろいろな体制側の機構と向きあう社会の全体構造に見たことになります。社会の変革主体は当然そのなかに生まれます。変革過程は、資本主義の矛盾の爆発、この危機を待っての一気の変革であるよりは、権力の移行をそのどこかにはさんだ、一連の変革行動の連鎖、諸集団の多くの行動から成る共同の変革の歴史過程になりそうです(そうでないと、成立する権力に民主的性格が伴わない恐れがある)。相互にことなる諸集団が、専制者による上からの統一や自由主義による調停に頼ることなく、自立的な共同をナショナルなスケールで作ることができるか。労働者集団はそこで最大の勢力であろうが、指導勢力であることを約束されているわけではない。
この人民共同の歴史的変革過程は、つまり民主主義的過程なのです。労働者集団はそこでもっとも民主主義的な集団として自己形成することを要求される。そしてマルクス主義はこの労働者集団の理論として脱皮することを要求される。このマルクス主義を私は20世紀マルクス主義と呼んでおきます(この20世紀マルクス主義はまもなく挫折し、大規模な19世紀マルクス主義への退行が起こります。これはスターリンが世界マルクス主義の権威の地位についたことが一つの原因でしょう)。
ずっと前に戻って、私は19世紀に生じた社会的変化が自由主義のデモクラシーへの接近を促した、と言いました。そして実は、ベルンシュタインが見たのも、その同じ変化だったのです。これはマルクス主義がデモクラシー的変革過程を把握できる理論へ脱皮するよう要求することになりました。そしてこれも前に見たことですが、日本で社会主義者山川均は、吉野作造自由主義の不徹底・矛盾を強く批判しました。彼は新しい時代の社会的事実を自由主義が抱擁できないことを言い、社会主義的立場への飛躍の必要を暗示したのでした。しかし次の回あたりで見ることですが、山川の社会主義もまた、新しい時代への適応力を欠くものでした。彼のマルクス主義は19世紀マルクス主義に止まっていたのです。
ただし、このように言ったからといって、私は自由主義とマルクス主義が同じデモクラシー思想に収束するものだとは考えません(ペルンシュタイン本人にはそういう傾向がちょっとあったとも思われますが)。両者はあれこれのデモクラシー的課題をめぐって指導力を争う、という関係になるはずです。
それがたとえば日本の場合、天皇制をめぐって起きることになる条件があったのです。「万邦に対峙する」国家目標の下に国民の全生活過程を呑み込み、国民諸集団のそれぞれに民族・国家にとっての価値を与えて「居るべきところに居させ」、そこに作られる国民一体を権力的に強制する天皇制。次回私は、この構造にほころびが見えてきたことをお話しします。自分たちに与えられてきた位置と自分たちの現実との間にズレが感じられる。諸集団が自己の運命を切り開く自主的行動に向かい始めるとき、それらにかかわり、それらの間に自立的な社会的共同を作り出して、天皇制的国民一体を弛緩させること、このデモクラシー的課題に吉野作造流自由主義、あるいは政治世界に新参の社会主義運動はこたえられるか。このことを検討してみたいと思います。
「日本ナショナリズム研究会」第10回(2026.04.17 於文京区民センター)の、伊藤さんによる書き起こしです。今後も連載でお届けしていく予定です。どうぞお楽しみに。
