上坂類
長崎ではとりあえず「平和」と冠をかぶせておけば、まあたいがいのものは受け入れられる雰囲気があり、つい最近あった大きなイベントも「ながさきピース文化祭2025」と名付けられていた。
正式には、「第40回国民文化祭、第25回全国障害者芸術・文化祭」のことである。2025年9月14日に開会し、11月30日までの日程で開催されている。
佐世保市で開かれたこの開会式に、天皇・皇后が出席した。
最近では「四大行幸啓」という言葉があるそうだ。天皇・皇后が行幸啓に出かける四大イベントのことで、国民文化祭と全国障害者芸術・文化祭がこの一角に入ってきたのは最も遅く、令和天皇の時代になってからだという。他の三つは、このメディアの読者ならよく知っていることだとは思うが、「全国植樹祭」「国民体育大会(いまの呼び名は国民スポーツ大会=国スポ)」「全国豊かな海づくり大会」である。(参考:高森明勅「昭和の2大行幸啓から平成の3大行幸啓、令和の4大行幸啓へ」https://www.a-takamori.com/post/230603)
天皇・皇后による「ながさきピース文化祭」開会式の出席は、それ自体はただのルーティーンだが、今回の長崎県訪問は、天皇・皇后による「先の大戦」(←ヘンな言い方!)をめぐる一連の旅の中に位置付けられてもいる。経緯を年表風にまとめるとこうなる。
2025年4月7日 硫黄島(東京都小笠原村)訪問
6月4〜5日 沖縄訪問
6月19〜20日 広島訪問
7月8日 モンゴル訪問(抑留中に死亡した日本人の慰霊碑訪問、遺族との懇談)
9月12〜14日 長崎訪問
10月23日 東京都慰霊堂(墨田区、東京大空襲の犠牲者慰霊)への供花
各種メディアでは、現在の上皇が平成天皇(明仁)であった時代の1995年の「慰霊の旅」と、まだ名づけられていない今回の一連の旅の対比が強調された。
明仁は、昭和天皇とちがって開戦と戦争の継続、降伏決断の遅れに責任を持たないが、1933年生まれなので戦争を知っている世代ではある。だから、終戦50年を機に全国の戦争犠牲者のもとを明仁が訪れ慰める旅では、犠牲者たちと「同じ時代を生きた」という連帯感を少なくとも表面上は演出することが可能だった。
しかし、1960年生れの令和天皇(徳仁)と1963年生まれであるその妻・雅子(皇后)はいずれも「戦争を知らない世代」であり、旅の行先は似たようなものであっても、懇談相手との「同時代感」を打ち出すことは必ずしもできない。
この関連で、今回の旅に天皇・皇后が「愛子さまを同行させることに強くこだわった」というくだりが報道に頻出することに注目しておきたい。愛子は今回、両親の沖縄訪問と長崎訪問に同行した。
つまり、今年の一連の旅では「戦争体験の次世代への継承」が強く意識されていたということだ。
沖縄で天皇・皇后と愛子の3人は、国立沖縄戦没者墓苑での供花や、学童疎開船「対馬丸」慰霊碑への訪問だけではなく、沖縄戦体験について継承している20〜30代の「語り部」とも懇談している。
長崎での天皇・皇后と愛子の滞在については、次のように簡単にまとめておく。
9月12日(金)、天皇・皇后と愛子の3人が長崎入り。爆心地公園で供花をし、原爆資料館を見学した。その後、長崎のいわゆる「被爆者4団体」を代表する4人に加え、被爆体験の伝承活動をしている若い2人と懇談した。
被爆者のある参加者は「国民の象徴とされる方が平和について考え行動されるのは、尊敬の念にたえない」と語り、また別の参加者は「長いこと原爆の仕事をして、それが無駄でなかったと思って涙が出た。被爆者にとって最高の喜び」と感激した(『長崎新聞』9月13日)。すっかり心をつかまれてしまったようだ。
活動について愛子から質問されたという、若者の方のある参加者は「同世代の活動に注目してもらい、うれしかった」と取材に答えている(『西日本新聞』9月13日)。
同じ12日の夜には、長崎県庁に5000人の市民が集まる「ちょうちん奉迎」が実施された(長崎市での提灯奉迎の開催は、現在の上皇夫妻が全国植樹祭のために長崎訪問した1990年以来とのこと)。
参加者が天皇一家の滞在するホテルに向かって提灯を振ると、ホテルの窓で提灯のあかりが3つ揺れるという、なかなかよくできた演出だったようだ(ひとつの「社会科見学」として見にいっとけばよかったかな、と少し後悔している)。ちょうちん奉迎に参加したある40代女性の感想——「両陛下と一緒に平和を願い、原爆犠牲者を追悼したいと思って参加した。長崎に来られるのはうれしい。私たちも原爆を忘れてはいけないと改めて実感した」(『西日本新聞』9月13日)。
翌13日、天皇・皇后と愛子は恵の丘原爆ホームを訪問して被爆者8人と懇談。ここで愛子は帰京し、天皇・皇后は長崎県美術館で開催中の「全国障がい者作品展」を鑑賞し、出品者3人と交流した。
14日には佐世保市で「ながさきピース文化祭2025」が開幕し、開会式に天皇・皇后が参加した。この開会式では、核兵器廃絶を訴える署名を毎年国連に届ける活動などをしている「高校生平和大使」を務める長崎の高校生2人が、自らの思いを発表している。
このように、2001年生まれの愛子を軸として、平和活動を行う若者をここに絡ませるというひとつの形が出来上がっている。中学生の時に修学旅行で広島訪問した愛子は、卒業文集に「世界の平和を願って」と題する作文を寄せ、「唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要がある」と書いていたという(『読売新聞』6月18日)。いかにも長崎や広島の子どもたちが書きそうな内容で、愛子とこうした子どもらがシンクロするのは目に見えている。
ただ、「戦争体験の継承」に特に愛子を活用していく動きは、おそらく最近始まったばかりのことではないか。少なくとも私の身近では、「天皇陛下や愛子さまがそう言ってるんだから、被爆体験を受け継いでいくことは大事だよね」みたいな論理はまだ聞いたことがない。そうなりだしたらちょっと怖いな、という気はする。
権力サイドにとっての肝は、この動きを「戦争/被爆体験の継承」だけにとどめておく、というところにある。「戦争/被爆体験の継承」といったものに意味があるとすれば、核兵器をなくしていく政治的意思とそれがセットになっていなければならないが、権力側はこのリンクを切りたいわけだ。
もちろん、皇族には政治的権能がないから、いくら皇族が戦争体験を引き継いでいくことの大事さを国民に訴えたところで、同時に「核兵器を廃絶することが大事だ」みたいな政治的発言ができるはずもないし、また、させてもならない。今回の天皇・皇后の長崎訪問でも、被爆者との懇談の際に、昨冬の日本被団協によるノーベル平和賞受賞をめぐる話題も出たようだが、伝えられるところでは、天皇は、「受賞されましたね」というようなごく当たり前の事実確認的な発言しかしていないようだ。「祝意」を前面に出した、という感じではないし、「核兵器廃絶を天皇・皇后が主張している」という印象は巧妙に回避されている。
日本政府の核政策への直接的影響を巧妙に回避する形で、愛子らによる「体験の次世代への継承」だけが強調されていくことになるのだろう。
他方で、右傾化した政治に対して、「ピース」な天皇を対置して牽制するという中道左派・リベラル派のやり口が、特に安倍政権の誕生以降目立ってきた。令和天皇や愛子、佳子、悠仁らの時代になっても、また同じようなことを言い出す人が出てくるのではないかと思うと、今から少々うんざりした気分になっている。本当に「ピース」を訴えたいなら、別に天皇一家の権威など借りなくてもいいと私は思うのだが。
