土方美雄
中曽根首相による「靖国公式参拝」への道 その6
私は、その1983年の「ヤスクニ・レポート」を、以下のように、まとめた。
「信教の自由」だけでは闘えない
私たち(靖国問題研究会)が昨年、今年と2回にわたって「戦没者追悼の日」と靖国公式参拝を認めない8・15市民行動を呼びかけた背景には、靖国問題がその重要性にもかかわらず、一部の宗教者の闘いにしかなっていないということがあった。その点について、真宗太谷派のある活動家は、私に、「靖国問題は宗教者から見ると政治問題と見えるのに対し、宗教者以外の市民からは宗教問題と見える。いわばその両者のエア・ポケットになっているところに、靖国問題の難しさがある」と語ったことがある。
それに加えて、反靖国の闘いは必然的に、国家神道=天皇制イデオロギーとの闘いとならざるを得ない。靖国神社は明らかに軍事施設そのものであり、それは侵略を「聖戦」と美化し、侵略戦争を遂行し得る、いいかえれば、天皇のために死ねる軍隊をつくり出すイデオロギー的支柱となってきたし、現在もまたそうなりつつある。
靖国神社の公的復権がたくらまれたのが、60年代後半から70年代初頭にかけて、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争が泥沼化し、日本がそれへの加担を深めていった時期に対応することが、何よりもそれを物語っている。靖国神社の完全な公的復権=国営化とは、すなわち、あらゆる宗教の上に、いわば「超宗教の宗教」として同神社が君臨することを意味し、それは戦前の国家神道の復活に他ならない。「信教の自由」という観点のみでは、ヤスクニ闘争をたたかえない理由がここにあるのではないか・・。
8月18日、岩手県民会館で、岩手・栃木・愛媛の各玉串料訴訟と箕面の忠魂碑訴訟を闘う原告団、支援会が中心となって、靖国訴訟全国連絡会が結成されたことは、反撃の第一歩となろう。
靖国問題研究会は、反靖国闘争の担い手であったキリスト者や真宗太谷派の方を、積極的に、勉強会の講師にお招きしたり、また、キリスト者が毎月1回、上野駅から九段までの、いわゆる「靖国の道」を、歩き続ける月例デモに、毎回、参加したりしていたので、その後、様々な運動をご一緒することになる、小田原紀雄さんなどからは、当時、「信教の自由」派と、決めつけられていた。その「信教の自由」派たる靖問研が、初めて、「信教の自由」だけでは闘えないということを結論として掲げたので、このヤスクニ・レポートは、とても強く、私の記憶に、残っている。
次の、ヤスクニ・レポートは、翌年の『新地平』84年7月号に、掲載された。
83年7月の中曽根首相の公式参拝「合憲」根拠づけ指示を受けて、自民党政調会内閣部会内の靖国問題小委員会が11月14日、「合憲」見解をまとめ、それが今年(84年)の4月13日の総務会決定で、正式な自民党見解となった。その総務会決定を受けたかたちで、政府による見直し作業がこの6月から開始されようとしている。そして、その当面の焦点が第3回目の「戦没者を追悼し平和を祈念する日」となる今年の8・15であることは間違いない。
本稿では、自民党見解が出されるまでの経過、見解の内容と批判、見解が出されて以降のさまざまな動きというふうに時間の流れにそって、順次見ていくことにしたいが、その前に大ざっぱなスケッチを試みておこう。
靖国公式参拝の流れ
靖国法案がはじめて国会に上程されたのが69年のことである。この時期はちょうど、65年の日韓条約締結を画期として、日本帝国主義がアジアへの本格的な再侵略に乗り出した時期にあたる。侵略にむけた国内体制の再編・強化の精神的支柱として天皇制・天皇制イデオロギーの攻撃的前面化がたくらまれ、67年には「建国記念の日」として紀元節が復活するなど、矢継ぎ早の反動攻撃が続いた。そのような中で、靖国法案は日本遺族会を中心に準備され、69年の初上程以降、74年まで毎年上程ー廃案をくり返すのであるが、75年を境に、全く国会には上程されなくなった。
確かにキリスト者を中心に、宗教者による粘り強い反対運動が展開されたことは事実であるが、そこに推進派の明確な方針転換を見てとることができる。すなわち、靖国法案の最大の弱点は憲法との関係で、同神社を国営化しようとすれば「三大根幹」(伝統の神道祭式、神社のたたずまい、名称)の変更が当然必要になってくるという点にある。しかし、それでは靖国神社が靖国神社ではなくなってしまう。改憲が必要だが、まだその条件は整っていない。そこで推進派は方針を転換し、早急な立法化より、むしろ地方での草の根的な運動の蓄積により全体的な情勢の右傾化をつくり出し、その上にたって中央での再突破をはかる・・という道をあえて選ぶのである。
そして、そのスローガンも「靖国国家護持」から「靖国公式参拝実現」へと変える。
以下、続く。