反靖国〜その過去・現在・未来〜(30)

土方美雄

中曽根首相による「靖国公式参拝」への道その2

(前号からの続き)

この「(自民党政調会内閣部会靖国神社問題小委員会)見解」は、まず津地鎮祭の最高裁判決を引用し、総理大臣の靖国神社参拝が憲法20条の「宗教的活動」には当たらないと断じ、次のように述べている。

靖国神社は国家のために生命を捧げた全国の戦没者を祭るところである。戦没者の遺族のみならず、多くの国民がここを訪れる。それはもっぱら、戦没者が国家のために尊い生命を捧げたという事実に対し、感謝の敬意を表わし、みたまを慰め、訪れる者の決意を表明するなどの意図に出るものである。

宗教的な表現が注意深く避けられ(〈非宗教化〉され)ているのがわかるであろう。これでは、靖国神社参拝の行為が、全く世俗的意図によって貫かれていることになり、かつての靖国神社法案の初期の段階で、青木一男氏が「英霊の合祀奉斎という本体を除いて靖国神社に何が残るであろうか」という問いが再び問われるだろう。しかし、もちろん、それはカムフラージュのための非宗教的表現に過ぎない。こういったからといって「訪れる」者が鳥居をくぐらないわけではないし、柏手拝礼しないわけではない。それを津地鎮祭判決の「目的・効果」に照らしても、津市体育館起工式と宗教法人靖国神社参拝を同列に論ずることがまちがいであることはいうまでもない。「詳説」においては、これらの非宗教的表現を総括して、公務員の慰霊と表敬のための参拝は、「宗教問題をこえた国民の心情の発露である」とも述べる。われわれは靖国問題を「神社非宗教」の論理によって考察してきたが、ここに至って、当事者自身の口から、靖国神社参拝の意図するものが、宗教問題を「こえる」と説明することによって反って全国民の宗教問題とする道であることが告げられているのである。

なお、右文中の「訪れる者の決意」とは、その文脈からして、戦死者のあとに続く(戦死の)覚悟であることは明白である。奥野氏は、「見解」をめぐる新聞紙上の討論で、「命を落とした隊員のみたま」が靖国神社に祭られる日のことに言及している(「論壇」『朝日』1984/5/17)。1年後の85年7月27日、中曽根首相は自民党軽井沢セミナーで、「どこの国にも国のために倒れた人に感謝をささげる場所がある、それは当然である、さもなくば、だれが国に命をささげるか」と語った。今や、国民の戦死そのものが、公然と政治的文脈の中で語られているのである。

このような自民党の「見解」を受けて、中曽根首相は政府見解の見直しにとりかかり、84年8月、官房長官の下に私的諮問機関「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)を発足させ、1年後の85年8月9日、同懇談会は靖国神社公式参拝「合憲」の報告書を提出した。83年の「合憲」検討指示から85年の「合憲」報告まで、すべてが結論を先取りした強引な押しの一手、民主主義の仮面をかぶったファッショ的やらせの政治であった。「見解」が靖国小委員長の作文であったように、「靖国懇」報告書も事務局主導の官僚作文であったことは、非公開委員会の審議状況に関する新聞報道からも、推測することができる。

84年8月3日、第1回会合で林敬三座長(日本赤十字社社長)と林修三座長代理(元内閣法制局長)を選び、月1、2回ペースで、委員会討議を進めることが決められた。まず、靖国神社の沿革、閣僚の参拝の経緯などについての勉強会のあと、本格討議に入り、事務局側から第7回に「論点(仮案)」、第10回に「論点(第2次仮案)」、第11回に「論点(第3次仮案)」を提示、どんどんと事が運ばれたが、事務局が予定していた論点取りまとめは難航し、早くも「夏までの結論ムリ」(『読売』1985/2/24)と予想される事態ととなった。それは委員の間でも靖国神社が宗教団体であるとする見方が大勢を占め、津判決を閣僚の参拝問題にそのまま当てはめることが困難になってきたからである。

ここにおいて、事務局が強力にリーダーシップを発揮しはじめた。それは、討議の重大な方向転換を暗示するものであった。3月3日の『日本経済新聞』は、その転機を次のように報道した。

従来の政府統一見解では「首相、閣僚が靖国神社に公式参拝することをどう受け止めているのか」という社会通念に対する判断を避けており、その結果、「単に法律論だけから、『違憲の疑いなしとしない』との判断をしてきたきらいがあった」(政府筋)との指摘が出ている。

以下、続きます。

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