大嘗祭は宗教儀式——裁判所による宗教性否定の問題【即位・大嘗祭違憲訴訟控訴審 陳述書】

*この文章は、即位・大嘗祭違憲訴訟の原告・控訴人である立石章三さんが裁判所に提出された「陳述書」です。2024年11月12日、この陳述書をもとに高裁で陳述もなされました。訴訟の会と筆者の承諾を得て掲載します。裁判に関する詳細は即位・大嘗祭違憲訴訟の会サイトでご確認ください。

立石章三

私はキリスト教プロテスタントの一教派である日本キリスト改革派教会の牧師です。私は、本件「即位礼・大嘗祭」に対して強い危機感を持って違憲訴訟の控訴人となりました。

即位礼・大嘗祭は、戦前の登極令に定めた式次第にほぼ則って行われました。これは、国が特定の宗教の宗教儀式に関与したこと、およびこれに国費を支出したことで、明らかに憲法の政教分離原則に反し、かつ、控訴人の信教の自由、思想・良心の自由に対する重大な侵害行為に該当し、国家神道の復活をもたらす行為です。

「大嘗祭」は主催者の見解によれば、天皇が即位後、新しく収穫された米などを天照大神とすべての神々に供え、みずからも食べ、国と国民の安寧や五穀豊穣などを祈る祭祀(儀式)であるとされます。その内容については秘事とされてきましたが、国学院大学神道文化学部名誉教授、岡田荘司説によれば、大嘗祭とは新帝が天照大神を初めて迎え、神膳供進と共食儀礼を中心とする祭祀で、天照大神の神威を高めることにより、天皇がその神威を享受するというものです。

また岡田荘司氏は、大嘗祭においては稲だけでなく、古代の庶民の非常食であった粟の饗膳も行われることに着目して、大嘗祭は民生の安定と農業を妨げる自然災害の予防を祈念するものであるとし、「大嘗祭の本義は、稲や粟など農耕の収穫を感謝し、国土に起こる災害現象に対する予防のため、山や川の自然が鎮まるように祈念するもの」であり、「国家と国民の安寧を祈念する国家最高の祭祀」との見解を示しています。

神道は啓示宗教のような「教義」を持たないと自称しますが、自然のあらゆる現象の中に、神的な人格性を認める汎神論宗教でありそのような見解もそれ自体教義とよぶべきものです。神道には神社神道、教派神道、民族神道などがありますが、その宗教性を最も結晶させたものが皇室神道であると言えます。しかしこれは明治以降に人為的に作られた宗教であり、明治以前には天皇の葬式は仏式で行われており、神道独自の形式になったのは明治天皇からでした。

宮中祭祀や伊勢神宮の祭祀では、仏教の関与が除去されていることから、神祇信仰は仏教と異なる宗教システムとして自覚されながら並存していました。明治時代には、神道国教化を実現するために、神仏分離が行われたことから見れば、明治以後の神道は人為的に作られた宗教であると言えます。

私はキリスト教会の牧師です。神道の宗教観は、筆者のような啓示宗教としてのキリスト教信仰者から見るならば、全くの汎神論であり受け容れることができません。なぜなら筆者の信仰によれば、自然は天地万物を創造した創造主による被造物に過ぎず、そこに人格的神聖を認めることは創造主に対する冒涜であるからです。私がそのような宗教観を持ったり、それに基づいて宗教活動や宗教行事をすることは自由であり権利です。また、民間人が神道の宗教観を持ち、あるいはこれに基づいて宗教儀式を行うことは自由であり権利です。このことは異なる宗教観に立つ私自身、当然に認めています。これに対し、さまざまな宗教観を持つ国民から構成される国家が、特定の宗教に関与し、ましてや国家が我々国民・納税者の税金を用いて、特定の宗教行事を催したり、そのために国費を支出することは、憲法20 条、および 89 条の明確な違反行為です。

大日本帝国憲法は第 28 條において「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と明記したように、当時の一般国民の信教の自由は制限付きでした。さらに明治政府は公の宗教としての国家神道と個人の宗教とを区別し、神道を個々の宗教の上位に位置付け、「神社は宗教にあらず」として特別扱いし、神道に対する批評、批判を禁止しました。

新しい日本国憲法においては、国民の信教の自由は無条件に認められるものとなりましたが、政府は再び皇室神道を神道の上位に、そして諸宗教の最上位に位置すべく、大嘗祭において天皇を、国民の代表であるとされる総理大臣の立ち位置より上に設け、総理大臣に万歳を叫ばせるなど、皇室神道を祭り上げる演出を、莫大な国家予算を用いて行いました。

これは、私が奉職するキリスト教会の礼拝、すなわち個人の宗教よりも、大嘗祭の方が、公の宗教として上位の宗教儀式であると国民を洗脳させる行為です。このような政府の行いは、素朴な宗教心情を持つ日本人に一定の価値観を植え付けさせる行為ですから、私は日本人の一牧師として、はなはだ不利益を被っています。クリスマスやイースターのような、キリスト教の重要な行事の日と、皇室神道行事が重なるようなことがあれば、国民、特に公務員は神道行事に自主的と称して動員され、キリスト教は不利益を被ります。

昭和天皇は 1989 年 1 月 7 日に死去しました。臨終が近づいてから臨終に至る日々が長く、この間、祝い事の自粛が促され、死去の日がいつになるか不明でしたので、キリスト教界やミッションスクールなどでは、12 月 25 日のクリスマス祝会を行うべきかどうか躊躇させられるという過剰反応が起こりました。またパチンコ業界などの遊戯施設では、死去のニュースを見て、それまで開けていた店のシャッターをあわてて下ろすなどの悲喜劇が報道されました。

さて、大嘗祭を執行した神職の司式者と、神道の信者の関係者に、私は深い同情心を持つものです。なぜなら、当人は神道の信仰心によって心を込め、皇室宗教の最も中心的な大嘗祭の儀式と祈りを行ったと思われる。しかるに、裁判所は、「大嘗祭は、天皇即位という世俗的な出来事の際に行われる伝統儀式という側面が強いというべきである。」と断定し、大嘗祭が、新しく皇位に即いた天皇が神性を獲得するための極めて重要な儀式であり、宗教性が極めて強いものであることを無視している。その前提のもとに裁判所は、京都府知事らの大嘗祭関連儀式への参列が宗教行事への参加であり明らかな政教分離原則違反となって違憲であるとする原告の主張を何ら根拠も示さずに退けている(京都地裁 2024 年 2 月 7 日判決)。

また、2002 年 7 月 11 日、最高裁は次のように判決しました。すなわち「福岡県知事が大嘗祭に参列した行為は、大嘗祭が皇位継承の際に通常行われてきた皇室の伝統儀式であること、参列が公職にある者の社会的儀礼として天皇の即位に祝意を表する目的で行われたことなど、判示の事情の下においては、憲法 20 条 3 項に違反しない」。

これは神道のプロを自任され、心からの信仰心をもって大嘗祭を司式されたであろう神職の方々に対して、著しく無礼な判決であると言わざるを得ず、彼らの信仰を踏みにじった判決と言わざるを得ません。裁判所が宗教行事についてその宗教性を否定、あるいは無視して、社会的儀礼であると判断することは、裁判所の権限を越えており、宗教儀式についてその宗教性について国家機関である裁判所が独自の判断をなすこと自体、政教分離原則の趣旨に沿わないものです。

*初出:『即位・大嘗祭違憲訴訟の会 NEWS』 第24号、2024/12/11)

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