駒込武(京都大学教員)
今日のタイトルは、「台湾植民地支配責任を問い直す--帝国の狭間で翻弄されてきた人々の声に耳を傾ける」とさせていただきました。時間制限の中でどこまで話せるかわかりませんが、この集会の主催者の名前にある沖縄・安保・天皇制の問題に関連することを中心にお話させていただきます。
最初に自己紹介ですが、『世界史の中の台湾植民地支配』(岩波書店)という本を、2015年に出しました。お値段はたったの15000円、消費税を入れて16500円です。誰が買うんだ?という感じです(笑)。でも、すでに1000人近くの方に買っていただいていて、感謝に堪えません。900ページもあるので重たくて持ってくることもできませんでした。この本は、主に日本の植民地時代の台湾の歴史を、日本と台湾と、それから台湾に宣教師を送ったイギリスの動向を踏まえながら分析したものです。
3年前(2021年)には、呉叡人(ご えいじん)さんという台湾の政治学者の本を翻訳して出版しました。『台湾、あるいは孤立無援の島の思想--民主主義とナショナリズムのディレンマを越えて』(みすず書房)です。これは戦後の台湾の経験、その中で生み出された思想はどういうものかということについて書かれたものです。呉叡人さんは歴史学者でもあり、最近(2023年11月)には日本語で『フォルモサ・イデオロギー--台湾ナショナリズムの勃興 1895-1945』(みすず書房)という本も出されました。
これからのお話は、当然、私自身の歴史観であると同時に、呉叡人さんという、私とちょうど同世代の台湾人の学者の考える台湾の歴史の見方というものを踏まえたお話とさせていただきます。
私は、京都や大阪でもときどき市民の学習会などに招かれて話すことがありますが、台湾の話をすることはなかなか難しいと感じます。おそらくここにいらっしゃるかなりの方は、「台湾は中国の一部だ」と思われているかと思います。そういう方には、神経を逆なでする、あるいは、「本当かな?」と思わせる話もあるかと思います。しかし、少なくとも歴史についての話は、仮説的に信じて聞いていただきたいと思います。そのうえで最終的な見解については、「おかしい」と思われることがあれば、後ほどの議論の中で提起していただければと思います。
まず、今日の会の主題にも関わりますが、「台湾は中国の一部だ」とされる方に私が訊きたいのは、では「沖縄は日本の一部ですか」ということです。これについては、沖縄出身の方もそうでない方も、いろいろな立場はありえますが、いや、ちょっと複雑な問題だな、と思われるのではないでしょうか。沖縄県としてとうぜん日本の一部ではないか、という想いもあるのではないかと思います。しかし、例えば琉球独立運動ということがいま行なわれていること、その人たちは、琉球は日本の一部ではない、日本に併合されたのだと思っている、そうしたこともご存知でしょう。
「沖縄は日本の一部ですか」という問いについて、すくなくとも簡単な「正解」があるのではないということ、誰がそれを決めるのかということも含めて、難しい問題だと考えていただけると思います。
台湾について言うと、日中共同声明(1972年)で台湾は中国の一部であると言ったではないか、という方もおられます。しかし例えば、日米安保条約(1960年)で岸信介首相とアイゼンハワー米大統領が米軍の沖縄駐留権を認めた、だから沖縄の人の意志は関係なく、それが正しい、とにかく従うべきだと言えるだろうか。少なくともそう考える余地はあるわけです。あるいは、ちょっと話は飛びますが、「ウクライナはロシアの一部」だろうか、プーチン大統領は、「ロシアの一部である。ウクライナ人はロシア民族である」というような言い方をしています。ですが、ロシアの侵攻に抵抗する人々は「ウクライナ民族」と名乗っている。そうした例からも、少なくともそんなに単純ではないということをお分かりいただけると思います。
非常にざっくりした抽象的な話になってしまいますが、国境の範囲や「同胞」として意識する人々の範囲は歴史の中で大きく変わります。変わらないと考えるのは政治的な中心に近い人たちだけと言っていいと思います。私の友人で、ポーランド史を研究している小山哲さんという人が、ウクライナの歴史について講演しているのを聞いたことがあります。ウクライナの地図を、15,16,17,18,19世紀とずっと見ると、そのあたりの境界線というのは複雑に変わっているわけです。モスクワがロシアにあるということは変わらないとしても、国境というのは、歴史の中で大きく変動する。そうした変動の中で「同胞」として意識する人も変わっていく。そのことが、話の大前提です。
もう一つ重要な要素は、近代という時代の特徴です。日本ならば、近代とはざっくり明治維新以降を指します。国境が線として画定され、民族的な帰属意識が重要とされるのは、近代という時代においてのことです。みなさんも、日本史においてペリー来航とかその前後にいろいろな交渉があって、国境線の画定があったということをご存知だと思います。逆にいうと、近代以前においては、国境は、「面」であったという言い方もされます。あの辺に境界があるという意識こそあるものの、はっきりとした「線」としては存在しないことがあたりまえだった。それを「線」として画定していったのが近代です。
近代という時代において、民族的な帰属が重要な位置を占めるのは、例えば江戸時代においては、日本では「くに」と言えば、例えば土佐の国であったり、信濃の国というのが、「くに」という言葉のイメージです。そのなかで、「日本」という「くに」を意識していたのはごくわずかな人でした。あるいは、意識していたとしても、「日本」という単位は必ずしも重要ではなかった。「信濃の国」のどこそこの生まれだ、先祖はこういう人につながる、さまざまな帰属がある中で、必ずしも「日本人」という帰属が重要な意味を持っていたわけではないのです。
台湾の人々も、近代の時代の中で、植民地支配に抗する経験の中において「台湾人」という意識を育んできたと言ってよいと思います。もっといえば、日本が日清戦争を通じて台湾を支配するまでは、「台湾人」という言葉は、あったとしても、重要な意味がなかった。文京区民はありますが、「文京区人」「文京区民族」とは言いませんよね、区別はあるとしても、それが重要な帰属の意味を持つものとは必ずしも思われないことがあるのです。
大切なことは、台湾は、中国大陸とは異なる歴史的体験を歩んできたということです。それは戦前の日本による植民地支配だけではなく、いわゆる「戦後」という時代においても、台湾と中国大陸が同じ政権の支配下にあったのは、4年間(1945~1949)だけです。それ以降は、大陸は毛沢東の率いる中国共産党、台湾は蒋介石の率いる中国国民党の支配下に置かれます。近代という時代において、ほぼずっと大陸とは異なる歴史的経験を歩んできた。あるいは、外部の支配者によって、歩まされてきた。歴史の特定の時点における中国大陸とのつながりだけをもって、「台湾は中国の一部」という認識は、近代における台湾の歴史的経験を無視ないし軽視するものです。今ここで抽象的にお話しても、「いやそうは言っても…」と思われるかもしれませんが、「台湾は中国の一部である」と、歴史的に本当に言えるだろうかという問いがあるということを、頭に置いておいていただければと思います。
台湾をめぐる言論状況は、今、とてもねじれてしまっています。自民党の右翼的政治家が「親台湾」的なことを言い、他方で、リベラル、左派と言われる人たちは、沖縄のことは当然頭に置いているけれど、あまり台湾のことを話さない、考えようとしない。「台湾有事」とかって右翼的政治家のねつ造だよねという説明を聞くと安心して、頭の外に追いやってしまう。そうしたある種の分断のようなものがあるように思われます。そうであるだけに、私は、台湾のことを考えるとき、たえず沖縄のことと合わせて論じていくことにしたい、そうしないと、話がねじれてしまうと考えています。
この地図(図1)は、『石垣島で台湾を歩く』(国永美智子編、沖縄タイムス社)という本から取らせていただいたものです。石垣島から台北までは273キロです。石垣島から那覇市までは411キロ、石垣島から東京までは2000キロ、北京までは1900キロです。台北の方が那覇よりも近い。東京も北京もとてつもなく遠い。今ではなくなっていますが、かつては、石垣島から台湾の基隆という港町まで「飛龍」という客船が走っていました。私も何度か乗りましたが、台湾にあっという間に着いてしまう。朝出ると夕方には着いて「あ、こんなに近いんだ」と感じます。
それにもかかわらず、台湾でははるか遠くの北京の言葉が話され、石垣島ではこれまたはるか遠くの東京の言葉が話されているわけです。それは、あたりまえのようなことですが、あたりまえではない。近代において国家の働きを通じてつくられた事態なのです。
琉球・沖縄と台湾をいくつかの転換点に即してみていきたいと思います(図2)。国家的な属性で色分けしているんですが、沖縄にしても台湾にしても、色が変わっている。台湾も沖縄も、近代において、国家的な帰属の変化が、複数回経験されているわけです。ここが重要な点です。東京や京都あたりに住んでいると、自分の所属する国家がある日を境として突然変わって、「国語」とされる言葉も、文字も変わってしまうという事態はなかなか想像できないからです。
台湾はまず、日本による台湾領有(1895年)が境となります。そして、台湾の中国への返還(1945年)という出来事。それから、日本と中華民国の断交(1972年)前後。この三つのポイントに絞って、お話します。
▪️日本による台湾領有(1895年)
日本が台湾を植民地化していた半世紀のことは、話し出すととても長くなります。京都大学での講義ではそれだけで15回の授業をしているのですが、きょうは、そこは15分で通り過ぎます。全体の大きなターニングポイントとしてのみ扱うことをお許しください。
1895年4月17日に締結された日清講和条約で、「台湾全島及其ノ附属諸島嶼」および「澎湖列島」を、日本に割譲することが定められました。日本の歴史教育では、こういう条約の文言が「割譲」された側にとってどういう意味を持ったかということへの想像力があまりにも弱いと思います。「割譲」された人々にとって、「割譲」はどういうものであったのか。
台湾に住んでいる人にとっては、もちろん、なんの相談もなく、頭越しに決められたことです。もう少し言えば、日清戦争の最中に、台湾はほとんど戦場になっていませんでした。戦争が終了する間際に日本海軍が澎湖島の一部を占領しますが、日清戦争は朝鮮半島をめぐる争いですから、台湾に住んでいる人々は自分たちには関係のない戦争だと思っていた。ところが、いきなり、「台湾は日本領になる」となった。それを伝え聞いた人々が驚いて、「台湾民主国」として独立宣言をします。
これは、清朝が、台湾を日本にあげると言ったけれど、いやいや、私たちは「独立国」なので清朝が何を言おうと関係ありません、という立場でなされているものです。もちろん、台湾に当時「国」としての実態があったわけではありません。そこにはさまざまな思惑がありました。現地の人にとっては日本の支配下に、なぜ私たちが置かれなければならないのか。という驚きと怒り、そして清朝への恨みがあった。
当時は、「三国干渉」が問題になっていたので、清朝の側では欧米列強が干渉してくれれば、台湾を手放さなくても済むという打算がありました。清朝の全権であった李鴻章は、当時の首相である伊藤博文に、電文で「台湾の人民は既に独立を宣言したるに付き、清国政府は該人民に対しては最早管轄権を有せざる」と伝えています。
清国は、「台湾民主国は関係ない国です」ということを宣言しているわけです。これは、李鴻章としては、台湾民主国の抵抗を一面では正当化する、下関条約における台湾「割譲」の規定に関わらず、台湾の人々が戦うことを可能にするという意味がありました。一方では、後は野となれ山となれと、台湾の人の方で何とかしろと、見捨てる意味もありました。ちなみに図3の黄色い虎の旗は「台湾民主国国旗」です。台湾独自の通貨の発行やパスポートの発行など、急ごしらえのでしたが、「国」としての体裁を整える試みもなされています。
そうした形で、「割譲」された側の人々は抵抗しようとしました。そこに、5月29日、日本軍が台湾島北東部の澳底に上陸し、6月3日に基隆を占領し、台湾民主国の行政上のトップであった人物は大陸に逃亡します。
図4は、基隆を占領したときの写真です。台湾の占領は、スムーズに平和的に行われたかのように思っている人もいるかと思いますが、まさに軍事的な占領の過程でした。写真の前の方には、手を縛られた捕虜とみえる人が何人も写っています。そして、6月17日に台北で台湾総督府始政式がなされます。
▪️日本軍による台湾征服への抵抗
台湾の北東の基隆の港町に上陸した日本軍は、ここからだんだん南下していきます。そして、最終的に、当時台湾の首都であった台南を占領することになるわけです。この過程で大切なことは、台湾の民衆の義勇軍による抵抗が生じたことです。では「台湾の民衆」とはどういう人たちだったのか。これも少し複雑な話となります。
もともと台湾島に住んでいたのは、マレーポリネシア系とされる先住少数民族でした。台湾というと中国系の漢人、漢族のイメージが強いと思いますが、台湾が清朝(中華帝国)の一部に組み込まれて漢族が台湾に住み始めたのは17世紀以降、日本でいうと江戸時代です。琉球王国が島津によって併合されたのもやはり17世紀です。そういう時代ですね。
清代の台湾には先住少数民族と漢族系の住民と、平埔族(漢族と通婚関係を結んだ先住民)と呼ばれる住民がいました。漢族系には、福佬系-ざっくりいうと中国大陸の福建省系の人々と、客家系-主に広東省系の人々、がいました。台湾社会において中華帝国の支配というのは、ほんとうに社会の表面を捉えただけで、税金が取れればいい、反乱を起こさなければいいという、それだけです。
では何が起きるかというと、アメリカの西部開拓の歴史における西部劇のように、国家による治安維持がなされていないから、皆が武装している。台湾においても、清朝の支配が徹底していないので、先住民と漢族の福佬系、客家系が、それぞれお互いに武装して戦っていました。それで、そうした人たちが、日本の台湾侵略の中で、初めて一緒に戦い始めるわけです。抵抗の主体は、清国軍兵士よりも漢族系住民の組織した義勇軍、民軍であったと言われます。「人民の多数は、敵抗の精神に富みしこと(婦女も亦戦争に与りて我に抗せり)」という記録があります(川崎三郎『日清戦史』第7巻、博文館、1897年)。日本軍に生活の場が踏みにじられる事態のなかで、男女を問わず、また福佬系漢人、客家系漢人、先住民という違いを問わず、抵抗の中で一緒に戦うようになったというわけです。
単純な類比は避けるべきかもしれませんが、今のウクライナ戦争について、塩川伸明さんというロシア史の専門家が、「ウクライナ人」という意識はどのように誕生したのかを説明した際、ソビエト連邦の支配下の時代に「ウクライナ人」という意識はできた、しかしウクライナに住んでいる人の中でもかなり温度差があり、内部対立があった。「ウクライナ人」というのが、ほんとうに重要な意味を持ち始めたのはロシアの侵攻以来だと説明されています。
この一八九五年の抵抗戦争は、かつて「乙未戦役(いつびせんえき)」と言われていました。「乙未」は干支の一つで、1895年にあたります。近年になって、「台湾郷土防衛戦争」という言い方がされるようになっています。清国軍の兵士もいたけれど、大陸出身の人々には帰るところがあるので、さっさと上海とか南京とかに戻ったわけです。それに対して、ここが生まれ育ったところであって帰るところがない人たちが日本軍と戦った。同時に、自分たちは清国に棄てられた人であると、棄てられた土地に遺された民という「棄地遺民(きちいみん)」の意識を持つわけです。今日に至るまで台湾の人々のあいだにこの「棄地遺民」の意識は深く刻まれていると感じられます。
▪️日清戦争と沖縄
ここで少し沖縄の話をします。沖縄においては、琉球処分が1879年に行われます。そのあとでも、沖縄はあくまでも中国の一部であると、むしろ清国とつながりながら琉球王国の復旧を図ろうとする人々が沖縄社会にはいました。そして、日清戦争が起きたときに、沖縄の人心が非常に動揺することになります。
伊波普猷(いは ふゆう)という、沖縄学の祖と言われる人物が、自分の中学時代の経験を思い出して以下のように書いています。
「八月には日清戦争が突発した。琉球新報は諸見里朝鴻氏を従軍記者として台湾に派遣した。沖縄の人心は非常に動揺した。下火になつてゐた開化党と頑固党との争は再燃した。首里三平等(みひら)の頑固党の連中は、毎月、朔日と十五日とには、百人御物参(もむそおものまいり)といつて、古琉球の大礼服をつけて、弁ケ嶽、円覚寺、弁才天、園比屋武御嶽、観音堂等に参詣し、旧藩王尚泰の健康と支那の勝利とを祈つた」(伊波普猷『伊波普猷選集』中巻、沖縄タイムス社、1970年)。
この伊波普猷は、開化党と頑固党という言い方をしていますが、ここでは「開化党」とは、近代化をいち早く追求するべきだとする人たちで「ヤマト」、すなわち日本に望みをつなぐ。「頑固党」と言われる人たちは清国に望みをつなぐ。そうした人たちの対立が再燃していた。頑固党と言われる人たちが「旧藩王尚泰の健康と支那の勝利とを祈つた」と書いています。ここで、「百人御物参」と書いていますが、琉球の在来の方式にしたがって祈りを捧げる儀式も行われた。
先ほどの文章の続きで、伊波普猷は次のようにも書いています。
「当局者の神経過敏の結果、支那の南洋艦隊が沖縄を襲撃するだらうとの風説が一般に拡つたので、中学師範の生徒はそれぞれ義勇団を組織して、いざ鎌倉といふ時、首里城の沖縄分遣隊の手伝ひをすることにした。私たちは剣を研ぎ弾丸を造つて、九十五、六度の炎天の下で、毎日射撃をしたり、練兵をしたりした。〔…〕支那にいつてゐた沖縄人は大方帰つて来た。中には辮髪して支那服を着けたものもゐた。これらの人たちは母国の土を踏むや否や、監獄に連れて行かれた」。
清国の南洋艦隊が沖縄を襲撃するだろうということで、中学師範の生徒はそれぞれ義勇団を組織して、射撃練習をしていたということですが、これはどういうことでしょうか。もし、当時の清国が、沖縄を自分たちの領土として攻めてきたら、伊波普猷のように「ヤマト」の建てた学校で学んでいる人間は、清国軍と戦うだけではなく、清国に望みをつなぐ琉球の人々(「頑固党」)を撃ち殺す、そうした役割を担っていたということです。
結局は清国の艦隊は沖縄に上陸しませんでした。ただ、戦争中に清国に望みをつないできた人は、戦後戻ってきて「母国(日本)の土を踏むや否や、監獄に連れて行かれた」と書いています。つまり、琉球処分を通じてそれまでの日本と清国に両属する体制から沖縄は日本にもっぱら帰属する体制に変えられたわけですが、実は1895年の日清戦争によって、広い意味での琉球処分が完結することになったわけです。すなわち台湾が植民地化されるとともに、沖縄・琉球の人々の一部の意向を無視して日本への帰属が確固としたものとされたわけです。
この文章からも明らかなように、伊波普猷は、「ヤマト」に望みをつなぐ「開化党」に属していました。ですが、その後、伊波普猷をして大きく幻滅させる展開となることを、後で述べます。
▪️植民地台湾と沖縄
二つ目のポイントとして、「沖縄から台湾へ、台湾から沖縄へ」ということで、台湾が日本の植民地であった時代の、沖縄と台湾との関わりについてお話します。
沖縄から台湾に官吏、人夫、漁師、女中奉公との形で出稼ぎにいった人もたくさんいます。いわゆる日本語、実際には東京語を覚えるのに一番近いのが台湾であるという皮肉なことがあったんですね。他方、台湾からは沖縄に農業移民として出ていったり、炭鉱労働者として出ていった人などもいた。さまざまなつながりがありました。
ですが今日少しだけお話しするのは、教育をめぐる問題です。教育の歴史という点で重要だと思うのは、先ほどの伊波普猷の「思い出」の続きですね。
「三大節の外は容易に顔を見せない児玉〔喜八〕校長が気味の悪い笑ひ方をして、学校にやつて来られた」とあります。
「三大節」というのは年配の方はご存知かと思いますが、戦前の学校儀式が行われた祝日ですね。今日のいわゆる「建国記念日」(2月11日)は当時の言葉でいえば「紀元節」、それから天皇誕生日の「天長節」、そして1月1日。これらの学校儀式以外には学校に姿を見せない校長が、気味の悪い顔をして学校にやってきた、と。そこで何を言うかというと、私は君たちに同情している、君たちは普通語--この場合の「普通語」とは東京の言葉です--さえ完全に使えないくせに英語まで学ばなければいけないなんて気の毒だ、という言い方をして英語科を廃止する方針を示しました。
これに対して怒った学生たちがストライキを起こして退学処分になるということがありました。英語というのは今でもそうですが、良くも悪くも、国家エリートになっていく上で必須の手段なわけですね。だから、英語を学ばなくていいというのは、君たちは国家エリートになれないし、ならなくて良い、と言っているのに等しいわけです。
これに対して伊波普猷らは反対してストライキをしたために、退学処分になります。「喧嘩両成敗」のような形で児玉校長も異動になるのですが、その移動した先が台湾です。その台湾において同じような方針を掲げます。英語など教える必要はないというのは、台湾ではもっと徹底していました。今の伊波普猷の話は中学校の話ですが、台湾では現地に住む台湾の人々による激しい抗議が起きるまで、中学校を設立しようとしなかった。師範学校も設立しようとしませんでした。なぜなら、あくまでも台湾の人々は苦力(クーリー)として働けばいいという考えがあったからです。
小さな『朝日新聞』の記事(「台湾島民の教育」『東京朝日新聞』1896年5月9日付)があります。非常に重要だと思うので紹介します。
台湾を占領した翌年に、台湾の有力者の子どもを日本に留学させようという話がありました。有力者が望んだわけです。でも、そんなことは不要だということになった理由として、次のように書いてあります。
「未開の者に向て俄(にわか)に文明的の教育を施す時は、往々にして其目的を誤る事あり」
台湾とか沖縄とかの「未開」の者に「文明的な教育」なんて不要だと。では、なぜ不要なのか。その本音は、「現に沖縄県人の如き内地に留学し多少文明的の空気を吸ふ時は、忽(たちま)ち琉球独立論などを唱へ、県治の妨害となること少からざる」と書いてあります。
琉球処分の後、沖縄から選抜されて東京に留学した人がいました。たとえば謝花昇(じゃはな のぼる)という名前を聞いたことがあるかもしれません、そうした人物が沖縄に帰ってからヤマト出身の県知事と激しく対立する。そうした人が登場したために、教育を受けると「忽ち琉球独立論などを唱へ、県治の妨害となる」ということでした。したがって台湾人に対しても、そんなに教育をする必要はない、という見解が流布されたわけです。
ただ、まったく教育がなされなかったというわけではありません。一つ、大事なポイントは、ハイレベルな教育機関をなかなか設けようとしなかったということです。台北帝国大学があるではないかと言うかもしれませんが、1920年代末になってようやくできたものである上に、教員はほぼすべて、学生も大多数は日本人でした。台湾人のお金で創設した、日本人のための帝国大学であったと言っても過言ではありません。台湾や沖縄の住民に対して、ハイレベルな教育はできるかぎり避けるというのが第一原則です。
一方、初等教育レベルはさすがに普及しないとまずいということで、現地住民向けの初等学校として公学校を創設した。そこでの教育にかかわる原則とはどのようなものか。一つは日本語を教えるということ。そして、統治者たる日本人の助手として使えるようにすることです。それからもう一つは、天皇・皇族のありがたさを教えること。
天皇・皇族をありがたいなんていっても、多くの台湾人は、写真とかでも天皇・皇后の姿が全然思い浮かばないわけです。戦前のヤマトの学校にはだいたい「御真影」という天皇・皇后の公式肖像写真がありましたが、あれは天皇・皇后の分身ですので、間違って盗まれたりしたら本当に大変なことになって、校長が自殺に追い込まれるような悲劇的なことがたくさんありました。台湾に大事な天皇の分身なんかをやるわけにはいかない、何をされるかわからない、ということで「御真影」はほとんど台湾にはなかった。
台湾占領の過程では、日本軍の近衛師団長だった北白川宮能久(きたしかわのみや よしひさ)親王が台湾で没します。公式な発表では病気で亡くなったと言われていますが、抗日義勇軍が殺したんだという台湾人の伝説もあります。いずれにしてもこの能久親王が台湾人に天皇のありがたさ、さらには日本のありがたさを教えるための材料としてフルに活用されるわけです。
ちなみに、能久親王は、幕末の戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟に担がれた皇族です。つまり皇族なんだけども薩摩・長州ではなく、東北を支持した人なんです。能久親王が日清戦争でも戦場に送られ、日清戦争が終わって間もなく台湾占領戦争に行かされたのも、そういう歴史があるからではないのか。奥羽越列藩同盟のトップになった皇族を処刑するわけにはいかない、生かしておくわけにもいかない、そうしたなかで台湾で死なせて、その死を最大限に利用したという解釈もあるのではないか、と呉佩珍さんという台湾人の研究者が書いています。
台湾の教科書(図5)には、「能久親王様がやってきた」ときには当時は「悪者ども」ばっかりだったが、能久親王がそれを鎮めてくれたと書いています。「悪者」とは抗日義勇軍です。北白川宮能久は死んだあとに台湾神宮の祭神として祀られることになります。
▪️日本植民地支配下における台湾の教育
では、台湾の人々はこのような教育をどのように受け止めたのでしょか。
台湾の教育を考える上で、台湾出身でいち早く東京帝国大学の文学部哲学科を卒業した林茂生(りん もせい)という人物に着目したいと思います。林茂生は私立台南長老教中学というキリスト教系学校の出身で、東京帝大を卒業後に母校・台南長老教中学に戻り、その教務主任(教頭)になりました。この人物は基本的には日本の支配に従順的な体制的なエリートとしての道を歩いていたんですが、およそ1920年代からやっぱりおかしいんではないかと思い始めて、台湾文化協会という抗日運動団体に参加します。
台湾文化協会は、台湾人としての「民族自決」(self-determination)を求める方針を掲げて、具体的には台湾における重要なことは台湾議会を設置して台湾の住民に決めさせろという運動をしました。
林茂生はこうした運動に参加すると同時に、自分の母校・台南長老教中学を台湾の中では唯一、台湾の歴史を教える学校、そして台湾の言葉を教える学校にしていこうとしました。
今、朝鮮学校に対するバッシング・嫌がらせはみなさんご存知と思いますが、日本植民地支配下の台南長老教中学も一種の民族教育の機関という性格を持っていたわけです。抗日運動の関係者にも応援してもらってこの民族教育の場を守り育てようとする運動の中で、この学校を「台湾人の学校」「台湾民衆の教育機関」にしていくのだという宣言を発表しています。
ここで「台湾人」という言葉が使われていることに気をつけてください。先ほどお話ししたとおり、日本による台湾占領まで「台湾人」という言葉はほとんど使われていない言葉でした。使われるとしても重要な意味をもたない言葉でした。ところが、日本人に徹底して殺され差別され侮辱される経験の中で、「日本人」とは異なるものとして「わたしたち台湾人」という言い方が出てくるわけです。それでもまだ漢族系住民の中でのルーツの違いは大きな意味を持っていたし、先住民について言えば「台湾人」の外側と見なされがちだという問題もありました。ですが、少しずつ「台湾人」という言葉が意味を持ち始め、またその示唆する範囲が広がっていく動きが生じるわけです。
その台湾人の学校に対して総督府が求めたのは、神社を参拝しなさいということでした。当時の台湾における教育政策の一つの特徴はハイレベルな教育機関はなるべく作らない、二つ目は日本語を教える、三つ目は神社を参拝させる、ということでした。神社に祀られている神は、台湾占領当時の近衛師団長・北白川宮能久親王でした。神社参拝はいわば服属の儀式であり、学校関係者にとっては、二重三重の意味で受け入れ難い出来事でした。
林茂生はキリスト教徒でしたので、神以外のものは拝まずという点からも神社参拝は受け入れ難いことでした。でも、それだけではない。台湾の在来の信仰として廟を拠点とする独特の民間信仰があるわけです。神社というのはまさに征服者の国教にほかならないわけですから、なぜ参拝しなくてはいけないんだということで参拝に対して抵抗が続いていたところ、1934年に長老教中学排撃運動が起きます。
当時の新聞を見ると、「教育精神を冒涜する長老教中学を否認 台南同志会決起」という新聞記事(図6『台湾日日新報』1934年3月5日)がまず登場します。台南市に住む日本人民間人のつくる団体が、あの学校は許せないということで活動し始めたわけです。同じ記事には「林理事長は不適任」とも書いてあります。この林理事長とは林茂生です。ここに7人の日本人の教師がいましたが、一斉に連抉辞表を出して、こんな学校では日本国民精神の教育はできないと辞めるわけです。ちなみにその中には沖縄出身で、戦後、沖縄で革新系の代議士になる安里積千代という人物も含まれています。
さらに「台南長老中学問題 国体の尊厳を冒涜する 非国民を膺懲せよ 台北郷軍決起」という記事(図6『台南新報』1934年3月9日)があります。「郷軍」というのは在郷軍人会です。今日の集会に来る時、右翼の街宣車がたくさん通っていましたが、まさにああしたことが民間人の資格で行われていたわけです。在郷軍人というのは本当は政治に関わってはいけないとされていたのですが、ここでは政治に介入しているわけです。後ろで手を引いていたのが軍です。
それから「台南長老中学生に日本国民精神殆どなし 恐懼すべく戦慄すべき其内容」という記事(図6『台南新報』1934年4月14日)。これは、突然台南州の役人がその学校を襲って「教育勅語」の全文を書け、なぜ私たちは北白川宮能久親王を神としてたてまつるのかその理由を書け、と言って抜き打ち試験をして、その結果を評価して「日本国民精神殆どなし」「俄然 世論更に沸騰」と書いているわけです。世論を沸騰させているのは新聞記事です。軍から新聞社にお金が流れていたということも、ほぼ確かなことだと言えます。
この事件はどうなるかというと、新聞報道のトーンは一変して「台南長老教中学 更生の途に躍進 校長に内地人選任」(図6『台南新報』1934年5月20日)となります。イギリス人宣教師が校長だったんですが、そのイギリス人宣教師があっさり総督府と手打ちをする。「わかった、神社参拝に反対した台湾人を追い出す。だから学校は潰さないでくれ」と。そうすることによって、林茂生を含めて日本の天皇崇拝に抵抗していた台湾人が追放されるという事態が起きます。
台南長老教中学の生徒たちが神社参拝させられる時の写真が図7です。当たり前のことなんですが、この場合の神社参拝というのは、個人として七五三の参りに行くみたいなものとは全然意味が違うわけですね。日本人への服従と忠誠を誓う儀式でした。
新しく軍人出身の日本人校長が就任して、戦時期にはこの学校からも日本軍兵士に志願する生徒が登場することになります。もはやそうした方法でしか自分を「人間」として認めてもらう道はない、そういう事態にまで追い込まれたと言ってよいと思います。
今の話は本当にダイジェストです。とてつもなくひどく暴力的なことが山ほどありました。雑誌『世界』(2024年1月号)には先住民の武装蜂起である「霧社事件」とそれに対する鎮圧について書きました。「霧社事件」は本当にジェノサイドです。しかし、問題は、そうであるにもかかわらず、おそらく多くの人にとって、「台湾の日本支配はとてつもなく酷いことだった」というイメージがないのではないかということです。もしもそうだとすれば、なぜなのか? この点は台湾の戦後史にかかわります。
▪️台湾の戦後史
大国の中心にいる人々が、勝手に小国あるいは地域の人々の人生を駒としてやりとりする外交は、戦後においても継続してきました。カイロ宣言において、台湾を中華民国に返還するとし、そのカイロ宣言をポツダム宣言が踏襲して、日本がそのポツダム宣言を受諾したので、台湾は中華民国に返還されることになりました。
ただし、台湾が日本に植民地化された時点で、中華民国という国はまだ存在していませんでした。清国しか存在していませんでした。しかもその清国の行政のトップが、「台湾はすでに独立した国だから、私たちはその統治権をもたない」といって見放していた地域でした。その清国の一部だった台湾を日本が領有し、日本が戦争に負けて、台湾は新しく蒋介石総統の下にあった中華民国の領土の一部とされたわけです。1945年のことです。
この1945年から49年までが、台湾が中国大陸と同じ政権の下に統治されていた期間です。このあと、蒋介石が中国大陸における国共内戦に敗れて、中国大陸に中華人民共和国が成立します。1949年のことです。このあと台湾の人々の歴史は、また中国大陸の人々と切り離された形で進むことになります。
まず、1945年の時点の話です。
先ほど登場した林茂生という人物は、台南長老教中学の教頭として神社参拝に反対し、台湾全島を代表する知識人でした。図8は彼が演説する場面の写真です。どういう文脈での演説だったのか。1945年10月25日、「慶祝台湾光復紀念大会」なるものが開催されました。午前中に台湾における日本軍の降伏式典が行われました。午後に、祖国・中国に戻ってめでたい、として「祖国光復」を祝う式典が行われました。青天白日旗というのは中華民国の国旗で、写真の上右側に見えるのがそうです。その隣は孫文の遺影です。
台湾は台湾の人々の意思に関わりなく、中華民国に戻ることになった。林茂生を含めて、またしても頭越しに帰属が変更されたことに大いに戸惑い、どうなるかわからないと思いながらも、中華民国の中で、台湾人独自の歴史的経験にそくして、高度の自治を目指す、という方向で考えていました。
ただし、当時の台湾人はほとんど中国語を喋れませんでした。北京の言葉をベースとして「中国語」なるものができたのは、中華民国が成立したあとです。それよりも前に日本に植民地化されていた台湾では、中国語を学ぶ機会はありませんでした。大陸に留学すれば中国語を学ぶことができましたが、それも厳しく制限されていたので、実際に学べた者はごくわずかでした。
以前、台湾で半年ほど暮らしていたときに、ある日本人の学者が「私たちは植民地の支配者として台湾の人から中国語を奪って申し訳ありませんでした」と台湾の人の前で話しているのを見たことがあります。私はその時、あとで台湾人の学者に怒られました。「あの学者は何もわかっていない。台湾人は中国語なんて喋れなかったんだ。1945年になって初めて一生懸命勉強したんだ。そんな歴史すら知らずに謝って、あいつは一体何を謝っているのだ!?」というわけです。
「祖国」中華民国に戻ったといわれるけれど、たいていの人はその「祖国」の国語を話すことができない。そういう戸惑いがありつつ、中華民国の中で生きようとしたわけです。先ほどの「慶祝台湾光復紀念大会」で林茂生は「台湾省民」--台湾は中華民国のひとつの省ということになりました--の代表として演説しました。このときに、なんとも微妙なことを言っています。
「『光復』がなされたのはかつて『失陥』があったからであり、『失陥』がなされたのは国民に団結がなく、『敵人』につけいる隙を与えたからである」(『民報』1945年10月26日)。
新聞も、1945年の8月15日までは全部日本語で、この日を境に、ほとんどが中国語に変わるわけですが、林茂生は台湾大学の教授になると同時に『民報』という新聞の社長にもなりました。この発言はその『民報』の伝えるところからの引用です。何を言っているかというと、「あなた方は祖国光復を祝うと言っているけれども、台湾を捨てたのはあなた方だろう。祖国光復を祝うのだったら、それを詫びるのが先だろう」という主旨のことを婉曲に言っているのだと思います。中国文を読んでも、微妙にぼかした書き方をしています。ハッキリと言ってしまうと、蒋介石に率いる国民党という新しい統治者との間に亀裂が入ってしまうと配慮したと考えられます。
この時期の台湾の新聞を見ると、日本の植民地支配に対する徹底した告発を見ることができます。
1946年の元旦に「元旦詔書」、いわゆる天皇「人間宣言」が出されます。天皇が「自分は現人神ではない」と神格を否定した詔書です。ただし、「神の裔」(神の血筋を引いている者)であるということは漠然と残しています。日本では「天皇陛下のありがたいお言葉」という反応が出てくるのですが、ほぼ同時に、台湾においてこうした生ぬるい対応への厳しい批判が出されました。
「日本が台湾を統治した50年間はまさに日本「天皇」の「威霊」が大いに発揮された時期であり、我々は日本天皇の荘厳なる「御恩」を満腹になるほど受けてしまった。一例をあげれば、天皇「御尊影」の掲載された新聞に無作法なことをすれば「不敬の罪名」で厳罰を受け、村落の老百姓も逃れることができなかった」(『民報』1946年1月10日)。
『民報』のこの社説では、さらに台湾で没した皇族たる能久親王の神格化にふれて「恥知らずで卑劣で笑うべき」統治理論と批判しました。
46年の10月にはやはり『民報』の社説で日本の戦争責任について論じて、「侵略したのは日本の国民ではなく、日本の軍閥、官僚、財閥と、浪人無頼の徒」というのは「あまりに寛容な論」と批判しました。「日本の軍閥、官僚、財閥などが我が国を侵略し、掠奪するのを許容したのは誰なのか? きわめて少数の例外を除いて、日本の人民自身ではないだろうか? 我々の同胞を侮辱し、我々の民衆に暴行を働いた直接の下手人は、日本の大衆自身ではないだろうか? 試みに日本の人民、あるいは民衆の手を検査してみるがいい。きっと多くの場合、血痕と血生臭い匂いがまだ残っているだろう!」と書いています(『民報』の1946年10月14日)。
戦前の台南長老教中学の神社参拝問題でも、攻撃の前面に立ったのは日本人の民間人でした。そのことを台湾人はしっかりと記憶し、日本による植民地支配を告発する声を挙げていわたけです。では、なぜこうした声が聞こえなくなってしまったのか。それはザックリ言うと、林茂生のような人物が、蒋介石政府によって殺されてしまったからです。
戦後、蒋介石は、台湾総督府に代えて台湾省行政長官公署を設置しました。これは、台湾総督府と同じように、立法権も含む巨大な専制権力を持つ組織でした。中国本土から戦後に移住した「外省人」たちが新たな統治者となり、かつての「本島人」と呼ばれた台湾人は「本省人」と呼ばれ、日本時代と同じように、政治参加を制限されました。つまり、官僚になれない、参政権を制限される、そうした事態が生じます。ただし日本時代と違うのは、日本時代には「私たち台湾人」という意識が芽生えてはいたけれども広がる途上であったのに対して、蒋介石が来たときには、「私たち台湾人」という意識ができていた。さらに、極度のインフレや食糧難、大陸から来た官僚の汚職などが新たな統治者への憤りを増幅させました。そうした事態の中で、蒋介石政府に対する反政府反乱が台湾全島で起きます。
これが2・28事件と呼ばれる出来事です。韓国の光州事件の時のように、国軍の武器を奪って民衆が街を解放する。そうした反乱が起きます。その最中に、平和的に事態を解決するために2・28事件処理委員会が立ち上がり、アメリカ領事館に請願書を出します。この請願書の英訳は先ほどの林茂生がしたとされています。そこには「カイロ宣言がわたしたちを生き地獄(Living Hell)に追いやってしまった」とあります。
カイロ宣言では、台湾の頭ごしに台湾の中国への返還を決めていました。アメリカもカイロ宣言に参加しているので責任をとってほしい。そこで連合国による共同統治を経て台湾独立を求める、といった内容の請願書です。台湾にあったアメリカ領事館はこのままでは台湾人の虐殺が起きると若干の同情のそぶりを見せますが、南京駐在アメリカ大使は、「こんなものは相手にしなくていい。なぜなら台湾は独自の国ではないからだ」と無視します。
それを受けて蒋介石は、台湾の反政府反乱を鎮圧するための援軍を派遣します。この援軍は、アメリカの軍艦に乗って移動したと言われています。そして、反乱の首謀者とみなした台湾人2万人近くを処刑します。街頭での銃殺など見せしめのための処刑をします。反乱を鎮圧したあと戒厳令は一旦解除されますが、1949年に、国共内戦に敗れた中華民国政府が台湾に本拠地を移した際に再び戒厳令をしきました。戒厳令というのは軍事的な必要を憲法を含むあらゆる法規に優先させる仕組みですが、台湾では戒厳令が1987年まで実に40年近くにわたって続くことになりました。
アメリカ領事館宛の請願書を英訳した林茂生も、2・28事件の際に処刑された人物のひとりです。彼は、1946年の夏に息子の林宗義に次のように語ったといいます。
「台湾は一日にしてまた二等国民に戻ってしまった。…不幸なことに戦争の終結から今に至るまで、台湾はほとんど完全に孤立無援の情況にある」(林宗義「我的父親林茂生」胡慧玲編『島嶼愛戀』台北:玉山出版社、1995年)。
最初に紹介した呉叡人さんの著者『台湾、あるいは孤立無援の島の思想』のタイトルにもある「孤立無援」という言葉は、歴史的にはこうした形で使われてきたわけです。
林宗義が林茂生に、「アメリカが助けてくれるんじゃないの」と尋ねた際に、林茂生は、「アメリカが助けてくれるわけはない。アメリカが助けてくれるのは、それがアメリカの利益になることが明確な場合だけだ。そのために十分なお金も人材も、わたしたちの手元にはない」と答えます。
林茂生はまた、特務機関員に連行される前日の晩に「(日本人は)私たちが自分自身を管理し、政治に参与することを意図的に防いだ。さらに不幸なことは、台湾人がただ一種類の政治体制しか知らないことである。それは殖民政府である」と林宗義に言い残しました(林宗義「林茂生與二二八-他的処境與苦悶」陳芳明編『二二八事件学術論文集』台北:前衛出版社、1989年)。この林茂生の言葉は、「植民地支配」とは何かを定義しているとも言えます。
日本の右翼的な人々は、「日本は台湾を近代化してやったのだ。素晴らしいだろう、感謝しろ」という言い方をよくします。しかし、大事なことは、政治に参与する主体であり得たかどうか、ということです。政治的主体であることを徹底的に阻止する、もしも政治的主体であろうとすると排撃する、それが植民地支配なわけです。そして、台湾の人々にとっては、日本の政府も、蒋介石の政府も、植民地政府であったわけです。
林茂生が処刑された際の「罪状」に中には、「米国領事館に接近し、国際的な干渉を企図し、台湾独立を妄想したこと」が挙げられています。
ここで「台湾独立」という言葉は、外来の支配者による暴力にさらされた、孤立無援の人々にとっての、かすかな望みであったことに留意する必要があります。昨今の日本の報道では、「台湾独立」という言葉が、右派的な、凶暴で戦争をもたらす人々という、ネガティブなイメージと結びつけられています。歴史的な理解として、「台湾独立」という言葉は、「アンチ中華人民共和国」という文脈で出てきたものではありません。日本の植民地支配に対するアンチ、さらに、中華民国政府による連続的な植民地化に対するアンチとして、紡がれてきた言葉です。
私は、現実に今の国際情勢で「台湾独立」が可能だとは思いません。また、そうしたことを日本人がとやかく言うべきではないと思っています。ただし、「台湾独立派は、黙っていてくれないか」という論調は日本人の大国意識のあらわれであり、台湾の人々の歴史の中から紡がれてきた想いや思想というものに、無知で無関心な姿勢があらわれているのではないか。このことを一つの問いかけとして提起しておきたいと思います。
林茂生が処刑された同じ年(1947年)に伊波普猷がなくなります。
伊波普猷は琉球王国時代のことに絡めて、蔡温は「同胞が他日奴隷から解放されることを予期して、解放される暁、死骸として発見されないやうに、其時まで彼等が生き得る方法を講ぜざるをえなかつた」と言っています(鹿野政直『沖縄の淵―伊波普猷とその時代』岩波現代文庫、2018年、159頁より重引。原著は1915年)。私は、伊波普猷自身が、沖縄の解放を望みながら、解放された時、自分たちが死骸として発見されないように、と考えていたのではないか、と思います。
さらに亡くなる年(1947年)には、「地球上で帝国主義が終わりを告げるとき、沖縄人は『にが世』から解放されて、『あま世』を楽しみ十分にその個性を生かして、世界の文化に貢献することが出来る」と記します(伊波普猷『沖縄歴史物語』平凡社ライブラリー、1998年、原著は1947年)。
大事だと思うのは、ここで伊波普猷が「帝国主義」という言葉を使っていることです。「帝国主義」というのは世界的な体制です。アメリカ帝国主義のやってきたことは、パレスチナ問題への対応ひとつをとっても大きな問題と思いますが、帝国主義国はお互いに対立したり、駆け引きしたり、場合によっては戦争もしながら、全体としての帝国主義体制を守っていることに留意する必要があります。そうした意味合いをこの伊波普猷の「帝国主義」という言葉から読み取るべきではないかと思っています。
▪️日中共同声明(1972年)の問題点
時間もありませんので時代は飛びますが、1972年の日中共同声明についてお話します。この声明も、私からすると、カイロ宣言と同様に大国間の取引という性格を否応なく備えていると感じられます。この声明では、台湾は中国(中華人民共和国)の一部であるとする中華人民共和国政府の立場を日本政府は「十分理解し、尊重し」という表現をしています。この外交文書特有の曖昧な表現に気をつけるべきだと思います。「中華人民共和国政府の立場」を「十分理解し、尊重」するとしたわけですが、同時に、台湾の人々が「自分たちの運命は自分たちで決めたい」と言っていることを「十分理解し、尊重」することもできます。「十分理解し、尊重」するという表現はそのようなものではないかと私は理解します。
沖縄「返還」が行われた1972年に、日中国交正常化という形で、台湾をめぐる取引が行われて以来、台湾の人々は、蒋介石の率いる中華民国政府だけではなく、台湾問題については中華民国とまったく同様な主張をしてきた中華人民共和国政府との緊張関係に直面することになります。毛沢東の率いる中華人民共和国政府も、蒋介石政府と同様に、台湾人固有の歴史的経験、そこから発する自己決定への思いを否定し、とにかく台湾は領土の一部なのだという対応をしてきたからです。
沖縄で文学批評やジャーナリストとして活躍された川満信一さんは、1972年時点で沖縄の本土復帰などとんでもない、なんで勝手に決めるんだ、と主張すると同時に、中国との国交正常化に対しても、なぜ台湾の人々の固有の歴史的経験をさておいて、大国が勝手に決めるのだ、という趣旨の文章を書いています。
「いったい台湾の民衆は日本に対してどういう見方や感じ方をしているのか。あるいは、台湾独立とか、台湾解放といった思想運動もその内部で熟しつつあるようだが、台湾の民衆は自らの解放と救済をいずれの方向で選び取ろうとしているのだろうか。…このような台湾民衆の屈折した感情や、その苦悩は、自らの意思や選択で自らの歴史を定めていくことを許されず、大国対大国の恣意的な取り決めに従属させられる島孤の少数民の立場として、この沖縄では痛いほどわかるのである。沖縄返還をめぐる日米間の協定が、沖縄の負荷を絶望的なまでに加重したのに比すれば、中国大陸が革命政権のもとで人民の解放を達成しつつあるという点で、根本的に沖縄返還と異なるとしても、やはり台湾民衆の帰属や自立の選択権は基本的に認められなければならない」(川満信一「沖縄における中国認識」『中央公論』1972年2月号)。
大国対大国の恣意的な取り決めに従属させられる、自らの意思や選択で自らの歴史を決めていくことができない。これはまさに、川満さんの実感に由来する言葉だと思います。さらに、中国政府がもっぱら領土問題として台湾を位置づけるならば、それは中国政府がこれまで糾弾してきたはずの「大国主義」路線と変わらないのではないかとして、「もし中国側に大国主義の発想があるなら、日米国家権力へのたたかいとともに、その大国主義路線ともたたかうほかはない」と川満さんは書かれています。
中華人民共和国政府の台湾政策への疑問は、2・28事件の鎮圧過程で処刑された林茂生の息子・林宗義からも提起されています。林宗義は1960年代にカナダに亡命して、台湾人民自決運動を始めました。一緒に自決運動を始めた黄彰輝は、神社参拝問題で林茂生と一緒に台湾長老会教会を追放された牧師・黄俟命の子どもです。彼らは「北京政府」(中華人民共和国政府)に次のように呼びかけます(『Washington Post』May 27, 1975への意見広告)。
「北京政府へ--私たちは、あなた方と共存したい。しかし、強権に屈服することはない。私たちの自決権は、すべての被抑圧者の解放という、あなた方が公言する政策とも一致している。私たちは、あなた方の脅威からも解放されることを望んでいる。台湾人があなた方に統治されることを望むか否かを決するために、台湾における自由な住民投票の結果を受け容れることを求める」。
今日でも、台湾の人は、中華人民共和国に直接的に支配されたことがないのに、なぜ統一を拒絶して台湾独立を求めるのか、という疑問が提起されることがあります。台湾の人々は、必ずしも中華人民共和国への帰属を否定してきたわけではありませんでした。ただ、それを住民投票で、自分たちに決めさせてほしい、なぜならば私たちは独自の歴史的経験を歩まされてきたからだ、と主張してきたのです。そこには、2・28事件の後、中華人民共和国政府に望みを託して大陸に逃れた台湾人--たとえば謝雪紅という台湾共産党のリーダー--が大陸で中国共産党政権により粛清されたというような事実も深く影響しています。
林宗義らの宣言書では、「台北における現体制へ」として、次のように記してもいます。
「台北における現体制へ--現実を受け入れよ、戒厳令を解除せよ、政治犯を解放せよ、台湾人民への権力の平和的な委譲のために自由な総選挙を行え」
ここで告発の対象とされているのは、蒋介石政府です。ですが、台湾を勝手に占領し、植民地支配をしながら、敗戦を迎えるや否や後はどうともなれ式に放り出し、蒋介石政府と友好関係を築いてきた日本人もその告発の対象に含まれていると考えるべきと思います。
▪️現在の台湾への視座
そして今現在はどうなっているのか。私は歴史については一定の確信を持って語りますが、今日の安保問題については、あくまで素人です。そのようなものとしてお聞きください。
現在の中華人民共和国の「国家分裂法」(2005年制定)で、「世界に中国は一つしかなく、大陸と台湾は同じ一つの中国に属しており、中国の主権および領土保全を分割することは許されない」(第2条)と定めています。また、「台湾独立」をめざす勢力が「台湾を中国から切り離す事実をつくり」かねない場合には「非平和的方式その他必要な措置を講じて」国家の主権と領土保全を守ることができる(第8条)、としています。
ここに表れているのは、今まで述べてきたような、民族自決、人民自決といったものを射程の外に置いた、領土的な思考ではないのか、と私は思います。もちろん中華人民共和国政府の人にとっても、近代という時代において、日本に台湾を奪われたことをはじめ、帝国主義列強にいろいろな地域を奪われた屈辱の歴史への無念の想いが当然あると思います。それにしても中華人民共和国が、建国当時に掲げた気高い理想のように、すべての民族、すべての人民の自由と解放を目指しているのだとしたら、台湾の人々の未来は台湾の人々自身が決めるという選択肢は、あり得て良いはずではないかと私は思います。
今の日本の台湾問題をめぐる議論で、蔡英文政権(2024年5月からは頼清徳政権)が軍備を増強してけしからん、といった声がありますが、私はその前に、中華人民共和国政府の「国家分裂法」そのものが、国連憲章に反しているのではないかと思います。武力による威嚇によって、少なくとも事実上独立した国家として認められている地域の政治的自主性を阻んでいるからです。
最初に紹介した呉叡人さんは、「琉球共和国に捧ぐ」という文章のなかで、次のように書いています。
「複数の帝国が対峙する狭間にあって、列強間の境界領域(あるいは緩衝地帯)となった辺境は、前後相次いで、もしくは同時進行で、それぞれ異なる帝国の支配下に組み入れられる運命を長期にわたって経験してきた。こうした地政学的な構造が形成される歴史的過程の中で、この周縁部には琉球、台湾、南北朝鮮、そして香港という5つの辺境における辺境的政治主体がそれぞれ相前後して生まれている」。
「市民社会を足場とする台湾独立運動家は、民族自決、民主、人権、平和、そして環境保護の共通理念に基づき、米軍基地撤廃、琉球人民による運命の自決を支持すると宣言すべきである。同時に、台湾の独立運動家は永世中立を究極の目標として、日米同盟への参入を求めず、中国とも同盟しないことを毅然と宣言すべきである」(呉叡人『台湾、あるいは孤立無援の島の思想--民主主義とナショナリズムのディレンマを超えて』駒込武訳、みすず書房2021年)。
ウクライナ戦争以降は、そうも言ってられないと、呉叡人さんの立場は微妙に変化しているようですが、2016年の時点ではこのように「永世中立」を目指すべきである、日米同盟の参入も求めず、沖縄の人々と連帯したい、そう主張しています。
先に紹介した川満信一は、2017年の座談会でこう語っています。
「アメリカや中国は大陸ご都合主義、そのなかで、韓国で沖縄と同じようにしたたかな経験を負わされてきたのは済州島だ。それから中国方面では台湾、海南島もそう。こうした大陸と大国主義にはさまれた島々の連帯をいかに固めるか。そこから、それぞれの大陸、大国にむかってここは非武装地帯だと主張できる合意の体制をつくれるか。そしてここはアジアの非武装地帯だから、ここにアジア国連本部をもってこい」(森宣雄・冨山一郎・戸邉秀明編『あま世へ--沖縄戦後史の自立にむけて』法政大学出版局、2017年)。
私自身は、どんなに困難ことだとしても、目指すべきところがあるとしたら、ここなのではないかと思います。ただし、今、沖縄の人々は、ある意味では中国に頼らざるを得ないところがある。中国をあからさまに批判することが難しい状況があると思います。あるいは台湾の人は、もともとアメリカなんか信用できないと思っても、アメリカに頼らざるを得ない状況にある。そうした中で、台湾と沖縄の連帯が成立するためには、むしろ日本「本土」に住む人間たちと、そこでつくられた国家が大きく変わっていくこと、東アジア非武装地帯をつくれる方向へ動いていくことが必要だと思います。どんなに難しいことだとしても、そうした方向を目指すしかないのではないかと思っています。
最後にまとめます。
日本植民地支配下において台湾の人々は占領の暴力、国家神道体制の暴力に直面しました。こうした帝国日本による政治的被抑圧の経験が「台湾人」意識の核となりました。
植民地支配からの解放後、「台湾人」は恥知らずで卑劣で笑うべき台湾統治理論(天皇制)を批判し、日本人民衆の手は血で汚れていると告発しました。しかし、中華民国政府(蒋介石政府)が台湾を再植民地化し、台湾人エリートを殺害し、日本政府と提携することで日本の台湾植民地支配責任を免責しました。左翼を含めて日本「本土」の住民は植民地支配責任に直面するどころか、都合よく単に台湾を忘却しました。
1972年の「沖縄返還」と「日中共同声明」は大国間の取り引きという性格をもちます。台湾と同じように独自の歴史を刻んできた沖縄では、「島弧少数の民」の自己決定という観点からこれを批判する声が登場しました。ですが、その声も日本「本土」にはほとんど届かず、植民地主義者の心性が伏流水のように流れ続けています。
このほとんど無意識の植民地主義者の心性をいかに克服し、植民地支配責任に向き合うかということが、今、問われているのだということを、私からの問題提起とさせていただきます。
*沖縄・安保・天皇制を問う4.28-29連続行動実行委員会による集会「植民地支配責任を考える」(2024.4.28 於・文京区民センター)における講演をまとめたものです。
*駒込武さん企画の「自主講座 認識台湾」関連の動画もぜひご覧ください。
https://www.youtube.com/@renshi.taiwan