女帝論と戸籍・皇統譜

*ここに再掲するのは、2001年11月に発行された『季刊 運動〈経験〉3』に掲載された、佐藤文明さんの「女帝論と戸籍・皇統譜」です。2001年の4月に、雅子の解任が報道されました(宮内庁の正式発表は5月)。愛子が生まれたのは12月なので、この原稿の執筆時点では、男子が生まれるか女子が生まれるか不明な段階でした。結婚(1993年)から懐妊まで時間がかかった中での懐妊報道なので、この時点での大方の予想は男子(皇位継承者)の誕生ではないかと言うものでした。女子(愛子)誕生の前から「女性天皇」を支持する声はあり、この佐藤さんの文章は、女性天皇の問題について論じると共に、「戸籍」と「皇統譜」についても概説されています。文中にある「皇太子」は現天皇の徳仁のことです。(編集部)

佐藤文明

戸籍と皇統譜

知る人も増えてきたが皇族には戸籍がなく、代わりに「皇統譜」というものに記録される。皇族と民間人が結婚したとき、夫が皇族であれば妻も皇族となり、妻が皇族であれば民間人となって、夫との新戸籍をつくる。

皇太子と雅子の結婚に際しては、雅子の本籍地である村上市が仰々しい「除籍式」をやって見せたので、雅子が戸籍から除かれ「バツいち」になったことが大々的に知れわたることになった。

その後、この報告を受けて皇統譜への記帳が行なわれたのであるが、こちらのほうは皇統譜が皇室の家族簿にすぎないため、特段のセレモニーは行なわれなかった。戸籍と違い皇統譜は非公開で、それがどういうものであるかを知ることはできない。

とはいえこれが家系図であることはたしかで、そうだとすれば線で結ばれた代々の係累図に妻子情報が付加されていくものか、代々を桝で区切り、その代に生じた皇族の身分関係を順次記載していくものであると思われる。

婚姻以外に民間人が皇族になる道はないが、天皇・皇后・直系男子以外の皇族は皇室会議の許可が出れば、皇族を離脱して民間人になることができる。これを称して「臣籍降下」というが、これは1947年に11宮家が離脱して以来、まだ例がない。

皇族を離脱した者は「皇族の身分を離れた者及び皇族となったものの戸籍に関する法律」に従って、新戸籍が編製されるが、一般の戸籍とは表記が異なる。「〇〇で出生」というところを「〇〇において誕生す」という具合だ。

また、彼の両親が皇族である場合、その父母欄には「〇〇親王」「〇〇女王」など、皇室典範の規定による「称号」が付記されている。これは壬申戸籍で父に族称が振られていることから部落差別が起きたことと好対照をなしている。これもまた一種の差別記載であろう。

雅子出産

結婚と違って、雅子の出産が皇統譜上で問題になることは大きくない。男子は「親王」女子は「内親王」として登録されるだけである。ただし、両者には決定的な違いがあって、男子は皇位継承権を持っているので原則として皇族離脱ができない。

父である皇太子が皇位を継承したときは自ら「皇太子」となり、皇位を継承せずに死亡したときは「皇太孫」となる。

また女子は、前述したとおり、皇族と結婚した場合を除き、婚姻によって皇族の身分を離れる。

性別によって大きな身分差が現れるのは家父長制「家」制度の必然で、戦前の民法・戸籍法・国籍法でも当然のことだった。「家」を相続しない女子は戸籍と戸籍の間をキャッチボールされ、結婚によって国籍さえもが夫のそれに変更された。

が、こうした差別はすでになく、唯一残されていた子どもの国籍の継承についても1980年に父系主義国籍法が両系主義に改正されることでその姿を消すことになった。

したがって、皇室典範に残る純粋に近い家父長制「家」制度はあまりにも整合性を欠く座りの悪い制度になってしまった感がある。

ここで「純粋に近い」と言ったのは、戦前の「家」制度にあっても、男子の継承者がない場合は女子がこれを継ぎ、「女戸主」になることができたからである。そのため、男子のない家では長女が婚出することは許されなかった(従って長男ではない者を養子に取る)。

ところが皇室典範によって女子が皇位を継ぐことはできない。女性は天皇にはなれないのである。そしてくだんの論議である。

「雅子が男子を産まなければ皇統が絶えるかもしれない」、お家断絶、戦前の戸籍用語に従えば「絶家」である。ならが「女帝を認めたらいいではないか」。

直径の女帝か傍系の男帝か

もちろん雅子が男子を産まなくても、天皇家がすぐに絶家になるわけではない。現に皇太子である徳仁、弟の文仁(秋篠宮)のほか、現天皇の弟・正仁(常陸宮)ほか、総勢7人の皇位継承者がいる。

ただ、いかにも高齢で、文仁より若い者がいない。生まれてくる可能性も少ない。そこで雅子の男児出産が期待されているのである。

しかし、この間の雅子懐妊報道に次ぐ「男子出産のプレッシャー」からの解放を名目とした「女帝論」の出現は傍系天皇の出現をほとんど無視しているように見える。傍系天皇の男帝よりも直系の女帝を求める意識である。

一方、女帝論の対極にあるのが臣籍に降下した元皇族にも皇位継承権を拡大しようという動きである。具体的には久邇宮家の王で昭和天皇の姉と結婚後、臣籍降下した東久邇盛厚の子や孫である。この動きの裏には傍系でもあくまで男帝を、という意識が強い。

そして論議の行方はどうやら男女平等、ジェンダーフリーはもはや時代の趨勢といわんばかりで、「女帝容認論」の圧勝であるかのように見える。

また実際、天皇制の求心力が急速に落ち込んでいる今、それを立て直すには傍系よりも女帝がふさわしい。マスコミのスポットライトを外れたところから新天皇が誕生しても、人気回復には結びつかず、形骸化が急速に進むであろうからである。

もっとも、これらのことはすべてムードとして流れているだけである。改正皇室典範はどんなものであればよいのか、言われている男女平等、ジェンダーフリーとはどんなものなのか、それらの具体像はなにも見えてこない。

女帝の歴史

宮内庁のこれまでの公式見解によれば「女帝は例外として、繋ぎとして登場しただけで、天皇は本来男子が継承するもの」であった。そしてこの言い分は天皇制を奉じる民族系にも受け入れられるものだった。

たしかに125代の天皇のうち女帝は10代8人のみ。例外的な存在である。筆者も大和の王は基本的に将(軍事長官)であって、男子が継承するものであった、と考える。もっとも、筆者の見解では大和のトーテム氏族は母系であり、神は女であり、神事を司るのもまた女性であったと考える。大和王朝を形成した葛城(桂)も加茂(鴨)もトーテム氏族に典型的な呼称である。

母系であった証拠は数あるが、「天孫降臨」を挙げておこう。なぜ子ではなく、孫なのか、ということだ。

アマテラスを神とする葛城の将にとって、その子は妻である加茂の一族に属する。つまりは異族なのだ。けれども、その子は葛城の妻を迎えているはずなので、同族である孫こそは自身の代理として地上に軍を進めるにふさわしい者となる。

母系社会における男性占有物の継承は常にこのように一つ飛びになる。その間を繋ぐのが叔父である。したがって、父子継承よりも兄弟継承(兄弟は同族なので)が優先されるのが普通で、天皇制もまたそうした継承の色が強い。

王室が父系であるならば、「氏」を継承すれば済む。が、そうでないために「継承権」は「三種の神器」の具体的な継承によった。天皇家に「氏」がないのもこれと関係するものである。

最初の女帝・推古はそうしたな中、聖徳太子によって立てられた実力者で敏達・用明・嵩峻と続いた兄弟継承を終わらせ、敏達の孫・舒明へと繋ぐ役割を果たした。

中国の官制に倣う父子継承の樹立こそ、聖徳太子の「偉業」の一つであったのである。太子が天皇になってしまっては王室が王家に脱皮することはできない。

天皇の出現

聖徳太子のこうした試みはその後六代にわたって受け継がれ、この間に皇極=斉明・持統の三代2人の女帝が出現する。

近親相姦と女帝とをはさみこむことで母系と父系の区別がつきにくくなり、父も母も子もおなじ王家の者となる。王は将としての権力に加えて、祭りを司る権威をも手に入れることになるのである。

こうして神と将とが合体したものを持統は天皇と呼んだ。おそらく天皇と呼ばれた最初の王は持統の孫・文武であったろう。天皇の出現、天皇家の登場である。

つまり天皇制に対する認識では、民族系の考えるものと大きく異なるのではあるが、女帝が例外として皇位についたという点で意見に違いはない。

ついでに言い添えておけば、それまでの大和王朝は王家ではなく王室である。葛城の将は加茂の女王と結ばれて、加茂の地に住むべき(妻方居住婚)だったにもかかわらず、互いの中間地に「宮」を建てた。

「宮」では加茂の世継ぎが生まれ、葛城の女王を迎えて次の将となる。「宮」は将の政務地であると同時に、次の将の孵卵器として氏族を代表する女たちがあてがわれたのである。

あるものは妻として、あるものは婦として、またあるものは采女として。それはまた各豪族にとっていたって平等な制度であった。どの豪族も娘を通して(妻を出すのか婦を出すのか采女を出すのかのランクはあったが)王の叔父になるチャンスを手にできるからである。

母系社会にとって、叔父の権力は絶大である。曽我氏はこうして大和政権の中心に上り、それゆえに倒された。外戚の権力を排するためにも、王室の王家への転化、家父長制の確立が必要になった。「大化改新」である。

だが、大和王朝の孵卵器としての性格が変わることはなかった。家父長制もまた、男子誕生を渇望せざるを得ない制度だったからである。「宮廷」はますます性的結合を中心とした婚姻連合体に純化していった。

女帝論の否定

家父長制「家」制度と女帝とは矛盾しない。一時的、臨時の繋ぎとしてであれば女性が天皇になることも可能なのである。

これが家父長制確立以後の元明・元正・孝謙=称徳(ここまでは家父長制もなお不安定であった)・明正・後桜町、六代5人の女帝が意味するものである。

明治の「家」制度が「女戸主」を排さなかったことも、両者が共存できることをよく示している。

したがって、女帝が容認されたからといってそれが必ずしも男女平等を意味するものではないのはいうまでもない。問題はその中味なのである。

たとえば皇位を継承する男子がいない場合の女帝擁立では、皇室典範上でも例外規定が置かれるだけで、両性がシンメトリーとなる本来の男女平等ではない。

両性平等とかジェンダフリーを口に出す以上は、少なくとも皇室典範の構成上、男女の規定がシンメトリーでなければならないだろうからだ。

また、典範の構成がシンメトリーでも、その運用が平等であるとは限らない。たとえば女帝には摂政をつけるとか、男子の継承者が生まれたら即刻退位したのでは平等とは言いかねる。

現行のままの文言では摂政をつけるのはむずかしいし、退位はできない。しかし、皇室典範の改正は必ず「退位規定」の新設とセットで語られているし、「摂政規定」の改正がないともいえないのである。

さらにこうした運用に差がなくても、内実としての役割分担の強調が考えられる。女帝は奥ゆかしくかいがいしい、といった演出は男役割・女役割の固定をいっそう進め、古い家族モデルを国民に押し付けることにつながる。

ただでさえ、今日の天皇制最大の国民統合機能はこの家族モデルの押し付けなのだ。女帝がこの機能を積極的に果たすことになる可能性がきわめて強い。

皇室典範の改正をチェックすることぐらいでは、こうした問題を防ぐことはできないのである。

「女帝」と皇室儀礼

もちろん女帝の出現で変わるものもある。たとえば大嘗祭は伝統のままで行なうことはできないだろう。おそらく1762年の後桜町天皇即位時の先例を掘り起こすことになる。

それがどういうものかは知らないが、大嘗祭は将である男帝に祖神であるアマテラスの神格を付与する皇室儀礼である。神的権威を継承しているはずの女帝には本来無用なものである。

また、アマテラスの前で行なわれる采女2人との床入りの儀(男衾の儀)は、明らかに性交渉を意味するもので、これに女帝が参加するわけにはいかない。

この奇習もかつては取り立てて奇抜なものではなく、ごくあたりまえで、婚姻連合体である大和朝廷にとってはきわめて重要な儀礼であったことはいうまでもない。

この床入りの儀に先立って、新天皇は全国二ヵ所の美田から収穫した米を食すが、これは支配地すべての収穫物を手に入れることを意味する。二ヵ所はその象徴として選ばれたに過ぎない。

同様に2人の采女は全国各地の豪族の娘を代表する。これにより各地の豪族は娘をつうじて世継ぎの父になれる可能性を象徴的に確認するのである。

この場にアマテラスが臨むということは、そこで宿るかもしれない子種に神格を吹き込むものなのかもしれない。これを単なる農耕儀礼だとするのはまちがいだ。

かつては実際に宮廷に娘を送り込み、天皇の父になりうる平等の権利を享受していた地方豪族も、大和政権の版図の拡大につれて物理的な可能性を失い、こうした儀礼によってかろうじて婚姻連合の末端に席を占めるほかはなくなった。

即位の礼が国家儀礼なのに対して、大嘗祭は地方にウエートを置いた皇室儀礼だと言われるのはこうしたことによる。

女帝の即位は、この大和王朝にとって重要な儀礼が行なえないことを意味する。儀礼の中で、皇后の座をどうするか、などはこれに比べると些細なものでしかない。

シンメトリーな改正

それでは皇室典範から男女差別を消し去り、シンメトリーなものにしたらどうなるだろうか。女帝反対論者がまず持ち出すのは皇族がどんどん増えてしまう、というものだ。

自ら進んで臣籍降下する者がいない現在、婚姻による皇族離脱規定がなくなるとすればたしかにゆゆしき事態だ。その際は傍系皇族を自動的に離脱させる規定が’必要になろう。

が、本当の問題はここにではなく婚姻によって女帝(というより皇族の女性)の夫は皇族になるのか、ということにある。あるいは逆に皇族の妻たちも、民間人である場合は皇族になることなく戸籍に残されることになるのか、ということだ。

シンメトリーである以上、これはどちらかでなくてはならない。ところ前者であると父系親族の要求が皇室の中に紛れ込んでくる恐れがあるし、後者であれば皇族の配偶者の生活費を宮廷費でまかなうことに疑問が生まれる。

そしてこれはいうまでもないことだが、シンメトリーである以上、継承順位に男女差があってはならない。男女に関わらず、嫡出長子が第一継承者でなければならない。嫡出長子相続が非嫡出子差別や兄弟間差別であることはいうまでもないが、少なくとも男女差別は解消する。

制度的にここはすっきりするのだが、実にこれこそ多くの天皇制護持論者にとって、納得するわけにはいかない点だろう。

詰めていけば「こういう改正は考えていなかった」というのが男女平等だの、ジェンダーフリーだのという言葉で、天皇制の延命のために女帝を利用しようとする連中の本音だと言っていい。

これに便乗し、男女平等を実現しようとしているフェミニズム系の主張はどうなのだろうか。本当にこうしたことを詰めた上で、ものを言っているのだろうか、きわめて怪しい。

婚姻連合なき天皇家の結婚

ご承知のように文仁よりも徳仁の結婚のほうが難航した。皇族の身分はともかく、皇太子妃の身分は一女性の人生にとって、重すぎるものを含むからである。

その証拠に、東京・原宿のホンダ本社に勤めていた雅子の妹は、こっそり退職させられ、東大の大学院に入れられている。キャリア・ロンダリングである。

そしてさらに、それ以上に結婚が困難なのが清子(紀宮)である。身分の変動がなくても、結婚によって大きく立場が変わることを潔しとしない男は少なくなく、女性を通して一躍マスコミの脚光を浴びることを甘んじて受ける男を捜すのは困難極まりない。

皇女の夫に“ふさわしい”、ある程度のキャリアを積んだ男ならましてものことである。

もしこれが将来天皇になることを約束された女性だったらどうだろうか。あるいは約束されていないまでも、その可能性を持つ女性だったらどうであろうか。

その夫を見つけることことはさらにむずかしい。いまや婚姻連合にうまく参画することで、権力奪取の野望をたぎらせる一族など、どこにもいない。

いや、むしろ、そうした一族であることを揶揄されたくないからこそ、親族を挙げて逃げ回る。だからもし、逃げ回ることをしな一族があるとすれば、それはもういっぱしの男系親族であるほかはない。

宮家であったり、元皇族であったり、である。宮家に男子がいるのなら、そもそも女帝容認論は浮上しなかった。とすれば元皇族だが、これもこれからはむやみに増やせず、切り詰めていくしか
ない。

皇室に夫を提供することのできる家、これは確実に新しい意味での貴族であるだろう。そうなれば新華族社会の出現である。新たな「家」制度の誕生である。こうした事態をいったい誰が歓迎するというのだろうか。

ヨーロッパの貴族

ヨーロッパ王室にこうした悩みはない。各国が貴族を抱え、さらには国を越えた相互通婚関係が常識になっている。女帝に夫を供給するシステムはしっかりと出来上がっているのである。

それでも、イギリスのエリザベス一世のように「わたしの夫はイギリスである」として生涯の独身を貫かなければならなかったことからみて、女帝の夫の位置づけがむずかしいことは明らかである。

女帝となる可能性のある皇女の結婚はこれまで以上に困難なものになり、独身皇女が増えるとすれば、家族モデルを提供することで国民の統合を成し遂げ、マスコミ雑誌の売上に寄与してきた天皇制の根幹が失われる。

大和の婚姻連合は家族間の平等を形の上で確保した、しかし、王朝はこれに君臨する特別な存在だった。つまりは対等の連合体にはなりがたいのである。

したがって、琉球王朝に対しても朝鮮の李王朝に対しても、婚姻連合を仕掛けながらも横につながることなく併呑してしまう。そして自らを総本家の総本家として押し上げてしまうのである。

この文化的併呑の世界規模の青写真こそが「八紘一宇」であった。唯一の巨大家長(天皇)を冠する世界大の平和家族モデルであった。が、この発想では国・文化を越えた対等の相互通婚関係は成り立たない。

大和朝廷はこれまで、文化的に近い者を婚姻連合に組み入れながらも、異なる者を併呑することに失敗し、征伐(破壊)してきた。

したがって、相互通婚関係を成り立たせるような対等の王朝づきあいをしたためしがなく(葛城・加茂連合王朝を除く)、東アジアの孤立王朝に甘んじるほか、道はなかったのである。

したがって、このような王朝は、内部通婚を繰り返し、近親相姦的な身内を作り出すほかはない。男帝の通婚者として、美智子・雅子(あるいは紀子も)を民間から召し上げることができたのはむしろ、戦後民主主義が産み落としたあだ花なのかもしれないのである。

静かに滅亡すべし

天皇制が持つ儀礼構造において、対等な相互通婚関係を築く困難さは、これを世界大に広げてみた時に改めて気づかれる。

たとえば女帝の夫にタイやイギリスの王族関係者を迎え入れることができるかどうかを考えてみればいいだろう。

その際、伝統的な皇室儀礼の多くは失われ、夫方文化の皇室への流入は避けられない。宮内庁あたりが抱え込む有職故実を知り尽くした職員の多くが御用済みとなり、蟄居を余儀なくされる。

こうなってもなお、天皇は国民統合の象徴と言えるのか、それでもなお、日本国の象徴として、推しいただく必要があると言うのか。

いうまでもなく、民族系の抵抗はすさまじいものとなるだろう。これはもう女帝容認論どころの話ではない。

「外国の血を皇族の中に入れるなどもってのほか」といった、文化を「血」で説明する偏狭な反対論が吹き出すことは明らかだ。

したがってそんなところにわざわざやってくる異国の配偶者があるとすれば、それはあまりに事情に疎い者か、国を挙げて企まれた政略結婚であるというほかはない。

もちろんフェミニズム系の一部論者はこうした事態を想定してもなお、ムード的に歓迎するところがあるのだろう。日本の皇族とヨーロッパの王族の婚姻セレモニーを、テレビにかじりついて眺めたいと思っているのかもしれない。

が、それはもうフェミニズムの論理と言うより、ミーハーの感覚でしかない。

国民統合の象徴は行き詰まっているのだ。死に瀕しているのだ。

天皇制は明らかに日本固有の制度である。国民統合の象徴とまでは言えないが、「家」制度や戸籍制度など、この国の文化の基底によくマッチしている。

したがってこれをヨーロッパの王族のように考えることはできない。ミーハーではフォローできない文化の基底こそが、この王朝の価値なのだ。

そして行き詰まりを見せているのもまさしくその価値なのである。ぬぐいきれない家父長制的な儀礼の数々、国際性の無さ、こうしたものが新しい家族モデルの提供さえをも困難なものにしている。

国民統合の機能をすでに消失しているのである。これに手を差し延べ、新たな風を送り込むことは不可能だし、必要もない。国民統合の象徴であることを失った制度は静かに滅亡すべきである。

ましてや改憲の口実として、抱き合わせのように語られる女帝容認論には深い憤りを感じざるを得ない。
(2001.10.11)

・佐藤文明(さとう・ぶんめい)、1948年生まれ(2011年1月没)、フリーランス・ライター、戸籍研究者。

所出:『季刊 運動〈経験〉3』(反天皇制運動連絡会編、2001/11/25)

 

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