根津公子著『自分で考え判断する教育を求めて「日の丸・君が代」をめぐる私の現場闘争史』

志水博子

自分の生き方に真面目であること、自分の仕事に真摯に向き合うこと--本書からは、そのことの大切さと素晴らしさが伝わってくる。著者の根津公子さんは、ご存知の方も多いだろうが元東京都の教員であり、「子どもたちが事実をもとに自分の頭で考え判断することができるようにと願って授業を組み立て」てきた。

根津公子著『自分で考え判断する教育を求めて「日の丸・君が代」をめぐる私の現場闘争史』(影書房、2023年、2200円)

ところが、教育委員会は1990年代後半より次から次へと彼女に懲戒処分を加える。教育委員会が望んだのは上意下達の指示に従う教員であり、著者のように、子どものために創意工夫を行う教員は目障りな存在であったと思われる。

今年のはじめ、奈良教育大学附属小学校をめぐる報道に接した際、真っ先に思い出したのは根津さんことだった。既視感とでも言おうか、“狙われた”のではないか、直感的にそう思った。

少し長くなるが、この奈良教育大附属小学校事件に触れておきたい。本年1月16日、産経新聞が「国立奈良教育大付属小で、道徳や「君が代」を扱う音楽の授業の中で、検定教科書を使わないなど、法令に違反する教育が長期間にわたって行われていたことが学校関係者への取材で分かった。不適切な指導は国語や外国語などの教科でも確認。一部の教員に対し公立中出身の学校長の監督権限が機能しない状況が常態化していたとみられ、文部科学省が指導に乗り出した。」と報じた。その翌日には、奈良教育大学長が、「児童や保護者はもとより、広く国民からの信頼を裏切ることとなり深く謝罪いたします。正義を教え尊ぶ教育機関で、将来の教師を育成する教員養成大学附属学校でありながら、その使命と責任を果たすことができなかったことは、学長として慙愧に耐えません。」と謝罪の会見を開いた。そして、その2日後の19日には、文部科学省は全国の付属校を置く国立大学に通知を出し、ガバナンス(組織統治)にのっとった意思決定や、学習指導要領に基づく適切な履修が行われているかどうかなどを点検するように求めた。さらには、大学側は同校全19人の正規教員に出向を命じ、異動させる方針を執る。この手回しの良さは何だ。

実はその後、卒業生、保護者、教育研究者ら様々な人たちによって奈良教育大附属小学校の教育実践が明らかにされていく。「子どもたち一人ひとりの成長・発達へのねがい・要求に耳をすませ、その実現のために必要な自主教材や授業、行事を創造する教育課程の自主編成に学校あげて挑戦してきた学校」であり「その教育実践や学校づくりは、全国の教育関係者から注目され、高く評価」されてきたと(みんなのねがいでつくる学校応援団)。

やはりそうだったのか。文科省が求める教師像は創意工夫する教師ではなく「従順な教師」でしかない。長々と引用したのは、著者根津さんの身に起こった不当な「弾圧」は、今なお形を変え続いていることを言いたかったためである。

さて、本書からは著者の2つの側面が浮かび上がってくる。ひとつは、著者が常に子どもを想う、紛れもない優れた教師であること。もうひとつは理不尽なことをどこまでも許さず諦めず闘い続ける姿。もちろん両者は分けられるようなものではない。実は、(レイバーネットHP「本の発見」(第324回)で本書を紹介した時は前者を中心に紹介した。というのは、闘士として知られる著者の本質を知ってほしかったからである。だが、あまりにもそこに重きを置いたため、著者の闘う姿をあまり紹介できなかった悔いがある。ここではぜひとも「闘い」について紹介したいと思っている。

2003年石原慎太郎都政のもとで出された「10.23通達」(国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われることを、教職員に周知すること、式典会場において教職員は会場の指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱すること等を明示した東京都教育委員会の「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」)が発出され、「日の丸・君が代」に異議を申し立てる教員への徹底的な「弾圧」が始まる。著者は、「日の丸・君が代」の授業および「君が代」不起立は、私の教育観に基づく教育活動であり、指示・命令されてもまちがっていると思うことには従わない、考えずに従ってはならない、従わなくていいのだということを子どもたちに示すための、教育行為」という。また、故西原博史さん(憲法学)が言われた「日の丸・君が代」に反対するのは教員の「抗命義務」という言葉はいつも頭にあったとも。

そもそも侵略戦争の反省に立ち、いわばそのシンボルでもあった「日の丸・君が代」は戦後日本社会から姿を消すのだが、1950年当時の文部大臣だった天野天佑の談話を機に、再び学校に持ち込もうとする勢力が現れる。以降、学校ではそういった「歌わせたい」勢力に対して「教え子を再び戦場に送るな」とする現場の教員の闘いが続く。

なぜ、そのようなことになったのか。著者は、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」(憲法前文)するならば、政府は天皇裕仁の戦争犯罪を問うことから始めるべきだったが、そこがすっぽり抜けているという。まったく同感である。それが、現在に至るまで、歴史認識にしても、公教育にしてもさまざまな問題が噴出する根源はないか。

次に、なぜ、こうまでして「日の丸・君が代」を学校に強制するのか。著者は「日の丸・君が代」・天皇制を国体とする、「明治」以降の「秩序」が、日本国民を支配管理するのに都合が良いからだと思うに至ったと記す。ここもまったく同感である。

教育の場で、司法の場で、著者は闘い続ける。常人には考えられない闘いに見えて、著者にしてみれば、自分の生き方を屈することはできない、ひとつひとつがごく当たり前のことだったに違いない。そして、その闘いは次のように実を結ぶ。

ひとりの女子生徒が、著者を見て「最初は困難だが、声をあげ行動する人がいて社会は動く」と感じたと告げる。素晴らしいではないか。

本書は、闘うことの必要性とその素晴らしさが随所から伝わってくる。根津さん、そして多くの教員が体験した「日の丸・君が代」強制事件は、今、問題になっている奈良教育大附属小学校事件をはじめ、教育や学術文化へのさまざまな不当な介入と決して無関係ではない。

最後に、著者が本書を綴った一番の動機について触れておこう。実は、「はじめに」のところでこう記している。「『日の丸・君が代』の強制と処分をはじめとした教員の支配管理・弾圧が教育を、政治を、社会をどう歪めていったのか、共に考えて頂けたらと願う。」と。

 

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