土方美雄
靖国神社の「過去」〜戦後、その公的復権への動き〜 その6
戸村政博は、『検証国家儀礼』の中で、靖国法案国会提出後の動きに関し、以下のように、極めて簡潔に、記している。まずはその、引用から。
(19)69年の第一回提出以来、74年まで5回提案され、5回廃案になった。一口に廃案といっても、毎回必死の攻防があったことはいうまでもない。初めて「趣旨説明」に漕ぎつけたのは3年目。「継続審議」に持ち込んだのは5年目。衆議院内閣委員会で強行採決(続いて衆議院本会議でも強行採決)に踏み切ったのが6年目。それが交通ストのさ中の抜き打ち的強行採決とあって、2週間にわたるマスコミの「ヤスクニ・バッシィング」(靖国叩き)となり、法案としては消滅。国家護持を削り、公式参拝のみを掲げた「表敬法案」に形を変えてもう一度、アタックを試みようとして果たせず、翌1975年から、総理大臣の靖国神社参拝へと舞台がかわるのである。
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結局のところ、自民党が提出した靖国国家護持法案は、いったんは、衆議院で、強行採決までしたのに、国会を通ることはなかった。それは、何故か?「必至の攻防」の内実を、今度は、拙著『靖国神社 国家神道は甦るか!』を通して、みていくことにしよう。
1969年1月4日、伊勢神宮に参拝した佐藤首相は「靖国法案を最重要法案のひとつとして、通常国会に提出する」と明言した。
宗教者のたたかいの拡がりに、社会党もようやく重い腰を上げた。1月11日、党大会で同法案に対する反対決議が採択された。2月11日、公明党も靖国問題特別委員会を党内に設けて、対策をねり始めた。
2・11には全国30数カ所で反対集会が開かれた。キリスト者が中心の東京集会には、2000人の参加者があった。この集会を契機に、キリスト者約50名が数寄屋橋で座り込み闘争に突入する。さらに、5月6日付で68の宗教団体の代表者が連名で、靖国法案反対の意思表明を行った。
しかし、そういった反対運動の拡がりにもかかわらず同法案は自民党単独の議員立法で6月30日、第61国会に提出された。
翌7月1日、法案提出に抗議するキリスト者130名が首相官邸で座り込み闘争に入った。各地でも集会やデモ、ハンストなどが、主にキリスト者によってたたかわれ、8月5日、国会の閉会で、法案は無審議で廃案となった。
この年の4月に結成されたキリスト者遺族の会は、キリスト者戦死者の霊璽簿からの抹消を靖国神社に突きつけた(神社側、拒否)。
10月18日、佐藤首相が靖国神社に参拝、同20日の創立100年祭には天皇・皇后・皇太子の参拝が行われた。
1970年4月1日、同法案は再度、第63国会に提出されたが、これは5月13日には早々と廃案と決まった。この年の12月、日教組・総評・護憲連合(社会党系)・憲法会議(共産党系)・宗平協・国民文化会議・日キ教団による、いわゆる「七者懇」が開かれ、71年以降の反対運動を一大国民運動としていくことなどが話し合われた。
71年1月5日、靖国法阻止全国縦断国民行進が起点の鹿児島を出発した。同22日、第65国会に法案は三度び提出されたが、衆議院内閣委員会で初の理由説明が行われたものの、即刻廃案となった。
2月21日、全国縦断国民行進が東京に到着した。日比谷野音で開かれた中央決起集会には1500名が結集した。翌22日には公明党も反対声明を出し、反靖国の戦列に参加した。これらのたたかいに対抗して、推進派側も靖国神社境内で、3月14日、総決起集会を開いた。その数約2500名、内400名余りが首相官邸前に座り込んだ。
72年1月、自民党の総務会で当時の中曽根総務会長が法案再検討発言を行った。推進派が3月7日、日比谷野音で開催した「靖国法成立促進大会」にまねかれた中曽根はここでも同趣旨の発言を行い、場内は騒然となった。しかしこの時、中曽根の示した「英霊の国家護持」構想は、後日、靖国推進派の新しい運動方針となってゆくことになる。
この、中曽根構想に関しては、あとで、詳しく説明する。
5月22日、靖国法案は第68国会に4度提出される。この時も、1カ月余りで廃案になった。
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実は、利き腕の左腕を複雑骨折し、無理して、原稿を書いてきたが、そろそろ、限界なので、今回はここまで。以下、次号。スイマセン。