反靖国~その過去・現在・未来~(10)

土方美雄

靖国神社の「過去」~まずは、創建から第二次世界大戦まで~ その6

前回、私は1985年に書いた自著『靖国神社 国家神道は甦るか!』を引用する形で、「靖国神社では(1945年)11月、あわてて未合祀の太平洋戦争戦死者の合祀を行い、天皇が参拝した。そしてこれが、国家的神社としての靖国神社の最後の臨時大祭となった。」と、書きました。これに対し、辻子実さんより、以下の、ご指摘がありました。

「1945年11月20日臨時大招魂祭での『合祀』は間違いです。1945年以前は、招魂して、即『霊』を本殿に移して合祀されていましたが、1945年以降は、氏名不明のまま招魂された『魂』を、その後、氏名が確定されるとともに、霊璽簿奉安祭によって、『合祀』されます。/1945年11月の臨時大招魂祭も、多くの誤解を生んでいますが、このときの招魂対象は、アメリカ海軍戦艦『ミズーリ』艦上での降伏文書調印式1945年9月2日までの戦没者です。/国家的神社としての靖国神社の最後の臨時大祭となった、『国家的神社として』と記述されているので微妙ですが、1945年以降も靖国神社では天皇の『親拝』時は臨時大祭としています。」

1945年以降と、それ以前では、「合祀」のやり方が変わったという点に加え、1945年11月の臨時大招魂祭の招魂対象は、同年9月2日までの戦没者であるという、ご指摘です。正確を期すため、辻子さんのコメントを、そっくりそのままコピーし、貼りつけて、訂正させていただきます。

この原稿を私が書いた際、何の情報をもとに書いたのか、今となっては覚えていませんが、少なくとも、一番、影響を受けた、村上重良さんの『慰霊と招魂』を読み返したところ、同じような表現はありませんでしたので、おそらく、当時、読んだ複数の参考文献をもとに、自分でそう解釈し、書いたのだと思います。

また、辻子さんは、以前、私が靖国神社の祭神数を、「○○柱」と表記したことに対しても、違和感を表明されていました。確かに、「柱」は神道用語のため、そう表記するのであれば、「」をつけるべきだったかと、思います。

また、これは、どなたから指摘を受けたことでもありませんが、前回、引用した、私の30数年前の文章では、国家神道体制への、主に、キリスト教指導者の屈服に関し、いささか、厳しい物言いだったと、読み返してみて、改めて、そう思いました。もとより、国家神道体制へ屈服したのは、キリスト者だけではなく、大半の宗教者や、社会運動家も、そうだったのです。むしろ、宗教者の中で、神社等への参拝に対し、もっとも抵抗したのは、キリスト者であったと、いうべきです。そのことに、ハッキリ、言及しておかないのは、アンフェアだと思いましたので、ここに記しておきます。

特に、社会運動家や、マルクス主義者の、靖国問題に対する無自覚は、深刻です。個人の問題に即していえば、特に、1960年代後半から、70年代前半にかけての、靖国国家護持法案との攻防過程で、私は一活動家として、安保・沖縄問題や、三里塚、狭山等の闘いに、それなりに、取り組んでいましたが、一人の人間が、何もかも、すべて抱え込むことは出来ないにしても、靖国法案を巡る闘いに関しては、あたかも、宗教者の闘いであるかのごとき認識で、どこか、他人事だったことに、今となっては、真摯に、反省しています。

もちろん、私個人の問題というよりは、当時、私が属していた「前衛党(笑)」なども同様で、天皇制の問題を、ボナパルティズムといった、所詮、権力の問題としてしか、とらえ切れておらず、結果として、靖国法案に反対する運動等に、何ら、積極的に、取り組むことは、出来ませんでした。

そうした反省が、私や、靖問研の仲間に、靖国問題や、反天皇制の闘いへと、向かわせることにもなったのです。やや、話が脱線しました、ゴメンナサイ。

一応、後半は、かなり駆け足で、靖国神社の「過去」について、みてきました。この原稿は、学術論文でも、何でもないので、そろそろ、話を前に進めたいと、思ったからです。次回からは、靖国神社の「過去」パート2として、その、戦後の公的復権への動きについて、みて行こうと思います。

いつもより、少し、短いですが、キリがいいので、今回はここまで。

 

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