反靖国~その過去・現在・未来~(9)

土方美雄

靖国神社の「過去」~まずは、創建から第二次世界大戦まで~ その5

1879年の、東京招魂社から、靖国神社への改称の持つ意味について、村上重良は『慰霊と招魂』の中で、次のように、記している。

「招魂社から靖国神社への改称は、たんに社名の変化にとどまらず、この宗教施設そのものの変質を意味していた。招魂社では、いわば忠死者の霊魂が主人公であったが、靖国神社では『国』がはっきりと前面に出てきた。完全に神社化することで、靖国神社の主役は、忠死者の霊魂から、『国』すなわち近代天皇制国家に移行したのである。この変化は、個性をつよくとどめていた『忠魂』が、しだいに個性を失って抽象化された靖国の神へと昇華していく道をひらいた。近代天皇制下の数多い創建神社のなかで、まさしく最大の歴史的役割をはたした靖国神社は、天皇のための死者集団を、均質で無機質の祭神集団に仕立てあげる宗教装置であった。こうして靖国神社は、無限に祭神が増えつづけ、しかも、どれほど多数の祭神があらたに加わっても、神社そのものの性格にはいささかも変化がないという、神社としてほかに類例のない特異性をそなえる結果となった」。

こうして、靖国神社は、日本の対外戦争の拡大で、増え続ける天皇の軍隊の戦死者を、「英霊」として祀り続け、その祭神数を、急速に、増やしていった。戦没者の続出は、皮肉にも、天皇=国家の神社としての、靖国神社の一大発展へと、つながっていったのである。

でも、その行き着く先は、どのようなものであったのか、以下は、自著『靖国神社 国家神道は甦るか!』(社会評論社、1985年)からの、引用である。

1929年、世界恐慌の波は日本にもおし寄せてきた。日本の支配層はその帝国主義的延命の道を、中国大陸への本格的な侵略に求めた。

1931年、柳条湖事件を口実に、関東軍は中国軍との全面的な戦争に突入し、翌32年には100%のでっち上げカイライ政権である「満州国」建国を宣言した。

政府はこの年、靖国神社の大祭日を全国的に休日にすることを決定した。臨時大祭のたびに東京市内の学生・生徒が配属将校や教官の引率で集団参拝する・・そんな光景が日常化する。上智大学のカトリック学生らが靖国参拝を拒否、大問題となったが、それはもちろん例外的な動きでしかなかった。キリスト者をはじめ、宗教者の多くが靖国参拝へと動員されるようになっていった。

1936年5月、ローマ教皇庁は「神社参拝は国民儀礼」なる訓令を信徒に下し、32年以来それでも断続的に続けられていたキリスト者の参拝拒否闘争はこれで、急速に下火になっていった。

植民地支配下の朝鮮でも、総督府の圧力に朝鮮耶蘇長老教会が屈し、総会で「神社参拝容認」を可決した。しかし、多くのキリスト者は地下で抵抗、日本敗戦の日までその抵抗運動によって投獄された者は2000名、獄死した者50余名にものぼった。
38年に入ると、靖国神社の宮司に陸軍大将鈴木孝雄が就任、靖国神社も完全な戦時下におかれることとなった。大祭の日に境内に立ち並んでいたサーカスや見世物小屋などは、不謹慎であるとして一掃された。

1939年3月、15年戦争下で急速に増えつつあった各地の招魂社を「護国神社」と改称するむね、通達が出された。当時、140社前後あった招魂社の内、34社が国の指定護国神社となった。

また、財団法人大日本忠霊顕彰会が陸軍の肝入りで設立され、同会は「一市町村に一基の忠魂碑を」と呼びかけた。「一日戦死」がすすめられ、これによる国民からのカンパ30余万円がアッという間に集められた。

この年の6月、靖国神社においては創建70年祭が行われ、軍人援護会主催の戦死者遺児の集団参拝が恒例となった。「九段の母」がさかんに歌われたのも、このころである。

1941年、日本軍は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争へと突入した。翌年1月、日本基督教団の宮田満総理が伊勢神宮への参拝を行った。こうしたキリスト教指導者の転向が続く中で、それに屈しなかった部分には徹底的な弾圧が加えられた。そういった中で、2月には、全国の神社で一斉に大東亜戦争一周年国威発揚祈願祭が、靖国神社では国民決起大会が開催されるなど、神社は国民総動員体制の文字通り要となっていった。

1945年、広島と長崎に原爆が投下され、沖縄では日本軍による住民虐殺が強行されるといった末期的状況の中で、日本は天皇制護持の暗黙の了解のもとに、8月15日、連合国軍に降伏した。

靖国神社では11月、あわてて未合祀の太平洋戦争戦死者の合祀を行い、天皇が参拝した。そしてこれが、国家的神社としての靖国神社の最後の臨時大祭となった。

以下、続く。

カテゴリー: 天皇制問題のいま, 靖国神社問題 パーマリンク