反靖国~その過去・現在・未来~(7)

土方美雄

靖国神社の「過去」~まずは、創建から第二次世界大戦まで~ その3

赤澤史朗は、その著書『靖国神社 「殉国」と「平和」をめぐる戦後史』(岩波現代文庫、2017年)の中で、靖国神社の特別な位置について、次のように、記している。

「靖国神社は、国家神道の中心的な神社として、位置づけられるものであった。官社(明治政府が伊勢神宮を除く全国の神社に与えた社格の一つで、国家的待遇を与えられた一握りの官社と、数多くの諸社の二つに分類される)に指定された近代の創建神社は、いずれも天皇統治の正当性を弁証する国体論をその由緒に組み込んでいた神社群であった。中でも靖国神社の元となる東京招魂社は、他の多くの創建神社がその祭神を、はるか昔の天皇や南朝の忠臣といった歴史的な人物に求めているのに対し、直近の幕末維新期の政争における官軍側犠牲者を祀る官祭招魂社(招魂社の中で、国の保護・管理を受けたもの)を代表するものであることで、特別の待遇を受けていた。」「東京招魂社の創建に当たっては、その創建が『天皇の大御詔』に基づいていることが強調されており、官軍側戦死者の功績を顕彰し『慰霊』するのがその目的であった。(中略)その合祀には、単に栄誉を与えて顕彰するだけでなく、人生の途中で倒れ、今やその名も忘れかけられている不幸な死者の名と存在を、けっして忘れないものとしたいという意図があった。これは維新政府の指導者たちの、死んだ同志への思いであったであろう。しかし、この幕末維新期における政争の『官軍』側の死者という祭神の限定は、『国民』の中に差別をもたらすもので、ナショナリズム一般には解消できない強い政治性が見られた。東京招魂社は1879年に靖国神社となってからは、官祭招魂社の系列では唯一、別格官幣社(臣下を祭神に祀った官幣社)の社格が与えられる。それは近代天皇制国家の、いわば守護神としての神社であったといえよう。」

神道の国教化を目指す、明治維新政府の神祇官がやったことは、まず最初に、前述の楠社等、(正統とされる)南朝の忠臣等を祀る神社の創建であったが、次に、目指したのが、招魂社の創建である。

神祇官は、江戸城内で、1868年6月に、大々的な招魂祭を挙行し、翌69年には、東京招魂社が、紆余曲折の末、最終的には、九段の地に、建設されることになった。天皇の勅命を受け、候補地の選定にあたった一人が、大村益次郎であることは、すでに、前述した。九段坂上は、元々、幕府の歩兵訓練場があったところで、当時は住む者もまばらで、33ヘクタールもの広大な敷地が、確保可能だったからだ(現在の靖国神社の、三倍以上もの面積)。そこに、わずか10日ほどで、仮の本殿や拝殿等が、建てられたのである。
その地で、招魂祭が開催されたのは、6月29日から7月3日までの、5日間のこと。7月1日からは、一般の人々の来場も可能で、奉納相撲が行われたり、花火が打ち上げられたりと、文字通り、一大イベントになったという。村上重良は、その著書『慰霊と招魂 靖国の思想』(岩波新書、1974年)の中で、「新首都の東京ではじめて営まれた一大祭典であり、天皇の新政府に反発する空気が根づよい東京の民心を新政に向かわせるために、ことさら大がかりな祭典が演出されたのであろう」と、記している。

とはいうものの、東京招魂社は、大村益次郎がほぼ独断で建設したものであったため、その性格や、先行してつくられた、京都・東山の招魂社との関係などに、確たる見解が、政府内部でも、未だ、定まっていたわけではなかった。また、建っていたのは、仮社殿で、本建築の社殿の造営工事なども、これからであった。確保した社領も、あまりにも広大すぎるとして、その一部が売却されたり、天皇から「下賜」された、伊勢神宮に次ぐ破格の待遇である、(米)1万石もの運営費は、政府の国庫不足のため、半額の5000石が、返上されたりもした。

一方、京都、東京だけではなく、各地での招魂社建設も、進んでいった。1872年までに、その数は100社を超えた。

1874年、明治天皇は、初めて、その年の、東京招魂社の例祭に、参拝した。当時、同社は陸海軍の共同所管となっていたが、この日は、陸海軍の部隊参拝が行われ、天皇は境内で、これを閲兵した。

しかし、当時、政府は必ずしも、順風満帆というわけではなかった。西郷隆盛、板垣退助、江藤新平ら、維新の功労者であった重臣たちが、次々と、下野し、江藤は旧佐賀藩士を糾合して、佐賀の乱を起こした。その佐賀の乱での、政府軍の戦死者200人余りが、新たに、同社の祭神として、合祀された。新政府初の対外戦争である、「台湾出兵」も強行され、その戦死者もまた、合祀されることになった。

1877年には、西郷隆盛による西南戦争も勃発し、8カ月にもおよぶ激戦の結果、政府軍の死者は、実に、6000人を超えた。その戦死者を合祀する臨時大祭には、明治天皇が3度目の参拝を行い、以降、その臨時大祭のたびに、天皇が参拝することが、恒例化した。

こうして、東京招魂社は、靖国神社への改称と、その下での、各地の招魂社整理・統合の道への道を、歩むことになった。

以下、続く。

 

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