チャールズ国王:なにもかも略奪品(König Charles:Das ist alles nur geklaut)

要約・翻訳:編集部

A.L.Kennedy
“Süddeutsche Zeitung “(南ドイツ新聞、2023年4月28日)
https://www.sueddeutsche.de/kultur/koenig-charles-kroenung-a-l-kennedy-gastbeitrag-1.5824892

*Alison Louise Kennedyは、スコットランド人の作家、学者、スタンドアップコメディアン。この記事は、英語で執筆されたものがドイツ語に翻訳されて掲載されたもの。

チャールズ国王が戴冠する ‐ 宝石は植民地から、残りの豪華絢爛は搾りに搾り取られている臣下が支払う。その通り、英国民はどこかおかしい。

一般の市民に関して言えばかなり経済的にひっ迫しているある一国が、あと数日で謎めいた式典に何百万ポンドという金額を支出することになっている。しかもこの式典というのは、機嫌の変わりやすい老人が、やたらと飾り立てた帽子を被る、というものだ。この男はさらに頭に油を振りかけられることになっている。サラダのようにウェイターからかけられるのではなくて、大司教から半神のように恭しくかけられるのである。この帽子を被って初めて彼が王になるわけではない。彼はすでに王だ。女王が死んだとき、彼はなんの間も置かず彼女の地位に取って代わった。まるでスリの手が、無防備な被害者のポケットから何かを取り出した手から略奪品を受け取るように。一瞬でも我々が君主なしの状態になって生きることがあったとして、それですぐに蛙が空からたくさん降り落ちてくることがなければ --このような災害に私たちは今のところ悩まされていないが -- そうすればもしかして、このような君主制は時代錯誤で、馬鹿げた、経済的な負担に過ぎないものであるかもしれないという考えが閃くのかもしれない。しかし、そんなことはあってはならない! 少なくとも、そんなことは絶対だめだ、と私たちは言い続けられている。

支配者たちにその存在の正当性、認知度、聖なるステータスを与えるために、戴冠式は何世紀もかけてどんどん洗練されてきた。イギリスメディアは私たちが「祝賀で一つに結ばれる」と書き立てている。彼らは我が国の「ミストリーティッド」ロックバンドを見にやってきて、トランピスト的規模で使われる金箔や「ゲーム・オブ・スローンズ」の茶番劇に驚く外国人とのインタビューも掲載している。そこかしこで旗が買える。もう一度言おう。それ以外のあり方はどうやらないらしい。

一度くらいこうして、例外的に緊急に必要な公的資金を国会議員のお友達に上げたり、私たちの暮らしを苦しめているエネルギー供給会社や水道サービス供給者に補助金を与えないでくれることに喜びを感じてもいいほどではある。その代わりに私たちはしかし、生まれつきの億万長者たちに高価なプレゼントを差し出し、洒落た衣服を提供して、同時にそのステータスを強固にしている。ふむ、あまり聞こえのいい話ではないではないぞ。

ほかの国の人たちは私たちが正気を失っていると思っているに違いない。

さらに、私たちが望む望まないに限らず、きっと今も小児性愛障害的犯罪者であるジェフリー・エプスタインとの関係についてFBIと話すことがあるだろう、汗をかくことのない王子アンドリューがこの戴冠式により再び社交界にカムバックする機会を与えられることも好ましくない。背信者となったハリーとメーガンは最近メディアでの大々的な攻撃を強めて、英王室の「ファーム」があまり「愛すべき存在ではない」ことを言いたてている。しかし「神聖な」血統、奴隷貿易と略奪してきた宝石でできた財産を礎の上に、それが彼らの当然の権利だという思想で何百年も続いて築かれてきたこの砦が、さして愛すべき存在ではありえないことは前から明らかだった。ただ、それを認めるというわけにはどうしてもいかないのである。

この君主制を無用の長物と思っている人たちがたくさんいるのはしかし事実だ。世論調査によれば、女王生前の頃と比べ、王室の支持率はかなり低くなっている。ことに若い人たちや、海外に住むイギリス人の間では、人気は急激になくなっている。ウィンザー家は、水増しした歴史、大きな耳、変わった歯、じゃがいも頭と行儀の悪さ、そして危機に満ちた夫婦仲がミックスした一家だ。しかし、一度君主がその「聖職受任権」を終えると、英国民はその君主を受け入れることを求められるのだ、時には死刑にするぞという脅しをかけられることすらある。彼、または彼女は国家なり、である。何でも構わない、ただ英国式でどうぞ。我々の支配者たちのほとんどがその昔はほぼフランス語しか話さなかったが、それでも、である。

外国の人たちは私たちのことを正気を失っていると思っているに違いない。ブレグジッドはことにそれが顕著となった証拠だ。しかし今や我々はついに、歴史的に問題の多い旗を振り回し、ごみを前庭に置きっぱなしにして奇妙な儀式を行う、不快なお隣さんになりきってしまった。王がいるからだ。

賢い貴族たちなら、ハリーの真似をして位から退き、ただ金持ちの、細かいネットワークで結ばれている人たちになることもできる。ある程度「役に立つ」存在になるという考えに慣れることすら可能な人もいるだろう、もちろん、衣装を着けて馬に乗りながらキツネ狩りをしたり、情の暖かさに触れることがなかった子ども時代を克服するための助けとしてたくさんのセラピーを受けた後での話だ。チャールズはしかし豪華絢爛な戴冠をするのに、一般英国人は英国銀行のエコノミストに、今までより貧しくなっても仕方がないと思え、と言われなければならないのだ。チャールズは万年筆がうまく書けないだけで怒りをあらわにする。そして今や彼は、何十年来不倫関係を続けてきた女性と結婚しているが、最初の結婚相手であるシカのような眼をした二十歳の女性は、地雷に反対して戦い、事故死を遂げ、エルトン・ジョンを悲しませた。

女王が自分の影響力を微妙なやり方で行使してきた傍ら、チャールズは手紙を通じて政治に口を挟み、自分が所有する田舎の土地でできたブランドの無農薬のクッキーを馬鹿高い値段で売ることで知られている。彼の環境への貢献は、どうやら自分の環境を中世的な田園風景に変えたいと思っているだけのように見える。チャールズのカミラに対する奇妙な愛情のメッセージが時折リークされて知らされたが、それを読んだ私はかなり長きにわたる精神的痛手を受けた。そしてこうしたコントラストを感じるのは私一人ではない。ハッシュタグ「#NotMyKing」はツイッタートレンドとなり、事細かく警察に監視されたデモにまで発展した。チャールズが王座に就いて以来彼に投げられた卵は、今ではかなり立派なオムレツが焼けるだけの数となっている。エリザベス生前には考えられなかったことだ。

納税者たちはどんどん増えていく女王のための支出を担ってきたが、その代わり彼女の犬はかなり小さくてかわいかった。

しかし、生活が整然と機能している、理性ある大陸のヨーロッパ人の人たちにも、どうしてこのようなことが興味深いものとみられるのだろうか? 一つの理由として、それは国家というものと関係があり、もう一つは世界の数々の毒性の一つである我々のメディアと関係している。

国に対する私たちの自己像(セルフイメージ)に関して言えば、こういうことが言える。どんな悪が私たちに降ってかかろうと、王家と、ことにエリザベスは私たちの国としてのアイデンティティを固定することのできる定点となっていた。エリザベスの伯父、エドワード八世は、その他のたくさんの貴族と同じように30年代、気まぐれというよりはかなり本気でヒットラーに興味を示していた。彼は家族の子どもたちにヒットラー式敬礼をさせていたことが、かなり恥ずべき写真として証拠に残っている。エドワードに対して行われた国外追放奨励は成功し、エリザベスの父親がその穴を埋めることとなったが、エリザベス自体はその時シックなユニフォームを着て軍役をこなしているところだった。

配給とかなり社会主義的ともいえる価値に特徴づけられた50年代、私たちイギリス国民には公的医療制度とインフラストラクチャーがあり、どちらもちゃんと機能していた。多くの人々にとって、戦前より生活が楽になった。エリザベスの輝くような、テレビで生中継された戴冠式は、許されるもののようにも、面白いものとも見えた。エリザベスはカウンターカルチャーに満ちたスウィンギング・シックスティーズの60年代、パンクの70年代、欲の深い80年代を生き延びた。彼女は居残った。そしてさらに居残った。彼女はどんどん効率よくなるPRキャンペーンで、現代的で親しみを感じる、質素な嗜好の女王として描かれていった。もちろん彼女は時として、どこかで盗まれてきた宝石をじゃらじゃら身につけていたこともあったし、いくつもお城を所有していた。それでも彼女はセーターを着てスコットランドチェック模様のスカートを履いた若い母親でもあった。そう、それから私たち納税者たちが彼女のためのどんどん増加していく支出を負担していく中、彼女の不動産財産や彼女の資産で行われる投資は彼女に何百万ポンドもの収入をもたらしてきた。しかしそれでも彼女の愛犬はとても小さくてかわいかったのだ。エリザベスが馬とは無関係の文化的イベントなどに行くと、どこかに迷い込んだ羊のように見えたことが少なからずあっても、彼女は鋭い理性の持ち主で驚くべきユーモアのセンスがあると言われ続けてきた。

エリザベスは結局のところ、代々受け継いできた紅茶道具一式に似ていたともいえる。かなり使いにくく、飾り立て過ぎのデザインで、簡単におちゃらかしたりできる存在という感じだ。それでもちょっとしか嘲けてはいけない、だってこの一式もこの一族の一部なのだから。チャールズが王になったとき、彼は、何十年も続いたエリザベス式持続性 --メディアが君主の名のもとにプロパガンダをし続けてこれた数十年 --のあとに続くことになった。私たちをこんなにも分立させているメディアが、この君主制という制度を国の統一性の象徴として濫用して新聞の売上を増やそうとしているのだ。メディアはエリザベスのことを、国のおばあちゃんとして愛していたのではなく、彼女の地位がその核心のところで反民主主義的だったからこそ愛していたのだ。

チャールズは若い時いい意味で風変りだった。

メディアは常にロイヤルファミリーへの繋がりを保証された形で持ってきた。彼らのスキャンダルは厳しく嗅ぎつけられ、膨らまされ、それが売り上げを伸ばし、彼らを支持している政治家の失態から目を背けるために使われてきた。しかし突然、もうこの国 --この絶望の淵から別の絶望の淵へと揺らいでいるこの国 --を安定してきたエリザベスはいなくなり、彼女の直系親族、ことに彼女の子どもたち --馬にしか関心のないアン、つかみどころのないエドワード、悪評高いアンドリューそしてチャールズ --しかいないのだということが明らかになった。若い時チャールズはポジティブな意味で風変わりで、リラックスした雰囲気で、生まれつき話がうまく、父親のフィリップとは感じよく差が出ていた。フィリップと違ってチャールズは人種差別的発言をしたり、水夫のような悪態をつくことはなかったからだ。そして今はどうだろう? 今彼は時代遅れで、注文が多く、王座に早く就きたくてたまらない貪欲さを見せている。長く待たされ過ぎた王座に。

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