ノー!ハプサ(ノー!合祀)訴訟について

浅野史生(ノーハプサ訴訟弁護団・弁護士)

1 ノー!ハプサ第1次訴訟は2007年2月26日原告団11名をもって提訴、第2次訴訟は2013年年10月22日原告団27名をもって提訴しました。第2次訴訟は2014年7月9日の東京地裁第1回口頭弁論に始まり、現在は2023年1月17日の東京高裁での口頭弁論をもって結審し、同年5月26日に判決が言い渡される予定となっています。

2 現在、靖國神社においては、アジア・太平洋戦争で戦没した韓国人元軍人軍属の方々20,636名(『靖国神社問題資料集』1976年)あるいは21,181名(『東京新聞』1995年8月26日)が「英霊」として合祀されています。

原告団はこの戦没者(被合祀者)の御遺族です。原告団の請求は、靖國神社に対しては、被合祀者に関する記載を霊璽簿、祭神簿及び祭神名票からの削除など、日本政府に対しては、日本政府が靖國神社に対して被合祀者に関する情報を提供したことの撤回などです。

3 原告団の請求の理由を端的にいうならば、〈大日本帝国は朝鮮半島を侵略支配し、植民地とした。多数の韓国人は大日本帝国の戦争に軍人軍属として動員され、戦後に至り「天皇のために闘い、命を落とした者」として靖國神社に「英霊」として合祀されている。これはとんでもないことだ。天皇のために戦争に強制動員され命を落としたことが第1の被害であるとするならば、天皇の神社である靖國神社に合祀されていることは第2の被害である。靖國神社に韓国人戦没者が合祀されていることは、いまだ韓国人戦没者が「皇国臣民」であり、朝鮮半島は大日本帝国の版図として位置付けられていることにほかならない。この事態は遺族に耐えがたい苦しみをもたらしており、遺族の人格権を踏みにじるものである〉というものです。

以下、この請求の理由をいくつかの視点から敷衍します。

第1に、靖國神社の歴史からする靖國神社の本質論です。靖國神社の前身は、1869年の明治政府の太政官布告により創立された東京招魂社に遡り、1879年に靖國神社と改称しました。靖國神社の創立は「明治天皇の思し召し」によるものとされ、以降、天皇のために闘い命を落とした者を慰霊・顕彰する神社として位置づけられてきました。そして、日清・日露戦争といった本格的対外侵略戦争における戦没者の増大は、靖國神社の地位を高め、「死んで靖國神社であおう。」との言葉に象徴されるように、その後のアジア・太平洋戦争に至るまで、日帝の軍事動員を下支えする軍事的国家機関でした。1945年8月15日の敗戦・朝鮮半島解放も靖國神社は生き延びることに成功しましたが、戦後憲法体制下においても靖國神社はその性格を一切変えることなく、天皇の兵士を祀る神社であり続け、明治以来の帝国主義戦争を「聖戦」と捉えています。遊就館の展示の中には「アジアの独立が実現したのは、大東亜戦争初期によって植民地の権力が打倒された後であった。日本軍の占領下で一度燃え上がった火は、日本が敗北した後にも消えずに続けられ、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した」とあり、インド、インドネシア、フィリピン、ミャンマー、ベトナムなどは「独立」と表記されているものの、朝鮮半島と台湾は「独立」と表記されていません。ここに靖國史観があけすけに語られています。このように靖國神社は、一貫して軍事的国家機関としての戦争神社・侵略神社としての本質を有していますが、そのようなところに韓国人戦没者が合祀されることは誰の目から見ても許されないはずです。

第2に、日帝による朝鮮半島侵略支配の歴史と靖國神社の関係です。なぜ、朝鮮人が日帝の戦争に狩りだされ、命を落とさなければならなかったのか。それは、1875年の江華島事件以来の朝鮮半島への軍事侵略、植民地支配の歴史と一体不可分のものです。朝鮮神宮の創建など神社政策は植民地支配を支える大きな柱でした。また、日帝の対外侵略戦争初の合祀は、江華島事件における雲揚号甲板員の戦没者「村松千代松」です。さらに、靖國神社においては、朝鮮半島における軍事行動の過程(とりわけ義兵闘争に対する弾圧)において戦没した日本軍警が多数合祀されているし、「昭和殉難者」として合祀されているA級戦犯小磯国昭は朝鮮総督、板垣征四郎は朝鮮軍司令官の経歴を持ちます。このように、韓国人戦没者は、日帝朝鮮半島支配の下手人・指導者と共に「英霊」として合祀されているのです。

第3に、戦後における靖國神社合祀の経過です。戦後における靖國神社合祀は日本政府と一体とって行われています。戦後の靖國神社合祀が遅遅として進まなかったことから、日本政府と靖國神社が度重ねて打合会を行い、合祀基準を策定し、日本政府が戦没者の情報を靖國神社に提供し、それをもとに靖國神社合祀が行われるという体制が構築されていきました(1956年4月、3025通達体制)。韓国人軍人軍属戦没者の合祀もこの3年後の1959年から本格化していきます。日本政府と靖國神社の一体性を示す資料は、国会図書館の『新編 靖國神社資料集』など多数ありますが、例えば、1952年10月12日付け厚生省引揚援護局作成の「合祀について」においては、①敗戦後の1945年11月19日に臨時大招魂祭が行われ、同年9月2日までに戦没した軍人、軍属で合祀未済の者を一括招魂したが、②その後、「合祀について」が作成された1952年10月の時点では、合祀通知状を発送したものは1946年4月合祀のものまでで、その数は29万9969人分しかなく、合祀未済数は127万9042人であるという戦没者合祀の現状が記され、この事態について「毎年の合祀を陸軍十万としても、十三年を要する。かくの如き緩慢さは許されないし,又、鎮斎をもって合祀終れりとするわけにもいかない。」という戦没者合祀が遅々として進まない危機感と「有志同憂の方と共に神社の合祀を協力する」という戦没者合祀に向けて靖國神社に協力する方針が明白に述べられています。このように靖國神社合祀は日本政府と一体となって推進されてきました。1946年から1961年だけをみても190万人を越える大量の合祀がなされていますが(現在は240万人を超えます)、そもそも被合祀者の情報は日本政府が保有・管理しているのであって、被合祀者の情報の整理、記録、合祀基準に合致しているか否かの判断などは、靖國神社のみでは到底行うことはできず、国家的関与がなければ、こういった大量の合祀を行うことは不可能です。

4 このような日本政府・靖國神社一体となった合祀により、原告団御遺族は耐え難い苦痛を受けています。しかし、訴訟では、日本政府は「『3025通達』の趣旨・目的は、多くの遺族が望んでいる靖國神社合祀の遅れの問題に関し、遺族援護の見地から、一般的な調査回答業務の一環として行政サービスの改善を行うことにあった。」などと主張し、靖國神社はもっぱら自衛官合祀訴訟最高裁判決(1988年6月1日)を引用し、責任逃れを図ろうとしています。

こうした詭弁・開き直りを許さず、弁護団としては原告団と共に闘っていく決意です。引き続きご支援ご協力をお願いいたします。

 

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