「君が代」不起立処分から見えてきたのは天皇制による秩序維持

根津公子(2010年度まで東京の教員)

1. 東京・大阪の「君が代」処分

東京都教委は2003年度から、大阪府教委は2012年度から卒業式・入学式における「国歌斉唱」の際に、起立・伴奏を拒否する教職員に懲戒処分(以下、処分)を科してきた。東京では現在までに延べ484名が、大阪では延べ67名が処分(うち、2名は職務命令が発令されなかったことが裁判で明らかになり、処分取消し)された。それよりずっと前の1987年から北九州市教委は「君が代」処分を始めていた。

処分は「君が代」起立(音楽科の教員は伴奏)をしなかったからではない。校長が出した職務命令にしたがわなかったからだ。地方公務員法32条の「法令等及び上司の職務上の命令にしたがう義務」に違反したからということだ。

また、「校長は校務をつかさどり、所属職員を監督する」(学校教育法28条)に即せば、職務命令を出すかどうかの決定権は教委ではなく、校長にある。教育の独立性を担保するために、教委は校長に「指導・助言」はできるが、指示・命令はしてはいけないことになっている。こうした法令を無視して都・府教委とも校長に「君が代」起立・伴奏の職務命令を出すよう通達を発し、校長たちはこの職務命令を問題視しながらも職務命令を発出している。

卒業式・入学式で「日の丸・君が代」の実施を強制したのは、1989年改訂の学習指導要領だった。「国旗を掲揚し国歌を斉唱するのが望ましい」としてきたそれまでの記述を「…斉唱するよう(教員は児童・生徒に:筆者補足)指導するものとする」と変えたのだった。当時、教委からの強い「指導・助言」に校長たちは、「天皇を讃える歌『君が代』までは式に入れないが、『日の丸』掲揚はさせてほしい」と職員会議で言い、職員会議の決定を反故にした。あるいは、職員会議で採決をさせなかった。したがって当時の処分は、校長の揚げた「日の丸」を降ろしての処分だった。私も1993年度の卒業式で、職員会議の決定を反故にし、生徒たちの大勢が「校長先生、揚げないで」と声をあげる中、校長が揚げた「日の丸」を降ろして減給1月処分とされた。

そもそも、「日の丸・君が代」を学校教育に復活させたのは、1950年の文化の日を前にした天野貞祐文相の談話が最初。「国旗を掲揚し、国歌を斉唱することもまた望ましい」と言い、1958年改訂の学習指導要領に登場させた。天野文相は「私がこういうことを唱えたのは別段大学生とかそういう人たち、あるいは知識階級が目当てじゃないのです。小学生なのです。・・・何も理屈じゃなくて、感覚的にそういう気持ち(国のために自分が働く)を持たせたいので…」と言った。敗戦の区切りなく、政権は「日の丸・君が代」愛国心教育を徐々に復活させ、現在に至る。

一体、なぜ「君が代」不起立処分をするのか。都教委は、「儀式的行事として、会場全体が厳粛かつ清新な雰囲気に包まれることは、児童・生徒にとって、無形の指導」であり、「起立する教員と起立しない教員がいると、児童生徒は起立しなくてもいいのだと受け取ってしまう(から、起立しない教員を処分する)」のだという。上からの指示には考えずに従うことを子どもたちに刷り込む、それに邪魔となる教員は排除するというのだ。70年前の天野文相の発言に通じる。

2. 私が受けた「君が代」不起立処分とそれに対する私の行動

1989年学習指導要領が出された時点から、私は「日の丸・君が代」について子どもたちが自身の頭で考え判断できるよう、「日の丸・君が代」について書かれた、戦前の修身の教科書や日本に侵略されたアジア諸国の教科書等を使って特設授業をしてきた。「日の丸・君が代」だけでなく、何ごとも、子どもたちが自身で考え判断できるよう、教員はその資料の提供と考え合う機会をつくるべきと考えるからだ。教科書が隠す事実を授業で取り上げてきたのは、私の受けた学校教育が侵略戦争の事実を教えてくれなかったことへの悔恨と気づきからだった。

「君が代」不起立で私は、2004年度卒業式で減給6月処分、05年度入学式で停職1月処分、同年度卒業式で停職3月処分、06年度・07年度・08年度卒業式では毎回停職6月処分とされた。09年度卒業式は娘の病気で休職し、10年度卒業式は福島原発事故による節電で多摩地区は電車の運休が続き、卒業学年のみの卒業式となり、処分とはならなかった。

私を除く不起立処分は、1回目が戒告、2回目が減給1月、3回目が減給6月だが、私については、それ以前に受けた2回の減給処分と2回の文書訓告を累積して1回目の不起立が減給6月とされた。

都教委は、職務命令違反による処分は累積加重処分にした(2012年最高裁判決が出されたことで戒告と減給1月に変えた)。一方、体罰やセクハラでの処分は回数を重ねても「戒告」とした事例が目立つ。私が停職6月処分にされた当時、呼吸器に障害があり注入器で食事を接種する必要のある生徒の唇に…ワイン…を塗った教員、一人の生徒にクリスマスプレゼントとして黒い縁の写真立てを贈り、同生徒の家族に恐怖心を抱かせた教員が、信じられないが、実際にいた。即刻解雇が当然であろうが、都教委のした処分は、私と同じ停職6月処分。都教委がどれ程、職務命令にしたがわない教員を忌み嫌うかが見て取れよう。

停職1月処分とされて、私は勤務時間帯に勤務校である立川二中の校門前に立ち続けた。これも生徒たちに対する事実の提示。放課後の校門前は部活動の最終下校時刻まで、「日の丸・君が代」をはじめとする政治的課題を語り合う場と化した。生徒の一人は、「石原都知事に言いたいたった一つのこと」と題して調べたことや自身の意見を書いたプラカードを作って、私のプラカードの横に立ててくれた。根津がいたから「日の丸・君が代」について考えることができた、と何人もの生徒から言われた。停職「出勤」は停職中の私の授業、と思い、どの学校でも行なってきた。

3. 「日の丸・君が代」を学校教育に持ち込ませない

「日の丸・君が代」は戦前戦中の学校教育で子どもたちを戦場にかりたてたウタとハタ。日本が侵略したところに立てたハタ、と私は認識していた。「従軍慰安婦」にされた金学順さんが日本政府に謝罪と補償を求めて提訴しに来日した1991年に語られたことば、「…日の丸という言葉を聞くだけでも、頭の中がくさってしまうほどいやな体験をしてきたのです。今でも日の丸を見ると胸がドキドキするのです。…」は、衝撃だった。侵略戦争を反省するならば、使ってはならないウタとハタと私は考えてきた。

元首であり、侵略戦争を指揮した天皇裕仁だけでなく、裕仁死去後、その子もその孫も自身の父や祖父が起こした侵略について他人事のような言葉を発してきたことに私ははらわたが煮えくり返った。だから、一貫して、「日の丸・君が代」を学校教育に持ち込ませない闘いを行なってきた。

4. 「天皇制による秩序」維持か

05年春に朝日・東京新聞両社が東京の「君が代」処分について意識調査をしたところ、都民の6割が「不起立処分に反対」だった。教員の意識調査はされなかったが、反対はさらに多いというのが私の実感だった。しかし、はじめての処分となった04年卒業式・入学式での不起立・不伴奏教員は延べ243名。それは、小・中・高・養護の教員6万人のうちの0.2%。間違った職務命令には従わない・従えないと思った教員はもっと多くいたはずなのに、と私には不可解だった。

停職処分を受け続けクビにされるのを恐れ覚悟するなか、「日の丸・君が代」に反対する教員は多数なのに、起立・伴奏拒否者は多くはない。そこには、不利益処分を避けるためだけではない何かがあるのではないか。「日の丸・君が代」を拒否する行為が憲法1条象徴天皇制を批判することで、保護者から特別視されるという怖れを感じたのではないかと思うようになっていった。

6年生社会科学習指導要領は、「我が国の国歌『君が代』は,日本国憲法の下においては,日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌であること」「我が国の国旗と国歌の意義を理解し,これを尊重する態度を養う」「天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすること」と書く。授業を通して子どもたちに「天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国」を認識させ、「尊重」「敬愛の念を深め」させることは、憲法19条「思想・良心の自由」を侵害するはずなのに、天皇については「思想・良心の自由」を認めず、教員はこれを子どもたちに教え込めという。長じて、象徴天皇をいただく日本国民は近隣アジア諸国民よりも勝るという優越意識を子どもたちに、やがては社会全般に持たせようとしているのではないか。優越意識を持てば、政府に反感を持ったり、生活苦から労働組合に結集したりしなくなる、という見通しを政府・権力者は持っているのではないか。戦前の「「日本ヨイ国、キヨイ国。 世界ニ一ツノ神ノ国。」の焼き直しをしようとしているのではないかと思った。そのためには政府は侵略戦争について反省してはならないし、教材は天皇賛美につながる「日の丸・君が代」でなければならない。政府が侵略戦争を反省しないのは、被害国に対する補償問題があることは言うまでもないが、「日の丸・君が代」・天皇制を国体とする、「明治」以降の「秩序」が、日本国民を支配管理するのに都合がいいからと思うに至った。

さらに、自民党の憲法草案は現憲法が規定する「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に書き換えた。個々人の人権よりも「公益」を優先するとした。また、不起立処分撤回を求めた裁判で私は停職6月処分の2件が取消されたが、停職6月1件を含む4件は処分妥当とされた。理由は、「(根津が受けた)処分による不利益」よりも「学校の規律や秩序保持」を害したこと不利益の方が多大ということだった。双方が言う「秩序」とはやはり、天皇制秩序ではないのか。
はたまた、天皇制反対のデモは、他のデモとは比べようのない大勢の警察・機動隊による「警備」があり、右翼団体のデモ隊への突撃が毎回ある。沿道の市民からの視線も冷たく感じられる。天皇制批判がタブー視されている現実を私はデモに参加する中でも感じてきた。

私にとって後にそれを証明したのが、15年の戦争法に反対する国会前等の行動に参加している人たちの、会話だった。「安倍首相は平和を願う天皇を見習うべきよね」。何回も耳にした。“リベラル”と言われる人たちのその会話から、主権をもった戦前の天皇と違い、上下関係にない戦後の象徴天皇や天皇家は「国民」に受け入れられているのだと思った。報道機関は「天皇」ではなく「天皇陛下」、「愛子さん」ではなく「愛子様」でなければ報道許可が下りないと言うし、一般国民も同じ表現をする。天皇制が日本社会で活きていることを私は思い知らされた。ますます、「日の丸・君が代」を学校教育から排斥しなければならないと強く思う。

 

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