天皇訪沖でみる天皇制の本質的な機能と文化戦略

鉄火場 宏

異質な文化をソフトに包摂する「国民文化祭」
天皇徳仁が、10月22日・23日に沖縄を訪れた。10月23日に開催された「美ら島おきなわ文化祭2022」の開会式への出席のためである。

「美ら島おきなわ文化祭2022」とは、「第37回国民文化祭、第22回全国障害者芸術・文化祭」の統一名称である(2017年から、国民文化祭(文化庁)と全国障害者芸術・文化祭(厚労省)は合同開催となっている。国民文化祭の沖縄開催は初めてであるが、全国障害者芸術・文化祭は2回目となる)。国民文化祭には、徳仁は、第1回大会(1986年)から臨席していて、徳仁の地位の変化と共に、皇太子臨席に、そして天皇臨席の行事にとなっていった。

国民文化祭は、「地域の文化資源等の特色を生かした文化の祭典であり、伝統芸能や文学、音楽、美術などの各種芸術、食文化などの生活文化等の活動を全国規模で発表、共演、交流する場を提供するとともに、文化により生み出される様々な価値を文化の継承、発展及び創造に活用し、一層の芸術文化の振興に寄与するもの」(文化庁HP)とされている。今年の沖縄での開催は、「復帰」50年を強く意識したものである。国体・植樹祭など天皇臨席イベントは、コロナ禍で中止(順延)等されたが、「国民文化祭」は、2020年の宮崎県開催が、2021年7月に順延されたもの、2021年に予定されていた和歌山県開催は2022年に順延されることなく、予定通り同年10月に開催された。つまり2021年に2回開催することで、2022年(「復帰」50年目)の沖縄開催に漕ぎ着けたのである。

徳仁の即位(2019年)とともに天皇行事に「格上げ」されたが、その年は新潟県が開催地で、「天皇陛下御即位記念」と銘打たれていた。前述のように、翌年(宮崎県開催)はコロナ禍で中止、順延された2020年の宮崎県と同年の和歌山県の開催では、天皇はリモート参加であった。復帰50年の沖縄開催では、天皇臨席(リアル参加)が強く求められていたのであろう、徳仁にとって、即位した年に次ぐ2度目のリアル参加となった。

国民文化祭の狙いは、まず、新たな天皇臨席行事となったことで、天皇が順次全国各県を回る口実となること(実際には、植樹祭や国民体育大会と違って、全県一巡前にすでに2回開催している県も複数あるのだが)。理由が何であれ、天皇が訪問するだけで、訪問先では、自治体の組長をはじめとして行政に携わるものや関係者は、この国が天皇を中心とした国であることを意識することになるであろう。また、「国民文化祭」は「文化」をテーマに掲げることによって、植樹祭や海づくり大会が、山や海といった限定された場所で林業・漁業といった特定の産業しかその対象とできないことと比べ、その地域全般に大きく網を広げたかたちでさまざま活動を取り込むことが出来る。実際に今回の「美ら島おきなわ文化祭2022」は、10月22日〜11月27日の一月余りの間に、宮古島や石垣島など離島も含む全県下で、さまざまなジャンルの関連イベント(全日本健康マージャン大会といったものも含めて)が、200前後も開催されている。

昨年の宮崎県での開催は、「神話のふる里」高千穂を有する県ということで、「神武東征」神話なども含み込んだ、「天皇色」の非常に強い「国文祭」であった(「山の幸 海の幸 いざ神話の源流へ」がテーマ)が、それはむしろ例外的なものと考えた方がよさそうだ。「国民文化祭」は、天皇が中心にあることは変わりはないが、強制的に天皇の文化に包摂・統合するという方向を目指すものではなく、基本的には、「器」の提供である。天皇制国家の版図内にある(すでに版図とした)地域の多種多様な文化(琉球やアイヌなど)をすべからく入れるようにしつらえられた「器」を天皇制国家が提供する(あるいは天皇制国家そのものがその器となる)といったイメージだ。その文化の源流がヤマト文化の埒外にあろうとも、それをそのまま受容するといったソフトな包摂戦略である。そうした文化戦略を可視化する役目を「国文祭」は担っているのではないだろうか。

民衆の怒りを「慰撫」し、構造的差別を持続させる天皇の役割
天皇制による包摂(統合)戦略は、沖縄をめぐる政治状況でより顕著になる。

徳仁の沖縄訪問は、1987年(海邦国体)以降、これまでに5回(内4回は皇太子として)ある。6回目の今回は天皇として初の訪沖である。ちなみに明仁の訪沖は11回(内天皇としては6回)。

訪問初日の22日には、「平和の礎」を訪れ、戦争の遺族と会い(これは復帰50年記念式典の際に会うことになっていた遺族)、以下のような「感想」を残した。

「戦没者墓苑については、わが国で唯一の激しい地上戦が行われた沖縄の人々の苦難を思い、犠牲となられた方々のご冥福をお祈りしました。その後、ご遺族の方々のお話を直接うかがい、それぞれの方の悲しみとご苦労を思いました。/平和の礎については、地域や国籍を問わず、沖縄戦で亡くなられた全ての人々の名前を刻み、今も毎年、新たな名前が刻まれていることに感慨を新たにしました。(略)沖縄戦の悲惨さや私たちが現在、享受している平和のありがたさを思い、改めて平和の大切さを心に刻みました」

これは、先代の明仁天皇が積み上げてきた「沖縄への思いを寄せる」路線のまったくの継承でる。

今回の訪問を報じるTVなどのメディアは、沖縄戦の悲惨を伝えた後、沖縄の人々が、裕仁の沖縄訪問を許さなかったこと、そしてそのかわりに訪れた明仁が、ひめゆりの塔で火炎瓶を投げつけられたこと、メディアによっては、1987年国体での知花昌一さんの「日の丸」焼き捨てた事件にも触れて、沖縄民衆には反・嫌天皇(制)の強い感情が存在していたが、明仁天皇やそれを継いだ徳仁天皇による「沖縄に心を寄せる」という姿勢によって、ほぼ解消されて現在に至っている——そういった物語をしきりと伝えていた。

辺野古基地問題では、中央の自民党政権と真っ向から対立している玉城デニー沖縄県知事でも、「両陛下の出席は『県民にとり、この上ない喜びで、県民挙げて歓迎申し上げる』」と発言していることに象徴されるように、明仁・徳仁天皇による沖縄民衆の「慰撫」作戦は、時間の経過という味方もあって、ほぼ成功しているのである(もっともすべて人びとの声が消えているわけではもちろんない→「『沖縄丸ごと懐柔策だ』両陛下出席の国民文化祭に反対、シンポジウムで訴え」(「琉球新報」10/23(日)11:14配信))。

しかしそうした「慰撫」されてしまった現実こそが、現在の天皇制の機能を炙り出している。

確かに、多くの戦争の経験者や戦争遺児らの反・嫌天皇感情は、明仁や徳仁の行為によって、慰撫されているのであろう。しかし問題は、戦前・戦中から終戦にいたるまでの過程と同様に、戦後の今日までも、「日本(ヤマト)」による沖縄の差別的な利用が一貫として継続されているという事実が一方に厳然としてあることである。

天皇制は、戦前までは、政府の中核(不可侵の存在)として、強権的に沖縄を支配しつづけ、最後は「国体護持」のために「捨て石」とした。戦後は、裕仁による沖縄の米軍への売り渡しが為された後は、日米安保体制下での沖縄への米軍基地の押しつけ、軍事要塞化が進められた。こうした政府の沖縄に対する構造的差別政策は、戦争の記憶と基地負担に苦しむ沖縄を「慰撫」する象徴天皇制がバックアップすることによって継続し得たのである。

沖縄の差別的利用は、今日では、南西諸島への自衛隊配備(ミサイル基地化)等の加速により、再度の戦場化を危惧する声も高まっている。

個々人の気持ちに寄り添い「慰撫」することによってその感情を取り込み、怒りや嫌悪を解消させている一方で、日本(ヤマト)と沖縄の間にある構造的差別は、なにひとつ変わらず継続されている。

つまり、象徴天皇制は、現実の政治から切り離された(ように振る舞う)天皇が、個人に切り縮められた良好な関係を「国民」との間に築くことによって、政府の政策を実現しやすくするシステムなのである。現実の政治を支えるこの超政治な役割を担う現在の天皇制の本質的を見誤ってはならない。

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