【連載】反靖国 ~その過去・現在・未来~ 1

天皇制を考えるにあたり、「靖国神社」は避けることのできない問題です。「靖国」は 
その思想、制度、実質的な被害など考えるべき課題も多く、また歴史も長く複雑です。
「靖国神社」に反対する運動も続いていますが、知る人は決して多くありません。
そのようなわけで「靖国神社」の全体像に少しずつ迫っていく連載を開始します
執筆者は土方美雄さんです。土方さんは〈靖国問題研究会〉の創始メンバーの一人で、
『靖国神社国家神道は甦るか!』(天皇制論叢、社会評論社、1985)、野毛一起さん・
戸村政博さんとの共著『検証国家儀礼1945〜1990』(作品社、1990)のほか、
「靖国神社」関連の論文など多く発表されています。
この連載は「靖国神社」の問題を理解するための手がかりになることと思います。
 どうぞ、連載をお楽しみに。

1 靖国神社とは、一体、どんなところなのか?

土方美雄

【プロローグのようなもの】

この原稿は、多分、靖国神社問題の過去から現在までの、わかりやすい解説を・・という意図で、多分、私に依頼されたのだと思う。でも、全然、関係のない、ある男との出会いのシーンから、書き始めることを、どうか、お許しいただきたい。

当時、私は、故あって、某党派の活動からはリタイヤしたものの、その党派と完全に決別したわけでもなく、つまり、週に一度のペースで、その党派の担当者が、機関紙等を届けに、家にやってきて、あれこれ、話をして帰るという日常を、非積極的にであれ、半ば、受け入れていた。ある日、その担当者から、これからある人の家へ行って、情勢について自由に話し合う、少人数グループのミーティングに参加しませんか?といわれて、行くことにした。そのある人というのは、板橋区大山のボロ(失礼ッ)アパートに住んでいて、行くことは伝えてあるというが、行くと、ドアは開いていたものの、部屋には誰も、いなかった。しかたなく、一緒に行った複数の人たちと、しばらく待っていると、その部屋の主が、湯上がりであることが明白な、真っ赤な顔をして、首にタオルを巻いて、戻ってきて、「悪い、悪い」といいつつ、いきなり、冷蔵庫から牛乳のパックを出して、ゴクゴク、飲んだ。その、まるで健康優良児のような男が、その後、一緒に、靖国問題研究会をつくることになる、高橋寿臣である。

その少人数によるミーティングというのは、どうやら、その党派の「問題児」ばかりを集めた集まりだったようで、かなり長く、ミーティングは続けられたが、所詮、「反党分子」のたまり場にしか、ならなかった。それはともあれ、こうして、高橋寿臣とのつき合いが、始まることになった。

その後、高橋らと靖国問題研究会というグループを始めたのは、1981年のことだ。その経緯を、私は1987年に出した『反靖国論集』(新地平社)の中の、座談会「私たちにとっての反靖国闘争」の中で、以下のように、語っている。

土方 81年の4月29日に、(宗教学者の)村上重良氏を講師にした「反天皇制・反靖国集会」があり、それに参加した人の中からその総括として恒常的に反靖国闘争に取り組もうという意見が出て、その年の五月か六月に靖問研を結成し、9月からニュースを出しはじめたわけです。

その前年の1980年、6月に総選挙があり、自民党が大勝した。その選挙の際、自民党は選挙公約のひとつとして、「靖国公式参拝」「国家護持」を、公然と掲げて、大勝の勢いをかって、その年の8月15日、当時の鈴木首相以下全閣僚が、靖国神社に参拝した。以降、同神社の春と秋の例大祭や、8・15に、150から200人もの、主に自民党の国会議員が、靖国神社に集団参拝するようになった。事実上の、公式参拝の既成事実化である。

そうした状況下での、靖問研の結成だった。

土方 それ以前、(19)78年ごろから、私の所属していた「狭山を闘う西部の会」と、部落解放同盟江戸川支部の有志とが中心になって、毎年4月29日に「反天皇制集会」をやっていました。81年の段階では、たまたま靖国問題がクローズアップされてきた時機でもあり、参加団体を拡げるために一日実行委員会形式にして、「反天皇制・反靖国集会」として、天皇制攻撃の本質的かつ重要な柱としての靖国攻撃をとらえていこうということになった。そして村上重良氏を講師に招くだけでなく、氏の『国家神道』(岩波新書)の読書会を事前にやったりした。そうした蓄積があったこともあって、総括後、恒常的に靖国問題に取り組んでいく会をつくろうということになったのだと思います。

これを受けて、高橋寿臣は次のように、語っている。

高橋 単純に言って、村上氏の本を読んだり、話しを聞いて、靖国問題は本当に重要な問題だと思ったということにつきますね。

だから、とにかく靖国問題の現状について知ろうということで、キリスト者に資料をもらおうとか、学習会をやることくらいしか考えていなかった。メンバーそれぞれ仕事や運動をかかえていたし、月1回の例会・学習会、2ヶ月に一度のニュース発行、キリスト者の月例デモへの参加が当初考えた活動内容でしたね。

こうして、靖国問題研究会という、弱小グループが、スタートすることになった。

(注)狭山を闘う西部の会 私が、当時、受講していた、東中野にあった、今はなき新日本文学会が運営する、日本文学学校の仲間等と結成した、狭山差別裁判糾弾闘争を闘う小グループ。新日文には、当時、敬愛する狭支連事務局長の、石田郁夫がいた。
(注)靖国問題研究会 主に、反天皇制の立場から、靖国問題を考えていこうということで結成された、労働者・市民の集まり。前述の高橋寿臣をはじめ、芥川治子、小山邦男、谷川透、そして、私が、その初期メンバー。


1 靖国神社とは、一体、どんなところなのか?

靖国神社とは、一体、どんなところなのかを知るには、あなたが東京近郊に住んでいる人であれば、実際に、靖国神社へ行ってみるのが、一番、手っ取り早い。靖国神社への最寄り駅は、地下鉄・東西線か、都営・新宿線の九段下駅で、一番出口を出れば、すぐそこに、靖国神社の大鳥居がそびえ立っているのを、見ることが出来るだろう。

同神社の公式ガイドブックは、所功著『新・ようこそ靖国神社へ』(近代出版社)で、もし、品切れでなければ、遊就館(博物館)のミュージアムショップで、購入できるハズ。もちろん、それ以上におすすめしたいのが、辻子実著『靖国の闇にようこそ 靖国神社・遊就館 非公式ガイドブック』(社会評論社)。2007年の刊行なので、こちらも絶版になっていないと、いいのですが・・。

靖国神社の大鳥居(第一鳥居)は、「雲を突くような大鳥居」と、歌われたものだが、再建された今の大鳥居は、やや小さくなって、高さ25メートルほどのもの。それをくぐると、幅広い参道が、拝殿・本殿まで、一直線に、続いている。あとは、ひたすら、その参道を、歩けばよい。

途中、立ち止まって、見るべきものは、まずは、大鳥居からすぐにある、大村益次郎の銅像。

大村益次郎は、長州藩・明治維新政府の、軍事的指導者の一人で、靖国神社の前身である東京招魂社の創建に奔走し、自ら、幕府の歩兵訓練所があった九段坂上を、その候補として選定し、たった10日の突貫作業で、仮本殿と拝殿を建立した。戊辰戦争が終結した、1859年のことである。とにかく、一日も早く、幕末から戊辰戦争までの、明治維新府側の戦死者を、慰霊・招魂する必要があったからである。

この大村益次郎像は、片手に双眼鏡を持ち、ある方向を向いて、睨みをきかせている。それは、幕府軍との激戦があり、自らが、指揮をした上野の方角であると、いわれている。

もともと、幕末から維新にかけての、血で血を洗う、激しい内戦の中で生まれた、招魂の思想は、中でも、長州藩において、もっとも早く、芽生えたものであると、いわれている。考えてみれば長州藩は、幕末・維新の激動期に、もっとも多くの血を流した藩だった。1863年、下関砲台から、米商船を砲撃し、他藩に先駆け、無謀な「攘夷」を決行したが、その報復で、米・英・仏・蘭の四カ国連合軍による集中攻撃を受け、下関砲台は破壊され、多くの藩兵に死者が出た。同藩は、下関に招魂場設け、戦死者の大々的な招魂祭を開催、のちに、招魂場は桜山神社へと、改称された。

高杉晋作と共に、奇兵隊のリーダーとして戦った、大村益次郎は、兵の士気を高めるため、招魂祭の果たす役割を熟知していたからこそ、東京招魂社の建立に、並々ならぬ、力を注いだのである。東京は制したとはいえ、東北にはまだ、幕府を支持する勢力が残っており、さらに激しい内戦が不可避だったからだ。

靖国神社は、そうした明治維新政府の、戦意高揚策から生まれた、元々、特異な神社だったのだ。

事実上の創建者、大村益次郎像を通り過ぎると、第二鳥居が見えてくるが、その前に、左右に2基、建っているのが、大燈籠である。ここも、ちょっと、立ち止まっていただきたいポイントである。

「高さ一三メートル。高さ九七センチ・横一三六センチのレリーフがはめこまれています。左側に陸軍、右側に海軍の日清戦争から満州事変までの主な戦闘場面が描かれています」と、『靖国神社百年史』には、その記述がある。大燈籠は、富国徴兵保険相互会社(現フコク生命)が、寄付したもである。

靖国神社の歴史とは、そうした、日本の対外侵略の歴史そのものであり、そうした侵略戦争の過程で、天皇の軍隊のみを、「英霊」として祀って、祭神とすることで、発展してきた神社なのだ。まさに、辻子実さんがいうところの「侵略神社」、そのものである。

靖国神社は、1879年、陸海軍省の要望もあり、東京招魂社から、そう、改名された。当時の祭神数は、一万柱あまり。それが、今では、二四六万を超える祭神数になっている。その祭神数の増加は、いうまでもなく、日清・日露戦争を経て、太平洋戦争に至る、日本の対外侵略史における、皇軍の戦死者数と、完全に、一致している。

ところで、靖国神社の例大祭は、1912年に、春と秋の2回に改められた。春の例大祭は、4月30日の「日露戦争凱旋陸軍大観兵式」、秋の例大祭は、10月23日の「同海軍大観艦式」に、それぞれ、基づくものであった。極めて、軍事的な色彩の強い例祭なのだということも、知っておいた方がいいと思う。 (以下、続く)’22,11,01

 

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