近年、本書を基に日本でも「公共宗教」概念を使っての研究が存在する。本書の原題は確かに Public Religions in the Modern World であり、その直訳なのだが、本書の内容に即して正しく訳するならば「欧米社会のカトリック」ではないかという疑念が評者にはある。日本ではカトリックというと大文字のCatholicが考えられるが、もともと小文字のcatholicは「普遍的な」という意味を持つ。辞書的に言えば、
catholic【形】
普遍的な、全ての人に関わる[を含む]
〔興味などが〕広範囲の、視野が広がった
〔人が〕包容力がある、心が広い
Catholic【形】
(ローマ)カトリック教会の◆【略】C.
キリスト教徒[教会]の
〔分離前の〕初代キリスト教会の◆【略】C.
【名】
(ローマ)カトリック教徒[信者]◆【略】C.
https://eow.alc.co.jp/search?q=catholic
である。プロテスタント教会でも使われる「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」で始まる「使徒信条」の「聖なる公同の教会」(蛇足だが、ここから日本では英国国教会を聖公会と呼ぶ)も英文ではthe holy catholic Churchである。
http://seig16.seigakuin-univ.ac.jp/ryokusei/shito_shinjo.html
publicとcatholicは確かに異なるのだが、先の評者の疑念は、この構成にある(数字は各章のページ数)。
ここに見るように、取り上げられているのは、スペイン、ポーランド、ブラジル、合州国におけるカトリックであり、それに合州国のプロテスタントが添えられているだけである。
著者自身、「改訂日本語版への序文」において、「あきらかに西洋中心の研究」(013ページ)と述べ、訳者も「訳者あとがき」で、「事例の選択にやや不均衡があり、……この不均衡と関連のなさ故に、かえって、公共宗教の復興がそれぞれの特殊な条件を超えたグローバルな趨勢であることが、浮き彫りにされている」(481ページ)と述べている。
また、記述には歴史性がない。上にページ数を示した長大な注に示されるように、多数の参考文献があるので、歴史記述はそれですませるつもりかもしれない。そこで、各国事情をよく知る読者は興味深かったと言ったが、その各国事情を知らない評者はなんとも評価することができない。
「【報告】『近代世界の公共宗教』再読」(東京大学東アジア藝文書院:2021. 11 16. https://www.eaa.c.u-tokyo.ac.jp/blog/20211101-1/)には、スペインの事例に対する反論や地域主義の複雑さが指摘されている。その意味でも評者には、本書をそのままに受け入れることができなかった。
また、「反全体主義的な潜在力」(220ページ)、「共産主義国家の崩壊」(233ページ)、「共産主義国家に対する社会の統一抵抗運動の必要が消滅するやいなや」(242ページ)といった文言には、著者の共産主義に対する敵意を感じる。
評者には、本書をきちんと紹介できなかったが、高田宏史「公共宗教と世俗主義の限界—ホセ・カサノヴァとチャールズ・テイラーの議論を中心に—」(日本政治学会『年報政治学』:2013年64巻1号 p. 1_38-1_59)https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku/64/1/64_1_38/_pdf/-char/ja
には、本書の要約が掲載されている。関心のある読者は、参照されたい。 (ぐずら)