安倍の暗殺、現場から思うこと

永田浩三

安倍晋三が暗殺されてまもなく2か月。国民の税金を使う国葬の是非だけでなく、統一教会と安倍や自民党全体とのただならぬ関係が暴露されるにつれ、安倍というひとの闇の深さが日々明らかになっていく。

7月21日、わたしは近鉄大和西大寺駅北口の現場を訪ねた。朝7時。ワイドショーのためか、テレビカメラが数台待ち構えていた。銃撃がどこでなされたのかはすぐわかった。多くの花が手向けてあったからだ。線香のけむりが立ち上る。その瞬間、かつて阪神・淡路大震災の直後に現場を長く取材したときのことがよみがえった。あのとき家屋の倒壊や火事で多くのひとたちが命を落とした。コンビニも開かないなかで、辻々に花が置かれていた。ここで多くの人が亡くなり、悲しむひとが町じゅうにいることを実感した。

安倍の死を悼む花。しかし、当人は閻魔様さえだましかねない嘘つき政治家なのだ。どんな理由でわざわざ花を持ってきたのだろうか。激しいとまどいを覚えた。

気持ちを鎮めるために、近くを歩いた。唐招提寺、薬師寺。大きな伽藍は炎熱のなかで静かだった。寺に向う途中、巨大なサギのコロニーに出会った。飛翔する姿は優美だが、住まいの森の木々は、一面真っ白な糞に覆われていた。思えば、古代から天皇を頂点とする権力者たちは闘争や裏切りを繰り返してきた。奈良の古寺の慈愛にあふれた仏たちの陰には、人間の恨みや怨念が張り付いているように思う。

今回の安倍暗殺。容疑者は統一教会によって家族がボロボロにされた被害者だった。当初は統一教会の幹部を襲うことを考えたようだが、かなわず、癒着が明白な安倍を標的に変えたという。殺害行為そのものは許されることではないが、山上徹也という41歳の人生において、相応の理由が存在したことについて、今後より深い原因究明が必要だと思う。

あの日は金曜日。正午近くに、突然わたしの携帯電話が鳴った。まだ大学のゼミの最中だった。電話の主は、ネットからの情報として、「安倍が倒れた。理由は不明。ただ付近で爆発音が聞こえた」と教えてくれた。「永田さんは安倍さんには特別なこだわりがあるでしょうから、何をおいてもお伝えしなきゃと思いました」と付け加えた。

動揺した。脳梗塞か心筋梗塞だろうか。ゼミの進行は学生たちに任せ、すこし早く店じまい。研究室に戻りパソコンで検索する。そこからはテレビやラジオのニュースや現場からの中継、スタジオでの解説の嵐の中に身を置いた。散弾銃が使われたという未確認の情報が飛び交った。

わたしはかつて朝日新聞阪神支局襲撃事件を取材したことがある。犯人は散弾銃を使っていた。小尻知博記者のからだのなかで散弾は暴れまわり手の施しようがなかった。

今回は散弾銃ではなく、手製の銃の弾が致命傷となり安倍は絶命した。阪神支局の事件を取材した『記者襲撃』の著者、元朝日新聞記者の樋田毅さんは、教団の実名は伏せながらも、犯人が統一教会の関係者である可能性があると書いた。1970年代から90年代前半にかけて霊感商法の被害はすさまじかった。朝日新聞社は、朝日ジャーナルを中心に、その悪質さを暴いた。わたしがいたNHKも何度も被害を伝える特集を放送し、放送センターの建物がとり囲まれることもあった。記者の殺害は、言論・表現の自由への重大な挑戦であった。銃でメディアの人間を脅し黙らせる。その後遺症は深刻である。メディアは委縮し、忖度によって自主規制する。こうしたことで被害を被るのは視聴者や読者だ。真実を知る機会を奪われ、社会は健全さを失う。

安倍が殺害されたとき、一部のメディアや政治家は民主主義を守れという論陣を張った。冗談はよしてほしい。安倍こそが日本の民主主義を破壊し、言論弾圧の先頭に立っていたのだから。

22年前のこと。わたしはEテレのドキュメンタリー番組「ETV2001」の編集長だった。戦争の世紀と言われた20世紀が終わり、21世紀を迎えるにあたって、ナチスドイツに協力したフランスのビシー政権、日本軍「慰安婦」問題、ユーゴやルワンダでの戦時性暴力、南アフリカの真実和解委員会などをテーマに4回のシリーズが放送された。そのなかで日本軍「慰安婦」問題を取り上げた番組の放送直前に、安倍たち自民党の政治家が、NHKの幹部を呼びつけ、内容に介入。安倍らの意見を受け入れたNHK幹部が、わたしを含む現場の制作者に内容の変更を命令し、番組が大きく変わる事件が発生した。

政治家の介入については、2005年朝日新聞がスクープし、われわれ現場の人間もその詳細を初めて知ることとなった。安倍たちがNHKにちょっかいを出したのは、維新政党新風に促された日本会議の働きかけがあったからだとされている。

安倍が初めて国会議員になったのは1993年。宮澤喜一内閣が選挙に敗れ、細川連立政権が誕生したとき。1991年に金学順さんが「わたしは日本軍の慰安婦だった」と実名で名乗り出たことをきっかけに、宮澤内閣は被害の調査を開始。河野洋平官房長官が、「慰安婦」問題の責任を認め、悲劇を繰り返さないために、研究や教育を通じて永く語り継いでいくことを世界に約束した。これがいわゆる河野談話である。

しかし、そうしたことは日本人の誇りを傷つけるとして、1997年、安倍たちは日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会を結成。同じ時期に、新しい歴史教科書を作る会や日本会議も発足した。真っ先に標的となったのは、歴史教科書に「慰安婦」問題を取り上げた教科書会社であった。経営基盤が弱い出版社は、攻撃にひとたまりもなく、「慰安婦」問題の記述は、次々に姿を消した。次なる攻撃の対象となったのは放送番組だった。憲法21条には、言論・表現の自由がうたわれ、2項には、「検閲はこれをしてはならない」とはっきり書かれている。当時の安倍の役職は内閣官房副長官。行政の一翼を担う政府高官であった。もし、政府高官が憲法で禁じられた検閲行為を行い番組が変わったことが発覚していたら、安倍は首相になる前に失脚していたのではないか。

だが、編集責任者であるわたしはNHKの幹部の理不尽な指示に徹底して抗うことはできなかった。制作にあたったプロダクションの仲間を守りきれなかった。一生背負っていかなければならない禍根だ。

安倍という人間は、日本会議からだろうが統一教会だろうが、得だとみれば、たやすく意見を受入れ、圧力をかけ、見返りとしての選挙協力を受ける。そうやって総理大臣の座を射止め、7年8か月その座に恋々とした。

今回の国葬については、そもそも法的な根拠がないこと、2億を超える(地方公務員のシャドーワークを含めると2桁違う)税金投入に批判が集まり、世論調査も反対が過半数を占める。だがまず批判されるべきは、安倍は国葬に値しないどころか、森友・加計・サクラに代表されるように、まず司直の手で捜査され、仮に有罪になれば罪を償うべき存在であったことを忘れてはならない。公文書改ざんに手を染め、自ら命を絶った赤木俊夫さんの無念は解消されないまま、逃げ切ることなど許されない。死んだあとも、その責任は追及されなければならない。

9月27日。学校などでは半旗を掲げ、黙祷を強いて内心の自由を侵害するのだろうか。テレビメディアは安倍の暗部に目をつぶり、功績を礼賛し、張りぼてのような一生を偲ぶ番組を垂れ流すのだろうか。たとえそうであっても、思いを同じくするひとたちとともにわたしは反対の声を上げる。

カテゴリー: 状況批評 パーマリンク