死者を利用する「追悼」儀礼を許さない

私たちはこれまで、天皇制日本国家による侵略戦争と植民地支配責任を問い続け、その一環として、8月15日には「国家による慰霊追悼を許さない」として、靖国神社や追悼式典に向けた街頭行動を行なってきました。

侵略戦争や内戦、世界の各地においてさまざまな形態での戦争が続いているなかで実施されるこの日には、誰もが知るように、つねに誇張された「我が国の平和と繁栄」そして「戦没者」への「感謝・慰霊・追悼」が、大がかりに喧伝されてきました。戦争犯罪も戦争被害も具体的にされることはなく、戦争責任をないものとして国家統合を謳いあげるためにこそ、この日のイベントは開催されるのです。

死者たちにはいずれにも具体的な死の「理由」が存在します。大日本帝国の「敵」とされた人びと、「日本人」として死んだアジア太平洋の植民地の人びとのそれぞれについて語られることはほとんどありません。「戦没者」としてひとくくりにされる「日本人」においても、戦闘行為における死よりも、拙劣で粗悪な国家の軍事政策や補給、衛生体制による、餓死や戦傷病死がその大多数を占めるということすら、ようやく知られはじめたばかりです。日本軍の侵略において略奪や暴力、性的暴行があたりまえのように繰り返されたことは、「戦地では当然」とされ、女性に対する性奴隷制度にも典型的なように、少ない生存者による告発すらも揉み消されてきました。

布告のない戦闘攻撃による緒戦の「勝利」に欣喜雀躍した天皇ら国家指導者たちにより、この列島においても、さまざまな過程を経て死者が拡大していったことは、何度でも指摘されなければならないことです。天皇を頂点とする国家の戦時体制は、軍隊から国家さらに企業や私的な組織、関係をも腐敗させ、いじめと服従を通じて恐怖支配の体制をつくり上げました。逃亡や降伏はもちろん、ちょっとした忌避や厭戦意識すら許されることなく相互に監視させられ、沖縄戦においては兵士でもない住民が自死を強いられました。そうした死を「玉砕」と飾り立てる一方で、日本軍参謀らはこっそり「内地」に異動していたなどのおぞましい例は数え上げるにきりがありません。天皇や政府、陸海軍の大多数は、敗戦が露わな事態になってもそれを認めず、原爆投下やソ連参戦まで「国体護持」を名目にして、民衆を死に駆り立て続けたのでした。昭和天皇裕仁が、広島長崎について「やむをえない」とし、戦争責任は「文学」の問題で自分は関知しないとしたことなどは、その卑劣さを露骨に示しています。これらの異常な社会体制が許されるはずもないのに、こうしたことは、常にどこの国にもあること、戦争だから仕方がない、とされてきたのです。

今回の8月15日の反「靖国」行動は、ロシアの侵略にはじまるウクライナ戦争が続くなかで取り組まれることになります。このおぞましい戦争を機に、核保有への意図を「核の共有」と言い換えつつ、日米安保やNATO強化、世界第三位となる軍事費増額を求め、戦争への加担を打ち出した保守・極右勢力は、安倍自身の突然の死を経ても、とどまることはなさそうです。「国家を守る」ことを拒絶し、反戦の意志を鮮明にしていくことは、いまこそ重要です。

この行動は、いつも、右翼団体が叫ぶ「コーロセ殺せ」の呪詛を聞きながらの行動となっています。しかしこれは、個別の死の意味とともに、ひとが具体的に想像することすらできない数百万人さらには数千万人にも及ぶかもしれない戦争や政治のなかの死者にこころを寄せる行動です。ぜひとも参加を! (のむらともゆき)

*初出:「アナキズム」第29号 2022年8月1日発行

カテゴリー: 呼びかけ, 天皇制/王制論, 靖国神社問題 パーマリンク