政治性を楽しんでいる?——徳仁誕生日会見

中嶋啓明

自分が政治的な存在であることが暴露されることに、もはや何のためらいも抱かず、それどころか開き直っているかのようだ。

2月23日の徳仁の誕生日会見。

コロナ禍の中、感染拡大を危惧して多くの民衆から上がる抗議の声を無視して東京五輪は強行開催された。だが、徳仁はそんな五輪を礼賛し、五輪強行に象徴されるような数々のコロナ失政を免罪し、民衆に責任転嫁する。入院先の確保どころか、検査を受ける場所さえなかなか見つからずに右往左往させられる多くの民衆を尻目に、自分たち一族は、何の苦労もなくサッサと最高クラスの医療を受けることができる。そんな特権的立場にいることに胡坐をかいて、過労死寸前の状況を強いられている医療関係者らに、上から目線で歯の浮くような口先だけのオベンチャラで政治の責任を隠ぺいすると同時に、それら関係者の“頑張り”をあたかも人種的特性であるかのように言い募って、人々のナショナリズム感情をくすぐり煽動した。

徳仁は、会見でこんなふうに語った。

「医療従事者の皆さんは、自らの感染の脅威にさらされながら、強い使命感を持って、昼夜を問わず、最前線で患者さんの命を救うための尽力をされています。また、罹患した人々を適切に医療現場につなぐべく、同様に尽力されている救急隊や保健所などの関係機関の皆さんのご苦労もいかばかりかと思います」。「親しい人との直接的な接触を避け、暮らしの隅々にも注意を払うよう、自らのできる範囲で感染の拡大防止に努めている人も多くいると思います。こうした国民の皆さん一人一人の努力を深く多といたします」云々と…。

そして、このようにアリガタイ“思し召し”を垂れた。

「私たち一人一人が防災や減災の意識を高め、災害に対して自らの備えをするとともに、どこかで災害が起きたときには、一人一人が、自らのできる範囲で被災した人々に寄り添い、その助けとなるべく行動できるような社会であってほしいと願います。」

東日本大震災の発生から11年を目の前にした会見で徳仁は、トルコで起きた地震の復興支援に参加した日本人ボランティアの活動をあえて取り上げ、「日本の多くの人々が国内外で災害ボランティア活動に従事してくれていることに敬意を表したい」と述べた。

徳仁は、東日本大震災について語りながら、福島原発事故には一言も触れなかった。徳仁にとっては、もうあらためて思い浮かぶこともないほどの小さな問題なのか。それとも、東京電力の責任を隠ぺいするため、あえて言及しなかったのか。

「週刊誌報道やインターネット上の書き込み」と、ことさらに例に挙げて見解を問うた質問に対して、「一般論」と断りながら、表現の自由をめぐる自らの見解を披露。当たり障りのない、非政治性を装った「一般論」だが、同時にここぞばかりに「皇室に関する情報をきちんと伝えていくことも大事なこと」と、自己PRの正当性を強調することを忘れなかった。

「沖縄が被った戦争被害」などと、他人事のように語り、天皇制と祖父裕仁の戦争責任を隠ぺいすることにも余念がない。

影響力を駆使できている自分の姿を自覚して悦に入り、天皇という存在の政治性を楽しんでいるかのようだ。

宮内記者会は最初の質問をこう徳仁に投げかけている。

『国民と直接触れ合う機会が限られる状況の中、オンラインで各地を訪問された感想や、今後「ウィズコロナ」や「ポストコロナ」での活動のあり方についてもお考えをお聞かせください。』

「ウィズコロナ」という言葉は、それ自体の中に、ある種の政治的な意図が含まれ、一つの政治スローガンのように使われている。こうした言葉を、何の疑いも差し挟むことなく共通了解のように使って回答を促し、答える側も何の躊躇もなく滔々と見解を披歴してみせている状況そのものに、天皇会見という舞台の政治性を思わざるを得ない。

こうしてメディアは、自らの役割をめぐる自省や自制をかけらも見せることなく、ただひたすらに、下々の庶民に対するモッタイナイ“お言葉”を押し戴き、父親や親族の一員としての姿を強調する徳仁をほめそやした。

「愛子さまへ のぞかせた親心」(『朝日新聞』2月23日朝刊)、『コロナ「乗り越えられる」/国民を案じ』(『毎日新聞』同日朝刊)等々等々…。

毎度のことながらウンザリさせられる。

2月17日、悠仁が筑波大付属高校の入学試験に合格したとの宮内庁発表が各紙に載った。大きな記事に仕立てられた、その脇には、悠仁の盗作疑惑に関する記事が付いている。週刊誌が先行していた内容の一部を宮内庁が認めたものだが、新聞各紙は「参考文献の記載が不十分だった」との発表をそのまま報じ、ことさらに問題を小さく見せようとする宮内庁の思惑に従った。それどころか悠仁が指摘に感謝していると付け加え、あたかも誠実な態度をとっているかの如く繕った。

これが一般人相手なら、メディアは挙げてあら捜しし、社会的に葬り去るようなこともやりかねないのだが…。

折しも3月3日は「全国水平社」の創立から100年に当たるという。『朝日』は2日の社説で「差別なくす決意新たに」と掲げ、『毎日新聞』は同日のオピニオン欄に、研究者ら3人の識者の論考を並べるなど、各紙は相次いで社説や企画記事に大きな紙面を割いた。

それらをザっと一読して、あることに気がついた。天皇制の「て」の字もない。被差別部落等の差別問題を考えるとき、どのように触れるかはさておき、天皇制を抜きには語れないのではと思い込んでいたが、カマトトが過ぎたようだ。

これがメディアの現状。メディア仕掛けの天皇制は、よく機能している。

*初出:「今月の天皇報道」『月刊靖国・天皇制問題情報センター通信』
no. 207, 2022. 3

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