『読売新聞・歴史検証』(8-6)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第八章 関東大震災に便乗した治安対策 6

戒厳司令部で「やりましょう」と腕まくりした正力と虐殺

 戒厳司令部の正式な設置は、形式上、震災発生の翌日の午前中の「裁可」以後のことになる。だが、震災発生直後から、実質的な戒厳体制が取られたに違いない。前出の松尾論文「関東大震災下の朝鮮人虐殺事件(上)」には、当時の戒厳司令部の参謀だった森五六が一九六二年一一月二一日に語った回想談話の内容が、つぎのように紹介されている。

「当時の戒厳司令部参謀森五六氏は、正力松太郎警視庁官房主事が、腕まくりして司令部を訪れ『こうなったらやりましょう』といきまき、阿部信行参謀をして『正力は気がちがったのではないか』といわしめたと語っている」

 文中の「阿部信行参謀」は、当時の参謀本部総務部長で、のちに首相となった。これらの戒厳司令部の軍参謀の目前で、腕まくりした正力が「やりましょう」といきまいたのは、どういう意図を示す行為だったのであろうか。正力はいったい、どういう仕事を「やろう」としていたのだろうか。「気がちがったのではないか」という阿部の感想からしても、その後に発生した、朝鮮人、中国人、社会主義者の大量「保護」と、それにともなう虐殺だったと考えるのが、いちばん自然ではないだろうか。森五六元参謀の回想には、この意味深長な正力発言がなされた日時の特定がない。だが、「やりましょう」という表現は、明確に、まだ行為がはじまる以前の発言であることを意味している。だから、戒厳司令部設置前後の、非常に早い時点での発言であると推測できる。警察と軍隊は震災発生の直後から、「保護」と称する事実上の予備検束を開始していた。その検束作業が大量虐殺行動につながったのである。


(8-7)「社会主義者」の「監視」と「検束」を命令していた警視庁