『読売新聞・歴史検証』(8-7)

第二部「大正デモクラシー」圧殺の構図

電網木村書店 Web無料公開 2004.1.5

第八章 関東大震災に便乗した治安対策 7

「社会主義者」の「監視」と「検束」を命令していた警視庁

 関東大震災後の虐殺事件では、直接の殺人犯を二種類に分けて考える必要がある。

 第一の種類は、いわゆる「流言」「噂」または「情報操作」にあおられて、朝鮮人や中国人を無差別に殺した一般の自警団員などの民衆である。前項で検討した材料から判断すれば、虐殺を煽ったのは正力ほかの警察官であり、こちらの方がより悪質な間接殺人犯である。背後には日本の最高権力の意思が働いていた。

 同じ中国人の殺害でも、のちにくわしくふれる王希天のような指導者の場合には、ハッキリと「指名手配」のような形で拉致監禁され、しかも、職業軍人の手で殺されている。日頃から敵視していた相手を、地震騒ぎに乗じて殺したことが明らかである。朝鮮人についても同じような実例があったのかもしれない。社会主義者の虐殺に関与したのは、明白に、警察と軍隊だけであった。これらの、相手を特定した虐殺の関与者が、第二の種類の職業的な直接的な殺人犯である。その罪は第一の種類の場合よりもはるかに重いし、所属組織の上層部の機関責任をも厳しく問う必要がある。上層部による事後の隠蔽工作は、さらに重大かつ悪質な政治犯罪である。

 正力らが犯した政治犯罪を明確にするために、虐殺事件の問題点を整理してみよう。

 中国人指導者の王希天や日本人の社会主義者の場合には、かれらが警察と軍の手で虐殺されたのは、いったん警察に「指名手配」のような形で拉致監禁されたのちのことである。警察の方では、軍に身柄を引き渡せば殺す可能性があるということを、十分承知の上で引き渡している。軍の方が虐殺業務の下請けなのである。当時の制度では、戒厳令のあるなしにかかわらず、市内秩序維持に関するかぎりでは警視庁の要請で軍が動くのであった。全体の指揮の責任は、警視庁にあった。警視庁と戒厳司令部の連絡に当たっていたのは、官房主事の正力であった。

『巨怪伝』では、つぎのような経過を指摘している。

「九月五日、警視庁は正力官房主事と馬場警務部長名で、『社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ』という通牒を出した。さらに十一日には、正力官房主事名で、『社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ』という命令が発せられた」

 これによると、「社会主義者」の「監視」または「検束」に関する警視庁の公式の指示は、九月五日以後のことのようである。ところが、「亀戸事件」の犠牲者、南葛労働組合の指導者、川合義虎ら八名の社会主義者が亀戸署に拉致監禁されたのは、それ以前の「三日午後十時ごろ」なのである。


(8-8)「使命感すら感じていた」亀戸署長の暴走を弁護する正力