『読売新聞・歴史検証』(10-1)

第三部「換骨奪胎」メディア汚辱の半世紀

電網木村書店 Web無料公開 2004.2.9

第十章 没理想主義の新聞経営から戦犯への道 1

「エロとグロ」から「血しぶき」に走った正力と「言論弾圧」

 読売の社史類における正力時代の描写の中でも、一番許しがたいごまかしは、正力が積極的に推進した「黄色主義」、イエロー・ジャーナリズム、煽情主義的かつ好戦的報道の、歴史的評価である。

 まず最初に、同時代の論評を紹介しておこう。すでに詳しく紹介済みのタブロイド新聞、『現代新聞批判』には、三回連載の「読売新聞論」や「『読売』時代と黄色主義」などの読売批判記事が何度も掲載されている。

 同紙の記事、「官界や実業家から新聞に転向の人々」(35・4・1)では、正力を「最も恵まれている」部類に入れつつ、「柄は決して上品ではないようだ」と評価している。「上品ではない」のは、個人の人柄のことだけではない。社長の人柄は、当然、すぐに紙面に表われる。「東京新聞評論(七)」(36・6・1)では、非常に分かりやすく「読売のエロ・グロ」と題して読売を痛烈に批判し、「正力の反省を促したい」と論じている。

 この記事が発表された一九三六年(昭11)という年は、二月二六日に首都東京で千数百人の陸軍部隊が反乱に動員されるという空前絶後の重大事件、いわゆる「二・二六事件」が発生した年である。

 時代背景の前後を見渡すと、一九三二年(昭7)三月一日の満州国デッチ上げから数えて四年後、ドイツでヒトラー政権が成立してから三年後になる。一九三一年(昭6)九月一八日の満州事変勃発から「日中一五年戦争」がはじまったとする時代区分によれば、開戦後五年目の「戦争中」になる。いずれにしても、まさに「昭和の動乱」のまっただなかである。

 二・二六事件では、反乱部隊の一部が「反軍的」だと評価する朝日新聞をおそって、活字ケースをひっくりかえした。その程度の、そこらの町のチンピラがやらかしそうな、お粗末極まる襲撃ぶりでしかなかったのだが、それでも、『現代新聞批判』(36・3・15)に「二・二六事件報道で腰を抜かした読売」などと題する記事が現われる事態が発生した。同記事によると、読売は「渡辺教育総監横死」の号外発行で「別に深い考えもなく」二・二六事件報道の先鞭をつけたのに、たちまち、つぎのような状態に陥ってしまったのである。

「その後になって東朝が襲撃されたと聞いて、読売の編集局はすっかり縮み上がった。早まって号外を出したから〇〇軍[伏せ字]は押し寄せて来るだろうというので、整理部の連中などは仕事が手につかず、逃げ道ばかり考えていたそうだ。[中略]正力松頚を切られた一度の経験で怖じ気ついたのであるか。さりとは腰抜けの沙汰である」

 さて、このように殺伐な時代背景を考えながら読むと、「読売のエロ・グロ」(36・6・1)と題する批判記事には、かなり腰のすわった見識の高さがうかがえるように思える。記事の冒頭はまず、つぎのようである。

「読売新聞社長正力松太郎は、新聞を売るにはエロとグロでゆくのが一番だと言ったそうだが、驚異的発展を遂げたと言われる読売のその発展の動因のひとつとしてそのエロ・グロ主義を看過することは出来ない」

 なお、『巨怪伝』には、これより八年前の一九二七年[昭2]当時のことが、つぎのように描かれている。

「昭和二年、正力は社会面に早くもヌード写真を載せ、江湖の読者の度肝を抜いた。当時正力は、『新聞の生命はグロチックとエロテスクとセセーションだ』と胸をそらして語り、心ある人々から『正力という男は英語の使い方も知らないのか』と失笑を買った」

 文中の「グロチックとエロテスク」は「エロチックとグロテスク」の語尾変化の取り違えであり、「セセーション」は日本式のカタカナ表記では「センセーション」となるところである。おそらく正力は、読売乗りこみの直後に顧問として迎えた元東京毎夕新聞主幹、小野瀬不二人の口癖を、そのまま得意気に真似して間違えたのであろう。小野瀬は若い頃にアメリカの新聞社ではたらき、帰国後、二六新報と東京毎夕に入り、アメリカ仕込みの斬新な見出しのつけ方で名を馳せた。

 なお、東京毎夕は「エロ・グロ・ナンセンス」新聞の代表だったが、関東大震災を契機に没落した。

 話を「読売のエロ・グロ」批判記事に戻すと、そこでは、以上のような読売の紙面作りの経過を、つぎのように簡潔に指摘し、かつ適切に批判している。

「読売はアメリカのいわゆる黄色紙(イエローペーパー)の行き方を完全に模倣している。徹底したセンセーショナリズム……それが読売の身上であると言っていい。新聞が商品である以上、売れることを第一義としなければならないのは言うまでもない、売るためには大衆の嗜好に投ずる事を考えなければならない、正力のエロ・グロ主義はここから生れて来るのである」

 だが、ここまでは当然すぎるほど当然の一般的批判である。この「読売のエロ・グロ」批判記事の本領が発揮されているのは、むしろ、つぎのような伏せ字まじりの部分であろう。

「一方、読売の発展には時勢もあずかって力がある。大正四、五[一九一五、六]年頃から力強い台頭を見せて来た日本の大衆運動は遂に〇〇主義[伏せ字]の運動にまで発展して、大正の末から昭和の初頭にかけて、それは頂点に達したかの観があったが、政府の徹底的弾圧とこれに伴うファシズムの進出とは、大衆から言論の自由を奪い去った。政府の極端な取締と某方面のテロリズムとが言論界を戦慄させた。新聞はもはや真面目な議論や主張を掲載することを許されなくなった。彼等のペンは去勢され歪められた。こうした時代には大衆は虚無的となり、退廃的となり、怯懦となり、自堕落となる。大衆の文化生活の水準は全面的に低下する。そして彼等の嗜好はエロティシズムやグロテスクネスに堕する。これは日本に限ったことではない。こうした社会情勢のもたらす必然的現象である。

 こうした時勢を洞察したのか或いは盲目滅法のまぐれ当りかは判らないが、とにかく思い切ったエロ・グロ主義で乗り出して来たのが読売である」

 匿名の筆者「X・Y・Z」は、さらに、「調子に乗った昨今の読売は毎夕式あくどさに堕していないかどうか」と問いかけ、「深く正力の反省」をうながす。以上のような辛口批評の最後の締めくくりは、つぎのような強烈な皮肉になっていた。

「読売に対して、いまさら品位を保てとか、政治に興味を持てとか、外電を充実しろとか、難きを強いるほど筆者は野暮ではないつもりだが、読売の将来のために、注意して置きたいのは、エロ・グロにも種切れがあり限界があるものだということだ。そして今にしてこの行き詰まりの打開策を講ずるにあらざれば、豪勇正力も衣川の弁慶坊主のようにエロ・グロの七つ道具を背負ったまま、みぢめな立往生をしなければなるまい」

 ただし残念ながら、この「X・Y・Z」の最後の皮肉な「立往生」の予言だけは外れてしまった。「エロ・グロの七つ道具」のつぎには、本物の武器が縦横に振り回される「戦争」が控えていた。戦争報道こそが煽情主義報道の極致であった。読売は、当然、命がけの戦場(煽情と同音)報道に一路邁進する。記者たちにはミニ版「大和魂」の「読売魂」が吹きこまれた。『読売新聞百年史』では、恥ずかし気もなく「“読売魂”の前線記者」という項目を立てて、自社の記者たちの数多い「戦死」「絶命」「重傷」の取材活動を描いている。

 元読売記者、宮本太郎は、『回想の読売争議/あるジャーナリストの人生』(新日本出版社)の中で、つぎのように語っている。

「敵兵を斬って血しぶきのあがった写真が紙面に出たことがあります。前線へ出て、危険な場所に行かなければ、そういう写真は撮れない。そういう形で戦意をあおったわけです」

 正力の読売経営を論ずる上でもっとも重要な基本姿勢は、それが「言論弾圧」にはじまり、「エロ・グロ」に徹し、ついには「好戦」報道の先頭に立つという、俗悪煽情主義の、それもとくに最悪の典型だったことを、どれだけ明確に指摘しうるかどうかである。「エロ・グロ」路線を犯罪と仮定するなら、その犯罪行為に踏み切った動機は、直接的には拡張販売競争であった。しかし、その真の目的は、権力支配にあった。すでに紹介したように、そのことを正力自身が評論家、杉山平助との対談で、素直に「そうです」と認めていた。「大きな支配する力を握って見たい」ので、「まず新聞の紙数を増やそうと努力」したのである。


(10-2)「黄色主義」の直輸入で「騒音を立て」まくる堕落の先兵